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三章 国民のアイドル

47 トロントのダヤル本社

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 トロントに入ったアレックスは、ダヤル本社に顔を出した。ニューイヤーを迎えても、雪は見当たらない。トロントは、彼が幼い頃と比べて、すっかり変わった。
 彼は、滅多にダヤル本社に顔を出さない。日本に移ってからは、初めての帰郷だ。

 アレックスが突然本社に現れたので、ロビーは騒めきに包まれる。若い社員は彼の顔を知らない。本社スタッフとは何もかも異なる大きな男が、堂々とフロアを闊歩する
 彼は、ロビー奥の自動ドアの前に立つ。そこへ、一人のスタッフが勇気を振り絞って声をかける。

「失礼、ここから先は、エグゼクティブ専用フロアで……私たちも許可がないと入れません」

「そうか、ありがとう。心配しなくていいよ」

 アレックスは笑った。手をかざすとドアが開く。ダヤル社で彼が開けられない扉はないのだ。

 アレックスは、重役フロアを迷うことなく突き進み、エレベーターに乗り込む。
 ビル中ほどの四十階で降りる。CEOのフロアだ。
 エレベーターを降りた途端、CEO秘書が出迎える。

「アレックス、ルドラはVIP対応中だ。待ってくれないか?」

 秘書はダヤル本社CEOのファーストネームを告げた。

「VIP? 僕は急いでいるんだ」

「やめてくれ! 今、私はルドラに誰も通すなと言われているんだ」

 が、秘書の腕を振り切って、アレックスは迷うことなく、CEO室の扉を開ける。
 応接テーブルで、ダヤル本社CEOが、ジーパンを履いた男と向かい合っていた。
 見た目で判断してはいけないが、CEOの客はVIPに見えない。三十代ぐらいか、CEOより若く見える。

「ああ、アレックス……」

 振り返った本社CEOルドラは、一瞬、目を大きく見開き、口元をほころばせる。が、すぐしかめ面に戻った。

「アレックス、後にしてくれないか?」

「ルドラ! 僕がトロントに帰ってきたのに、家の芝生は伸び放題で、掃除もされてないじゃないか!」

「待ってくれ。それは私の仕事ではない! 君が庭師を雇えば済む話ではないか」

「僕を誰だと思う? 君は僕がラニカのただ一人の息子だと知らないのか?」

「ああ、知っているよ! とにかく後にしてくれないか、今、大切な打合せをしているんだ」

 アレックスは、CEOの相手を振り返った。

「やあ、君がルドラの大切な客か。いつもダヤル社を助けてくれるんだね」

「もちろんさ、オレの言うとおりにしてもらえばね」

 ジーパンの男は、ニヤッと下卑た笑いを見せた。

「こいつを見てくれ」

 男が掌をかかげると、空間に3D映像が表示された。中央アジアの山脈、そして麓の村が映し出された。

「ここは五年前、大国から独立した国だ……国民の教育のためってウシャスを普及し、あんたらもすごい援助している……立派なもんだ」

 山沿いに広がる茶畑、目を輝かせる子どもたち……世界中がこの小さな山奥の国の独立を歓迎した。
 CEOの額に汗が流れる。
 アレックスは、ジーパン男の隣に座った。

「ありがとう。僕はダヤル社のことはルドラに任せているけれど、地球の平和に役立てればこんないいことはないよ」

「笑ってられるのも今のうちだ。俺はこの国に潜入取材した。そしたらな、いつのまにか大統領が、教祖様に祭り上げられていたんだよ」

 空中の映像が切り替わった。黄金のマントを羽織った男が何万もの聴衆の前で腕を上げる。人々は一斉に膝を折り、頭を垂れる。

「おかしいと思って、俺は政府のメインサーバーをハックした。そしたらな、こいつら、ウシャスを使って国民の脳をハッキングし、マインドコントロールしていたんだよ」

 映像は、どこかのサーバー管理室に切り替わる。モニターには文字が並びオペレーターが操作している。

「ウシャスは厳密に管理されてるんだよな? 違法改造したウシャスを政権誕生間もない不安定な国に売りつける、なんてしないよなあ?」

 アレックスは、男の肩に腕を伸ばし、身を引き寄せ、耳元で囁いた。

「君には感謝するよ。そこまでダヤル社に関心を持ってくれて」

「ダヤルのプリンスさんよ。あんただってこれが表に出ればタダじゃ済まねえよ」

「ルドラ。彼は、僕らのためにこんな素晴らしいワークを見せてくれた。ぜひお礼を差し上げないと」

 CEOが「アレックス! やめろ!」と割り込む。

「へ、ありがたいねえ。お礼はそれなりにいただかないとな……地球の平和に絶大な貢献をしているダヤル社が、独裁政権の悪事に加担しているって知られたら、大変なことに……う、な、なんだ!」

 男は頭を抱えうずくまるが、なおもアレックスは男の耳元で囁き続ける。

「君は……アナコンダが苦手なんだね、なかなか可愛い生き物なんだよ。だから、君に素晴らしさを伝えてあげよう」

「う、うわああ! や、やめてくれ! 近寄るなあ。く、苦しい……くうう……嫌だああ! 助けてくれえええ! の、呑まれる……蛇には呑まれたくない!!」

 男は白目をむいて気を失った。
 数分経過し、男は目が覚める。何かに操られたかのように、無言で掌のデバイスを操作した。
 空間に表示された黄金マントの大統領、サーバー管理室のモニターにオペレーターは、瞬く間に姿を消す。

「どうしたんだい?」

 アレックスは、快活に微笑んだ。

「い、いや……俺は……そうだな……あんたらには、これからも俺らのため働いてもらわないとな……じゃ、じゃな」

「君はジャーナリストなんだね。ぜひともダヤル社の株が上がる記事を書いてほしいな」

 ダヤルのプリンスは、ジーパン男の肩をポンと叩いた。

「は、はあ、それは……じゃ、CEOさん、これからもよろしく」

 そそくさと男は出ていった。


 CEOルドラは、アレックスの手を両手で握りしめた。

「本当に助かったよ! ありがとう」

 が、ダヤルのプリンスはCEOの手を、ピシャリと払いのけた。

「ありがとう? 何に対しての礼だ? 僕は、君に礼を言われる覚えはない!」

 青い目がルドラを睨みつける。

「あ、いや、だが……」

「僕はトロントの生家が掃除されていないから君にクレームをした。君の客は大切な人だろうから、僕なりにコミュニケーションを取った。それだけだ」

「ア、アレックス……」

「僕はダヤル社の方針には一切干渉しないよ。だって、ラニカが相談役として守っているんだから」

「あ、ま、まあ、それは……」

「ちゃんと、ラニカに相談しているかい? 理念の低い政権にダヤルの技術を安売りしないでくれ。僕もダヤルの株は少し持っている。株価を下げられたら困るよ」

「すまないアレックス……今から、君の家にハウスキーパーを派遣するよ」

「ルドラ……君は最高の友だよ……眠いなあ。ここで寝かせてくれないか……君ならわかるだろ? ウシャスの力はみだりに使ってはならない……使ったらよく眠らないと大変なことになる……僕のラニカが子守唄を歌っているよ……」

 アレックスはCEO室のソファに沈み込み、眠ってしまった。
 ルドラはスタッフに指示し、眠ったままのアレックスをストレッチャーで運ばせ、彼の生家へエアカーで送り届けた。


 ルドラは誰もいなくなったCEO室で、ソファに身を沈める。目を閉じてフッと息を吐いた。
 このようなことは初めてではない。大体、本社スタッフに処理させている。ほとんどは、相手を徹底的にリサーチし弱みを握ることで解決する。
 しかし、なかには今回の記者のように、しつこく食い下がる者もいる。
 そんな時、ラニカの一人息子、アレックス・ダヤルの特別なチップが力を発揮する。

 ルドラはアレックスに「本社に遊びに来ないか?」「バリ島にいいレストランができたんだ」と告げるのみ。あとは、アレックスが自身の特別なウシャスで、ターゲットを撃退する。

 ダヤルのCEOは何も指示をしてない。
 ルドラは安堵のあまり忘れたが、アレックスにお礼を言ってはいけない。前任のCEOから引き継いだ重要事項なのだ。
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