サーマルカメラの切ない恋

さんかく ひかる

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3 あなたの名前がわかったよ

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「正常温度です」
「正常温度です」
「アルコール消毒をお願いします」

 あたしは、一度見た顔は忘れない。その人が何時にここを通り過ぎたか全部覚えている。
 ヒョロヒョロ銀ぶち眼鏡の00272さんは、今朝も笑顔で私に手を振ってくれた。彼の笑顔は全部忘れない。ほかの人はムスッと視線を外してうつむいているけど、おじさんだけは違うんだ。

 あたしの仕事が一番忙しいのは朝の八時から九時だけど、次に忙しいのはお昼の十二時半から午後一時。
 ランチを終えた人たちが、次々と戻ってくる。00272さんは、ランチにあまり出かけないから、ちゃんと顔が見られるのは一日一回だけ。寂しいなあ。

 完璧ナチュラルメイクの00127さんがやってきた。
 あれ? あたし、どうしちゃったの?
 彼女の顔を見た途端、ぱあっと文字の列が頭に浮かんできた。
 この人の名は、美樹本栄子みきもとえいこさん。株式会社みらい開発の総務課長。十九年前に入社して今、四十六歳。
 このビルは、株式会社みらい開発という小さな会社の社屋なんだ。
 今まで自分で名前を付けていた人の本当の名前・年齢・入社時期が、わかるようになった。

 あれ? 一階ロビーだけではなく、別の映像が見えてきたよ。
 あたしはいつもビル入り口の自動ドアから入ってくる人たちを観察しているが、もうひとつの目が開き、違う景色が飛び込んできた。
 ビル一階を見ているのが右目なら、新しく増えた目は左目、ってところかな。
 左目の前には、事務用の机と椅子がある。すぐ後ろに、ガラス戸の天井まであるキャビネットが三つ並んでいる。

 あたしの耳も増えた。右耳は一階ロビーの靴音を聞いているけれど、左の耳は、機械が唸る音を捉えている。あたしの仲間のようだが、どんな仕事をしているのかわからない。
 あたしが載っている机は、キャビネットと何かの機械に取り囲まれている。
 一階のロビーとは別のフロアにいるみたい。どのフロアかわからないけれど、倉庫のように窮屈な場所だ。

 新しくできた耳が、鈍い靴音をキャッチした。この狭い部屋に人が入ってきたんだ。
 銀ぶち眼鏡の00272さんだ! いつもあたしに笑いかけてくれる人!
 名前がわかったよ! 砂尾理一郎すなおりいちろうさんっていうんだ。株式会社みらい開発の主任で、管理課と企画課を兼務している。入社して二十年になる四十三歳。

 やだなあ。巨乳ダマスカラ女の00125も一緒だよ。彼女の名は、巻田聖良まきたせいら。昨年入社の二十二歳。開発課所属で、砂尾さんと同じ企画課を兼務している。

「砂尾さん、どうです? 社員データ、取り込めました?」

 ダマスカラ……じゃないや、巻田まきたさんが、ピンクのゆるふわヘアを揺らして猫っぽい声出している。なんだか甘えているみたい。いやだなあ。きっと、眼鏡の砂尾すなおさん、すごく困った顔をして……あれ?

「巻田さん、ありがとう。社員証の顔写真を入れたら、サーマルカメラがちゃんと認識してくれたよ。すごいね。マスクを着けた顔なのに。ほら! ここ、画面の右に社員の名前が出るんだ。社外の人はゲスト表示されるね」

 あれ? なんで砂尾さん、巻田さんにヘラヘラしているの? 彼女が若い女の子だから? 巨乳だから? やっぱりおじさんって、みんなそうなんだね。

「社員のデータリストをカメラのシステムが取り込めるよう、フォーマットを変えました。取り込みが上手くいってよかった。通過した時刻だけではなく、表面温度も記録されるんですね。社員の健康管理に応用できるかも」

 そうか。あたしが突然、00127さん、00272さん、00125さんの名前がわかったのは、眼鏡の砂尾さんのおかげなんだ。砂尾さんが教えてくれたんだ。
 なんかうれしい。名前がわかるってすごくうれしい。

「普通のカメラが映す人の顔の映像に、赤外線カメラのモザイクが重なっているんだな。これが表面温度か」

「ひとりずつチェックするモニターでよかったですか? 大きなモニターで一度に二十人検出できるタイプもありますけど」

「うちの会社の規模なら、その方がいいと思ったんだ。同時にアルコール消毒を促して噴霧してくれる。本当にこの子は働き者だよ」

『この子』だって! 砂尾さん、あたしのこと『この子』って言ってくれたよ。
 と、ぽっちゃり刈り上げの00024さんもやってきた。彼は、大山一太おおやまいちたさん。一昨年おととし入社の二十四歳。巻田さんより一年先輩だ。この人は営業課だけど、砂尾さんや巻田さんと同じように企画課兼務だ。

「リーチさん、すげーっすね。なんかよくわかんねーけど、これ、ロビーのカメラのと同じっすか?」

 砂尾さんが答える前に、巻田さんが割り込んできた。

「そうです。社内LANのWi-Fiにつなぎました。サーマルカメラは、このパソコンで操作できますよ」

 うわあ、ダマスカラ、ドヤ顔してやがる。

「すげーな、マキちゃん。俺、全然わかんねー」

「そうだね、巻田さんはIT……いや、今はICTっていうのか、本当に強いね。助かったよ」

 やだ、砂尾さん、ダマスカラにそんなふうに微笑まないで。

「大山さんもがんばってくれたよ。このカメラを試験導入に持ち込めたのは、大山さんがエクス・システムの小佐田おさださんと交渉してくれたからだし」

 砂尾さん、刈り上げ君をフォローしている。優しいなあ。

「いや~、エクスっていろんな仕事やってるっすよね~。もともとイベント屋さんだったのが、いま結婚式場っすよ。式場出席者の体調を管理するために、こいつ開発したらしいっす」

 しゃべりまくる大山さんに、ダマスカラ、じゃない巻田さんがまた割り込んできた。

「大山さんのアレ、交渉っていうんですか? エクスの女の人に、かわい~とか言って、持ち上げてるだけじゃないですか……下手するとセクハラですよ」

「その辺は、気をつけた方がいいな。でも打合せはウェブ会議だけなのに、大山さん、上手くコミュニケーション取っていたよ。私の若いときでは考えられない。業者と直接会わないまま製品納入なんて」

 砂尾さんは、銀ぶち眼鏡の奥から、優しそうな顔を二人に向けていた。
 あたしはその優しい顔を、新しく生まれた左の目で、ずっと見つめていたかった。
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