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第1章 スズメの上京
第1話 名無しスズメ
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「おい、お前、今日も元気だな」
青年は優しく声を掛ける。
「チュン、チュチュン」
日は西に傾き、遠くでカラスの鳴き声が聞こえる。気持ちのいい風が青年の髪を揺らす。
「髪、切らないとなぁ」
風に吹かれて前髪が目にかかる。手櫛で整えながら、青年は弱弱しく語りかけた。
「スズメはいいなぁ。空を飛べるのもいいけど、こんなに小さな身体なのに、生気に満ちている。僕とは大違いだ」
青年は名を剛(ごう)という。親の思いとは裏腹に、子供のころから病弱で毎年のように病院の世話になっていた。
「僕はそれでも恵まれている。あの家に生まれなければ、とっくに野垂れ死んでいただろうが、それはそれでよかったのかもと思ってしまうくらいに、僕の人生は退屈なのさ。お前さんはいいな。いつも楽しそうで」
「チュン、チュチュン」
普段は家の中にこもりっきりの青年が、毎日のように散歩に出るようになったのはそれほど前の話ではない。
「二人の兄と、二人の妹はね。僕なんかよりも窮屈な生活をしているんだよ。おかしいだろう。一番上の兄は家の事業を継いでね。帝王学っていうやつ? みっちりオヤジに仕込まれてね。今じゃ、すっかりオヤジのコピーさ。兄は家に縛られている」
「チュン、チュチュン」
スズメはまるで話を聞いていない。いや、聞こえているが意味を解さない。
「二番目の兄は、二番目の兄という言葉に縛られている。一つしか違わない。それこそ順番が違っただけで、背格好もそっくり。腕相撲の戦績は五分五分だったかな。僕は一回も勝ったことがない」
青年は、少しずれてしまったメガネの位置を右手で治しながら、またスズメに語りかける。
「ごめん、この話、前もしたよね。ともかく二番目の兄は、二番目であることに縛られているんだ。そんなもの投げ出してしまえば楽になるのに。そこに行くと一番下の妹は誰よりも自由だ。僕は小枝子(さえこ)がうらやましい。でも、僕なんかよりも上の妹、幸子(さちこ)の方が、ずっと小枝子のことをうらやましく思っているんだよ。うらやましすぎて、うらめしいというほどにね。恐ろしいだろう?」
「チュン、チュチュン」
スズメが青年の顔を見上げた。
「お前は、やっぱりこういう話が好きなんだね。いつだったか、分家の飼い犬がひどい殺され方をしたという話も、面白がって聞いていたね。あれは本当に酷い話だったね。人の恨みを買うと、ああいうことになるんだと、つくづく思ったよ。怖い、怖い」
一見、平和そうに見えるのどかな風景。
青年は村の丘にある大きな木に登り、黄昏ていた。
「結局、犯人は誰かってことはわからなかったけれど、あれはね、誰もが知っているから、それを口にしないといことなんだよ。人の世界は実に珍妙さ」
昨年の暮れ、青年の生家の分家の飼い犬が何者かによって殺害され、木の枝に吊るされるという事件があった。犬は後ろ足を縄でくくられ、腹から首にかけて、鋭利な刃物でまっすぐ切れ目を入れられ、内臓や血が地面に滴っていた。
「見せしめだったんだよ。アレは。あの殺し方にもちゃんとメッセージがあって、あれはつまり、腹の中のものを全部吐き出させてやるという警告さ。分家の分際ででしゃばるなってことさ。嗚呼、いやだ、いやだ。僕はそんなこと考えたくもないのにわかってしまうんだよ。どうすればいいと思う?」
「チュン。チュンチュン」
「そうだよね」
「チュン」
「しがたい。しがたい」
青年は病気がちで友達と外で遊ぶことはほとんどなかった。その分本はたくさん読んだ。おそらくこの村で誰よりも本を読んだ。そしていつの頃からか、人を観察することに興味を覚え、さらに自然現象や生き物を観察することに喜びを覚えるようになった。そして、彼なりに、生き物たちとのコミュニケーションの取り方がわかるようになってきた。
「わかっているとは思うけれど、これは内緒だよ」
「チュン、チュチュン」
「僕はね。もうすぐこの村を出ようと思うんだ。おそらく誰も止めないと思う。むしろ、そうして欲しいと僕の兄弟たちは考えている。最近彼らは僕と口も聞いてくれないんだよ。なぜだかわかるかい?」
「チュン。チュンチュン」
「そう。彼らは僕が怖いのさ。おかしいだろう。僕には何もない。何もないからこそ、僕にはわかることがある。あの人たちは自分が考えていることを人に知られるのをとても嫌うんだ。一番下の妹だってそうさ。ああやって、自由奔放にふるまってはいるけれど、ああ見えて僕と同じような能力に長けている。それでいて二番目の兄以上に、野心を抱いているんだよ。恐ろしいだろう? だから僕は逃げ出すのさ」
「チュン。チュンチュン」
青年は静岡の山中にある豪商、羽佐間(はざま)家の三男として生まれた。
羽佐間剛は、生まれ育った村と、そのしがらみを棄て東京に出ようと決心をした。決心をしたが、なかなか決心がつかなかった。それでこうして木の上に上り、そこに遊びに来るスズメとおしゃべりをするのが日課になっていた。
「僕は物書きになろうと思うんだ。そのためにはこんな田舎にいてはだめさ。もっといろんなものを見て、もっといろんなことを知りたいんだよ」
「チュン、チュチュン」
「ダメだと思うかい」
「チュン。チュンチュン」
スズメが激しく訴える。
「チュン。チュンチュン。チュン。チュンチュン」
「なんだい。一緒についてくるって?」
「チュン。チュンチュン」
「仕方のない奴だなぁ。ではお前さんに名をやろう。でも、一度名を与えれば、その名はお前さんを縛る。ただのスズメではいられなくなる。それでもいいのなら、名をあげてもいいが、どうするかね?」
「チュン。チュンチュン」
「本当にいいのかい?」
「チュン。チュンチュン」
「わかった。僕も決心がついたよ。君と一緒に東京に行こう。じゃあ、名をつけるよ」
「チュン。チュンチュン」
「君の名は……」
青年は優しく声を掛ける。
「チュン、チュチュン」
日は西に傾き、遠くでカラスの鳴き声が聞こえる。気持ちのいい風が青年の髪を揺らす。
「髪、切らないとなぁ」
風に吹かれて前髪が目にかかる。手櫛で整えながら、青年は弱弱しく語りかけた。
「スズメはいいなぁ。空を飛べるのもいいけど、こんなに小さな身体なのに、生気に満ちている。僕とは大違いだ」
青年は名を剛(ごう)という。親の思いとは裏腹に、子供のころから病弱で毎年のように病院の世話になっていた。
「僕はそれでも恵まれている。あの家に生まれなければ、とっくに野垂れ死んでいただろうが、それはそれでよかったのかもと思ってしまうくらいに、僕の人生は退屈なのさ。お前さんはいいな。いつも楽しそうで」
「チュン、チュチュン」
普段は家の中にこもりっきりの青年が、毎日のように散歩に出るようになったのはそれほど前の話ではない。
「二人の兄と、二人の妹はね。僕なんかよりも窮屈な生活をしているんだよ。おかしいだろう。一番上の兄は家の事業を継いでね。帝王学っていうやつ? みっちりオヤジに仕込まれてね。今じゃ、すっかりオヤジのコピーさ。兄は家に縛られている」
「チュン、チュチュン」
スズメはまるで話を聞いていない。いや、聞こえているが意味を解さない。
「二番目の兄は、二番目の兄という言葉に縛られている。一つしか違わない。それこそ順番が違っただけで、背格好もそっくり。腕相撲の戦績は五分五分だったかな。僕は一回も勝ったことがない」
青年は、少しずれてしまったメガネの位置を右手で治しながら、またスズメに語りかける。
「ごめん、この話、前もしたよね。ともかく二番目の兄は、二番目であることに縛られているんだ。そんなもの投げ出してしまえば楽になるのに。そこに行くと一番下の妹は誰よりも自由だ。僕は小枝子(さえこ)がうらやましい。でも、僕なんかよりも上の妹、幸子(さちこ)の方が、ずっと小枝子のことをうらやましく思っているんだよ。うらやましすぎて、うらめしいというほどにね。恐ろしいだろう?」
「チュン、チュチュン」
スズメが青年の顔を見上げた。
「お前は、やっぱりこういう話が好きなんだね。いつだったか、分家の飼い犬がひどい殺され方をしたという話も、面白がって聞いていたね。あれは本当に酷い話だったね。人の恨みを買うと、ああいうことになるんだと、つくづく思ったよ。怖い、怖い」
一見、平和そうに見えるのどかな風景。
青年は村の丘にある大きな木に登り、黄昏ていた。
「結局、犯人は誰かってことはわからなかったけれど、あれはね、誰もが知っているから、それを口にしないといことなんだよ。人の世界は実に珍妙さ」
昨年の暮れ、青年の生家の分家の飼い犬が何者かによって殺害され、木の枝に吊るされるという事件があった。犬は後ろ足を縄でくくられ、腹から首にかけて、鋭利な刃物でまっすぐ切れ目を入れられ、内臓や血が地面に滴っていた。
「見せしめだったんだよ。アレは。あの殺し方にもちゃんとメッセージがあって、あれはつまり、腹の中のものを全部吐き出させてやるという警告さ。分家の分際ででしゃばるなってことさ。嗚呼、いやだ、いやだ。僕はそんなこと考えたくもないのにわかってしまうんだよ。どうすればいいと思う?」
「チュン。チュンチュン」
「そうだよね」
「チュン」
「しがたい。しがたい」
青年は病気がちで友達と外で遊ぶことはほとんどなかった。その分本はたくさん読んだ。おそらくこの村で誰よりも本を読んだ。そしていつの頃からか、人を観察することに興味を覚え、さらに自然現象や生き物を観察することに喜びを覚えるようになった。そして、彼なりに、生き物たちとのコミュニケーションの取り方がわかるようになってきた。
「わかっているとは思うけれど、これは内緒だよ」
「チュン、チュチュン」
「僕はね。もうすぐこの村を出ようと思うんだ。おそらく誰も止めないと思う。むしろ、そうして欲しいと僕の兄弟たちは考えている。最近彼らは僕と口も聞いてくれないんだよ。なぜだかわかるかい?」
「チュン。チュンチュン」
「そう。彼らは僕が怖いのさ。おかしいだろう。僕には何もない。何もないからこそ、僕にはわかることがある。あの人たちは自分が考えていることを人に知られるのをとても嫌うんだ。一番下の妹だってそうさ。ああやって、自由奔放にふるまってはいるけれど、ああ見えて僕と同じような能力に長けている。それでいて二番目の兄以上に、野心を抱いているんだよ。恐ろしいだろう? だから僕は逃げ出すのさ」
「チュン。チュンチュン」
青年は静岡の山中にある豪商、羽佐間(はざま)家の三男として生まれた。
羽佐間剛は、生まれ育った村と、そのしがらみを棄て東京に出ようと決心をした。決心をしたが、なかなか決心がつかなかった。それでこうして木の上に上り、そこに遊びに来るスズメとおしゃべりをするのが日課になっていた。
「僕は物書きになろうと思うんだ。そのためにはこんな田舎にいてはだめさ。もっといろんなものを見て、もっといろんなことを知りたいんだよ」
「チュン、チュチュン」
「ダメだと思うかい」
「チュン。チュンチュン」
スズメが激しく訴える。
「チュン。チュンチュン。チュン。チュンチュン」
「なんだい。一緒についてくるって?」
「チュン。チュンチュン」
「仕方のない奴だなぁ。ではお前さんに名をやろう。でも、一度名を与えれば、その名はお前さんを縛る。ただのスズメではいられなくなる。それでもいいのなら、名をあげてもいいが、どうするかね?」
「チュン。チュンチュン」
「本当にいいのかい?」
「チュン。チュンチュン」
「わかった。僕も決心がついたよ。君と一緒に東京に行こう。じゃあ、名をつけるよ」
「チュン。チュンチュン」
「君の名は……」
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