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4.雨に消える慟哭
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しおりを挟む「ねぇ、西條さんの悪い噂知らない?」
女子トイレの手洗い場からそんな話し声が聞こえてきたのは、体育の授業後にトイレ前の廊下を通り過ぎようとしていた、まさにそのときだった。
周りを憚る気配を全く感じられない、よく通るはっきりとした声が自分の名前を呼ぶのを聞いて、嫌な予感しかしないのに、つい立ち止まってしまう。
「西條さん?」
「そう、どんな些細な噂でもいいの。何か知らない?」
別の声の問いかけに、最初のよく通るはっきりとした声がそう答える。
「うーん。わかんないなー。そもそも、西條さんて噂とかされるタイプじゃなくない? 地味すぎて。噂にすらなんないよ」
「まぁね」
聞こえてくるのは、嘲笑にも似た笑い声。そんな言われ方をして全く気にならないのかと言われれば嘘になるけど。すごく胸が痛むというわけでもない。
地味なのは自覚があるし、目立たないのも、目立たないようにしているのも事実だから。
「ところで、どうして西條さん? 西條さんの噂なんか探してどうすんの?」
たしかに、そうだ。私もそれが疑問だった。
もう少し耳をすませていると、私の悪い噂話を知りたがっていた女の子の声が、低く不満気なものに変化した。
「知ってる? 西條さんて、最近よく佐尾と一緒に帰ってるんだよ」
佐尾くんの名前が聞こえてきた瞬間に、私の肩が大げさなくらい、びくりと揺れた。
「え、そうなの? 西條さんが佐尾くんと一緒にいるところなんて見たことないけど。あの子、基本的に教室でもぼっちでほとんど誰とも喋んないじゃん」
「そう。でも最近ね、放課後に佐尾のこと遊びに誘っても、断ってひとりで帰っちゃうの。特に雨の日は絶対に」
「雨の日?」
「そう。だから最初は、雨の日は遊ぶの嫌なのかなーって思ってたんだ」
「うん、気持ちはわからなくもない」
「でしょ。だけど何日か前、雨じゃないのに遊ぶの断られたの」
「そりゃ、そういう日もあるんじゃない?」
「知ってるよ。同中の子とバスケする約束してたりとか。でもそういう理由だったら教えてくれるの」
「そーなんだ?」
「そーなの。なのにその日は理由も言わずに、焦るようにそそくさ帰って行っちゃって。気になるからこっそりあとつけたらさ……」
「待って待って。あとつけたの? いくら佐尾くんのこと好きだからって、美帆ちゃんそれストーカー」
「いや、違うって。最後まで聞いてよー」
ぶはっと吹き出して笑う声に、恥ずかしそうな悲鳴が重なる。
盛り上がる彼女達の声を聞きながら、私はただ女子トイレの前で青ざめていた。美帆ちゃんと呼ばれたその名前で、今話している女子のひとりが清水さんだとわかったから。
「それで話の続きだけどさ。こっそりとあとをつけていったら、昇降口で西條さんが佐尾のこと待ってたの。で、ふたりで一緒に帰って行った」
雨じゃないのに佐尾くんと一緒に帰ったのは、借りていたタオルを返したあの日だけだ。
まさか、清水さんに見られていたなんて……。妙な焦りで、心臓がドキドキと鳴る。
走って逃げたい気持ちでいっぱいなのに、私の足はその場で止まったまま。少しだけ膝が震えていた。
「えー、ウソ。西條さんて、秘密で佐尾くんと付き合ってるの?」
「違うでしょ。絶対ヤダ、そんなの。佐尾があんな地味な子と本気で付き合うわけないじゃん」
「それは美帆の願望でしょ」
「だけどあたし、同中だったから佐尾の歴代彼女だって知ってるもん。西條さんみたいなのは、絶対佐尾のタイプではない!」
「断言?」
もっともなことを言われてるってわかるのに、清水さんの言葉に胸がチクリと痛む。
「断言! 佐尾、西條さんに何か弱み握られてるんじゃないかな」
「まさか。もしかしたら、佐尾くんが西條さんのことが好きってのもあり得るかもよ?」
「やだー。あたしだってずーっとそばで佐尾のこと見てたのに。どうして西條さんみたいな地味な子に横から持ってかれなきゃいけないの? そろそろあたしが報われてもいい頃じゃない?」
ははっと笑い声が聞こえて、上履きがきゅっと床を擦る音がした。清水さん達がトイレの出入り口に向かって歩いてきているのか、少しずつ声が近くなる。それでも、彼女達の話は決して途切れることはなかった。
「佐尾って、昔からぼっちの子とかちょっと暗い子に優しいんだよ。男女問わず……」
ぼっちの子とか、ちょっと暗い子に……。
清水さんの言葉が、グサリと胸に突き刺さる。
そんな言葉、これまで陰で言われ慣れてる。今さら、その言葉で直接的に傷付いたりなんかしない。
だけど私は清水さんの言葉で、雨に濡れたショコラや柵の向こうから警戒心丸出しで睨んでいた茶太郎の顔を思い出してた。
そう。佐尾くんは優しいんだ──。傷付いたり、弱い立場にある相手には、とりわけ。
そのとき、ちょうど女子トイレから出てきた清水さんとその友達が、廊下で棒立ちになっている私の存在に気が付いた。
私の顔を見た瞬間、清水さんの友達の顔が「あっ」と気まずそうに歪み、そうしてふたり同時に口を閉ざす。
清水さん達は、私から不自然に視線をそらして通り過ぎると、ふたりで肩を寄せ合ってコソコソ話し始めた。
「聞こえたかな……?」
「平気でしょ」
聞こえてるよ。
心の中で、ひとりごとみたいにつぶやく。
しばらくそこに立ち尽くしたまま、私は胸のざわつきをなかなか落ち着かせることができなかった。
ぐるぐると胸に渦巻く苦い感情。
今もし誰かに軽く触れられでもしたら、きっと、それだけで泣くと思う。
その日の放課後、不運にも雨が降った。
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