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黒の帳 『一つ目の帳』

眩い金糸

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倒れたまま、私は渡来さんの追撃に身をすくませた。
霞む視界、揺らぎ始める意識の中、まともな抵抗は出来ないと分かっていても、一切力加減のない力が恐ろしくて、…でも、どうしようもなかった。私は弱いから、自分の身を守れない。
渡来さんの足が、勢いよく私の脇腹にめり込む。

「あ、あ"っ!!ぅう……ッ…」
「どいつもこいつも、クソっ!この高校の番長は誰がやってたと思って…」


「今の番長はこの僕、氷川涼だよね」


澄んだ流水のように美しく、それでいて冷たく恐ろしい声が、ぽつんと落とされた。



渡来さんが影になって見えないが、氷川さんが近くにいる。


渡来さんは目を見開いて硬直し、口端を引き攣らせた。私をもう一度蹴ろうと構えた足も、動かなくなるどころか、かすかに震えている。
氷川さんがそんなに恐ろしいのだろうか。

静かな廊下に、こつんこつんと足音が響き、それは渡来さんのすぐそばで止まる。渡来さんの肩に、恐ろしく白い手が置かれるのが見えた。

「渡来、何してるの?」
「………」
「あはは、答えないか。…黒猫、説明してご覧」

渡来さんの体躯のせいで、氷川さんの顔が見えないのがもどかしい。でもこの声色から察するに、恐ろしい形相をしているだろうから、見えない方が良いのかもしれない。

「わ、わたし…は……」
「声が掠れてるね。全然聞き取れないや。まあ、話す気があるならいいんだよ、うん」

話そうとしたのに、畳み掛けるように遮られてしまった。氷川さんは、一体何がしたいのだろうか。
渡来さんは振り向いて氷川さんを見ると、首を傾げた。

「…何してんだ?」
「映像、写真、ボイスメモリ、…全部、君のあの初恋のコトだね。白虎、死神とその鎌、計三人に送った」
「なんだとッッ!!!!!」
「あっはっは。君が僕の指令を守らなかったんだろう?自業自得さ。彼らが言いふらすのも時間の問題。急いで止めたらどうかな?」

渡来さんは黙って走り出した。悪態をつく余裕も無いということだろうか。
走り行く巨体を床でぼうっと見つめていたら、美しく磨かれた革靴が視界に入った。氷川さんが、私をしゃがんで見下ろしている。

「立てるかい?」
「………大丈夫、です」
「そう言うなら立ってくれないか。倒れたままだと痛々しい」

氷川さんが困ったように笑う。
氷川さんの言葉に従い、私は床に手をついた。腹を蹴られたせいか、全身が軋むように痛む。内蔵が詰まってるからなあ。


私は立ち上がろうとしたが、足に力を入れた瞬間、右足に激痛がはしった。思わぬ痛みに体が傾く。

あ、倒れる。

でも、私は倒れなかった。支えてくれたのは、氷川さんだ。氷川さんを見上げると、彼はまたしても困ったように笑った。

「……大丈夫じゃないね」
「…すみません」

私は、右足を庇うようにして立った。

…氷川さんが来てくれなかったら、こんな捻挫ではすまなかっただろう。あのまま苛立ちの発散に使われては、間違いなく無事でいられなかった。

私は何だかんだ色々な人に危ないところを助けてもらっている。
龍牙、クリミツ、紅陵さん、天野君…、何かお返ししなくちゃなあ。

とにかく今は、感謝を伝えよう。

「ありがとうございます、氷川さん」
「…いや、すまないね。渡来への罰はあれじゃ足りないのは分かっている。だが、分かってくれ。彼はあれでも中々の立場にあってね。僕が直接手を下すわけにはいかないのさ。僕に出来るのは、軽い精神攻撃だけ…」

氷川さんは天井を仰ぐと、わざとらしくそう零した。
氷川さんには氷川さんの立場があるのだろう。全てを統括する番長なら、当然といえる。その上氷川さんの家は筋者であり、氷川さんは家を継ぐ気なんだ。そんな彼の気苦労は計り知れない。

私は感謝こそすれ、不満など思いはしない。

「恥ずかしい初恋の思い出なんて軽くはないと思うんですが…」
「……んー、分かんないや。僕には恋愛感情が無いからね。アセクシュアル、無性愛、僕は恋が出来ない」

そこで言葉を切ると、氷川さんはぽんぽんと私の頭を撫でた。
アセクシュアル、無性愛、そんな単語は初めて聞いた。けれど、居るのだろう。愛には色々な形があるのだから、恋愛感情を抱かない人たちが居てもおかしくない。

「……ああ誤解しないでね。大切に思う子はいるんだ」
「誰…か、聞いてもいいですか?」
「不倫で生まれた子だよ」

答えになっていない。というか、そういう人の出自って言っていいものなのか。聞くべきではないかもしれないが、氷川さんから話を出したんだ。もう一度尋ねようとしたら、開きかけた口に指を置かれた。

「…君を信仰する山猫が遠くから見てる。カナリアと狼と、それから……ふふ、あははっ!いいね、面白くなってきた。僕は傍観者として君の学校生活を見させてもらうよ、それじゃあ」

氷川さんは一人で笑うと、綺麗な空色の瞳を愉悦に染めた。変わった人なのは分かっているが、急に笑い出すなんて少し怖いな。

優雅に手を振って氷川さんは去っていく。この前の校内放送といい、神出鬼没な人だ。




…どうしよう。


お腹空いた。


あれほど腹を蹴られたにも関わらず、私は空腹感に苛まれていた。呑気な体だなあ。頭もこれくらい呑気だったら、紅陵さんやクリミツのことで悩まないんだろうな。

「お腹空いたなあ…」
「ふっ」

後ろから吹き出したような吐息が聞こえた。振り向いてみると、笑いを堪えきれないという様子の龍牙がいた。いつからそこに居たんだろうか。

「お前呑気だなあ…」
「何でここに?」
「ん、氷川先輩から連絡あったんだよ。鈴が転けて足捻っちゃったから、迎えに来てあげてって」
「連絡あったんだ…」
「うん」

氷川さんは、いつ携帯を使っていただろうか。渡来さんのデータを送る時に、龍牙にも連絡してくれたのだろうか。
嘘をついてくれている。渡来さんに蹴られたとなれば、龍牙は間違いなく渡来さんに喧嘩を売りに行くからなあ。

「ご飯食べよ…、め、メシ、メシ食おう!」
「…龍牙?」

何故言い直したんだろう。
気になって聞くと、龍牙は頭をかきながらぼそぼそと答えた。

「だって、ガキみてぇじゃん」
「私たちまだ子供だよ?」
「小学生みたいで嫌って意味」

龍牙はふてくされてそう言うと、少し俯いてしまった。

「天野はもっと荒い口調じゃん」
「何で天野君が出てくるの?」
「…うー、なんとなくだよ」

口早にそう言うと、龍牙は私より先に歩いていってしまった。聞かない方が良かったかな。

…さっき、天野君と龍牙の前で、拗ねてしまった。こうして迎えに来てもらうなんて、構ってちゃんにも程がある。

「…さっきはごめんね。めんどくさかったでしょ」
「んーん、そんなことない。何にも気にしてくれない方が寂しいからな」

気を遣わせてしまった。けれど、龍牙の嬉しそうな顔を見ていたら、私まで嬉しくなってきた。

龍牙の手には、私と龍牙、二人分の鞄がある。そういえば鞄忘れてたな。

「龍牙、鞄ありがと」
「…ん」

お礼を言うと、龍牙はまた笑った。龍牙は思ったことがすぐ顔に出る。単純なのか純真なのか分からなくなるけれど、可愛いからもういいや。

鞄を受け取って歩き出す。
もう、今日の学校の時間は終わっちゃったなあ。

失恋したと思って教室から飛び出して、天野君が慰めてくれて、紅陵さんが来て、渡来さんに殴られて…。今日も色々あった。

でも、一番大事なことがある。

「…お腹空いた」
「もう家帰って食えば?」
「そうだね~」

…ご飯食べたい。お腹が空いて仕方ない。

お昼の時間を大分過ぎてしまったから、もう家で食べてもいいかもしれない。でも、もう少し学校に居たい。

…あの一人きりの家は、少し寂しい。

隣を歩く龍牙を見ながら、少しだけ、ほんの少しだけ、羨ましく思った。


龍牙の家は、賑やかなんだろうな。
妹がうるさい、母さんがガミガミ言ってくる、父さんは声がでかい、龍牙はそう言うけれど。

私には、無いものだから。
私には、何があっても、与えられない環境だから。

小学生の帰り道。愚痴を言う龍牙に、大変だね、と笑ったけれど、本当は、泣きそうだった。

小さい頃は、その羨望から龍牙の家の子になりたいと思っていた。でも、遊びに行った時に分かったんだ。

本当の家族・・じゃなきゃ、ダメなんだ、って。

龍牙のお母さんは、他所の子だからと気を使う。
龍牙の妹…あやちゃんは、お兄ちゃんの友達として遊んでくれる。
龍牙のお父さんは、他所の子だから絶対叱らない。

私はあくまで、他所の子だ。

生まれた時から無条件で愛してもらえる。
そこには、何の隔ても算段も無い。ただただ、無償の愛が与えられる。

羨望は嫉妬に変わり、周りを傷つけるかもしれない。だから、幼い頃に潰したはずだ。
それにも関わらず、病的に私の頭を支配するこの劣等感…寂しさは何だろうか。

「…鈴?」
「んー?」
「何か考え事?」
「ううん、何でもないよ」

龍牙は、こんなに眩しいのに。
明るくて、可愛らしいのに。

私は、こんなにも暗くて、意地汚い。
人を羨んでしまうのは、どうしてだろう。

こんなにも、辛くなるというのに。



そこまで考えた時、携帯が震えた。何の通知か確かめるため、ポケットに手を伸ばす。私の携帯にはストラップが付いている。それを引っ張ったのだけれど、随分古かったのか、ぷち、とちぎれてしまった。まさかちぎれるとは思っていなくて、かしゃんと携帯が落ちてしまった。

「あっ」
「あっちゃあ…」

龍牙が私の携帯を拾い、手渡してくれる。

「新しいケース買えば? つーかヒビ入ってんぞ」
「えっ」

携帯を確認すると、確かに画面にヒビまで入っていた。保護シールを貼っていたから、多分、傷は保護シールだけかな…?ぺらりと捲ってみると、ヒビが入っていたのは保護シールだけだった。

なんだか運が悪いなあ。

今落としたら、画面が割れてしまうかもしれない。携帯が壊れると、修理に時間がかかってその間不便だし、何よりお金がかかる。すぐに保護シールを買いに行かなくちゃ!

「あ、柳駅前に新しい携帯の店出来たらしいぜ。ダチが品揃え良いって言ってたし、見に行けば?」
「ほんと? ありがと!」

お礼を言うと、龍牙は照れくさそうにこっちを向いた。

「ん、どーいたしまして!」

にししと笑う龍牙はやっぱり明るくて、私には眩しい。
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