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四章 花嫁

65 砂漠の女神

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 降り積もる雪は、教会の赤い屋根を少しずつ白に染める。

 フィッシャーはマスコミに、二人の結婚延期を発表した。
 教会内で発せられた鈴木ひみことアレックス・ダヤルの肉声のうち、差し支えない部分を公開した。
 彼らは結婚式直前に話し合い、アレックスが一人で参列者に経緯を説明し、ひみこはボイスメッセージを残すことにした──これが公式事実である。

 ロボットと入れ替わりで逃げることに比べればニュースバリューは低くなるが、それでも、いわくつきのカップルが式の直前で延期。しかも札幌で四月に雪とは今世紀で初めて。大衆は大いに盛り上がった。


 教会で強烈な睡魔に襲われたアレックスは、スタッフの手でホテルに送り届けられた。そのまま彼の暮らすホテルのベッドで寝かされた。
 ベッドルームで、アイーダただ一人が、男を見つめていた。
 研究センターのスタッフが着き添おうとしたが「気を利かせなさい。私とアレクの関係、知らないの?」と言われ、追いだされてしまった。

 小麦色の瞼がゆっくり開いた。青い眼が女優の顔を捉える。

「アレク、本当のあなたと二人きりになるのは十年ぶりかしら?」

 男は力の抜けた顔を、かつての恋人にゆっくり向けた。

「君は……女神だ……温かい……」

 女優は男の頬を両手で包み込んだ。男は目を閉じる。

「だめよ、アレク。私をちゃんと見て」

「……君が僕の瞳に映っている……美しいな……何をするんだ! やめろ!」

 アレックスの脳に、強引にアイーダが割り込んできた。
 男は女から逃れようと首を反らすが、逃れられない。


 男は砂漠に立っていた。ときおり見る夢の世界。
 ピラミッドの入り口は、石の扉で塞がれている。

 ──あの扉を開けてはいけない。
 ピラミッドの奥には禍々しいものが眠っている。

 赤毛の少女が現れた。かつて愛した少女だ。

 ──どうしてキスしてくれないの?

(頼む、そうやって責めないでくれ、僕にもどうにもならないんだ。充分、サポートしただろ? 大学の学費だって発掘旅行費だって出したし、普通は食べられないフィレ肉だって一緒に食べ、月まで連れてってあげただろ?)

 ──アレク! お金じゃないの! 私は本当の愛がほしいの!

 剣を下げた女戦士が現れ、赤毛の少女を突き刺す。砂漠の砂に溶けてしまった。

 彼は戦士を知っていた。彼女が子供の時から良く知っていた。妹のように可愛がっていた。
 ──アレク、気にするな。あの女とお前は求める愛がずれていただけだ。

 今度は金髪の少女が現れた。
 女戦士は(お前は、また愛を見つけたんだな。懲りない男だ。またダメになったら助けてやろう)と去っていく。

 ──待ってアレク! 私そんなつもりじゃなかったの! あなたはただ親切な人だと信じていたのに……嫌よ! 私、あなたとキスするなんて嫌、やめて!

 逃げる金髪の少女の腕を捕らえた。が、また彼方から女戦士が現れ、今度は彼女の腕を切り離した。少女は砂漠の砂と化しサラサラ流れていった。

 なぜ、彼女は逃げた? 戸惑うアレックスに女戦士は、囁いた。
 ──気にすることはない。あの女は幼すぎてお前の愛が、わからなかっただけだ。

 黒髪の少女が現れた。
 彼女は何も求めない。そして真実の愛を受け入れてくれたはずだった……

『アレックス、ごめんなさい、結婚できません!』

(嘘だあああ! あの子がそんなこというはずがない!! 僕らは愛し合っていた!)

 剣を掲げた女戦士が、男の前に颯爽と現れる。

「僕の女神! さあ教えてくれ! なぜ、ひみこは僕から逃げた? 僕の愛の重さに耐えかねてか? 僕がダヤルの息子だからか? 彼女が可哀相な日本語族だから? アイーダ、君ならわかるだろ?」

 アレックスはベッドからガバっと身を起こし、女優の肩に縋りつく。

「ええ、とても簡単よ……ひみこはね」

 女の口元が微かに歪む。

「あなたとキスしたくなかっただけ」

 アイーダは事実を告げた。


「この僕が愛されない? そんなはずがないんだ!」

「ダメよ、アレク。ちゃんと私の目を見て、逃げないで!」

 女は、キングサイズのベッドに横たわる男に顔を向けさせる。

「私、ラニカに頼まれたの……あなたを守るようにってね……でも、これ以上はできないの」

「やめろ! アイーダやめてくれ!」

 男は首を背け、逃げようとする。

「私の力は、ラニカの装置ウシャスで初めて発揮されるの」

「なぜ……やめるんだ……頼む……」

うつつを夢に、夢をうつつに……あなたが私につけてくれた言葉よ」

 女優アイーダ。
 彼女の出演するインタラクティブムービーは、鑑賞者の心に作用する。
 時によりアイーダは、無邪気な天使になり、妖艶な娼婦になる。
 現を夢に変える、脳情報通信装置ウシャスによって、初めて彼女の力は開花された。


「アレク、ラニカはあなたに特別な力を与えた。人や機械の鍵を強引にこじ開け、捻じ曲げる力……でも、そろそろ尽きようとしているわ」

「アイーダ! 僕の中のピラミッドの入り口が開いたら、何か恐ろしいことが起きる! 君でなければ閉ざすことができない! いつも助けてくれたじゃないか! 僕には君が必要なんだよ!」

「そうよ。あなたは、恋が破れるたびに記憶が蘇りそうになった。だから私はラニカが与えてくれた特別な力を使って記憶を封じた。あなたが私を必要とするのは、愛ではないわ、便利な修復屋だからよ!」

 男はぐったりと枕に沈み込み、口をつぐんだ。

「私、女優としてならウシャスをいくらでも使える……でも、あなたの心を守る力もラニカの特別製……あなたの特別な力が尽きるように、もう、私にはあなたを修復する力はないの」

「……なぜ君は……扉を開けようとする……」

「扉を開けるのはね、アレク……あなたに二度と恋させないようにするためよ!」

 アレックスは、再び、エジプトの砂漠に立たされた。


 荒涼とした砂漠。
 ピラミッドの入り口。あそこは近づいてはいけない。禍々しい物が眠っている。
 男はただ一人取り残される。もう誰も現れない。いや女戦士が現れた。

 ああ、僕には君がいた! 誰よりも強い女神よ。エジプトの猛攻に耐え、やがてエチオピアを勝利に導く王女……アイーダ

 エチオピア王女アイーダは、高らかに声をあげた。

 ──そうだ。ピラミッドを開く時が来たのだ。勝利のために。

(ピラミッドを開ける? やめろやめろ! やめるんだ!!)

 男の訴えもむなしく、女戦士は剣を振りかざす。
 王者の魂が眠るピラミッド。石の門がゴゴゴと動き、中から禍々しい黒い煙が溢れ、砂漠の青空を暗黒に変色させる。


「アイーダ! なぜ思い出させる!!」

 ホテルのベッドルームでアレックスは絶叫する。忌まわしい記憶。消したはずのあの日が蘇ってくる……。
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