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四章 花嫁

74 大蛇アペプと太陽神ラー

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 古代エジプトでは、大蛇の姿を持つ邪神アペプは太陽神ラーの最大の敵で、日食を引き起こすと言われた。
 アレックスは、VRゲーム「アイーダ」で、いとも容易く大蛇アペプを倒した。
 現実の人間は、日食に対抗することはできない。ただ古代とは違って正確に日食の日時を予測できるから、不吉におびえることはない。
 それどころか今の時代では、宇宙機を使って移動すれば、希望の日時に日食や月食を楽しむことができる。

「何とか、皆既に間に合ったな」

 ルドラとの対話を終えたアレックスは、日食を観望していた船着き場に戻った。
 ウシャスの特別な力を失った彼は、脳に埋められたチップを欲するダヤルのCEOから殺されるところだった。からくも彼は生き延びた。自分を殺したらラニカの仕掛けが発動し、世界中のウシャスがどうなるかわからない、と脅して──。

「ははははは! ラニカが、僕の死後のことなんて、考えるわけないだろ!」

 アレックスはただ笑った。何の力もない空っぽな老人である自分が、生に執着していることに。
 二年前トロントの生家で会った母は、ロボットに転送されたラニカのAIだ。生身の彼女とは三十四年ぶりに会う。ずっと避けていたが、彼女が生涯を閉じるまで付き添うことになるだろう。母は間もなく百歳を迎える。
 彼の心は半世紀を遡る──


 アブリエットがダヤルの家に引き取られたころ、アレックスの父、フィリッポは、外泊することが多くなった。仕事ではない。フィリッポが働く必要はなかった。ロボット事業で成功したラニカの収入で、一家は豊かな暮らしを満喫した。
 母は、脳情報通信技術ウシャスの開発にのめり込んでいく。

 珍しく家にいた父は、リビングで母と言い争っていた。二人が争うことは珍しくはないが、学生だったアレックスは隣のダイニングで、つい聞き耳を立てる。

 ──フィル! あなたも協力して! ウシャスの力で私とあなたは一つになれるのよ。
 ──やめてくれ! 脳にそんな機械を埋め込むなんて気持ち悪い……そうまでしてお前は僕を縛りつけるのか!
 ──あなたの心を理解したいのよ。私の何がいけないの? 何が足りないの?
 ──教えてやるよ。僕の望みは、お前から解放されることだ!

 翌日、フィリッポは出ていった。
 嘆く母を息子は日々慰める。

 ──マンマは悪くない。パパは他に女がいただけだ。僕は彼のことを忘れた。マンマも忘れなよ。
 ──ああ、アレク……こんな優しい子が可哀相に……あなたはそのままでいいのよ……私が守ってあげるから……

 どんな母親でも、アレックスのような息子を持ちたい、と思っただろう。彼は享楽的ではあるが、名門トロント大学で優秀な成績を収め、スポーツ・ゲーム・映像制作とあらゆる分野で才を発揮する、輝ける青年だった。
 しかしラニカ・ダヤルは、器用貧乏で天才の煌めきがない息子が哀れに思えたのか、何かにつけ「あなたは弱いから」と繰り返した。

 母は、自身のウシャスを外す直前、弱くて愚かな息子のために特別な力を与えた。
 母の期待に応えたい息子は喜んで力を受け取る──人や機械の鍵を強引にこじ開け、どんな知識も一瞬で取得できる力。それでも母のような天才にはなれなかった。

「マンマ、ずっと僕は君をがっかりさせてきたね……君が作った平和な世界はもうすぐ終わるよ。君がくれた大切な宝を、僕は散々無駄遣いしてきたからね」

 アレックスは、母が与えた力を使う誘惑と何度も闘った。しばし誘惑に負け彼は力を使い勝利し……敗北感を得た。三十年以上蓄積された敗北感は、幸せな青年から輝きを奪った。

「ラニカ、君は本当に僕を愛していたのか?」

 七十年の人生で、彼は初めて母の愛を疑った。いや、彼はずっと疑惑を抱いていた。

「本当は僕が憎かったんだろう? だって、僕は君を苦しめたパパにそっくりだ。顔も……心もね」

 見たくないもの……鏡に映る自分の顔。父親譲りの美貌は、多くの女性を魅了した。

「君は僕を苦しめるために、こんな力を与えたんだろ!」

 太陽が月に覆い隠され、空が夕闇に染まる。隠された太陽の周りが白く輝いた。
 束の間の闇に、集う人々が歓声をあげる。
 男は一人、誰とも喜びを分かち合うことなく、母を思い浮かべた。

 ──アレク、財産狙いの女の子には気を付けなさい。
 ──弱いあなたが家を出て一人で生きるなんて無理よ!
 ──アブリエットと結婚すればいいのに。あんな素敵な子はどこにもいないわ。

「僕は弱くて愚かなままでよかった! こんな力欲しくなかった! せっかくウシャスから解放されたのに、なぜマンマは今でも僕を縛りつける!?」

 アレックスは、今となっては誰も答えることができない問いを叫ぶ。
 叫びをかき消すよう、夕闇の岸辺に光が差した。
 見上げると、天空にはダイヤモンドリング。太陽が月の後ろから顔をのぞかせた。
 四年前、月の日食を共に見たアイーダの言葉がよみがえる。

『あなたからダイヤモンドリングをもらったことはないわ』

 エジプトに行く前、アレックスの腕の中で、アイーダは言った。

(アレク……女優なんてやめようかしら……あなたが見られないなら意味ないもの……ネパールでラニカと暮らすのもいいわね)
(駄目だよ。太陽系中の君のファンを失望させては)
(それならオールドムービーに挑戦しようかしら。話題になると思わない?)
(それは止めた方がいい……悪いが君の輝かしい経歴に傷がつく)
(言われなくてもわかってるわよ! 私、それより本当は子供産みたいの)
(アブリエット! 君は自分が何歳か、わかっているのか!)
(あら、私の年で産む人、普通にいるじゃない)
(君の遺伝子を残すことは大賛成だが、君自身の力で産む必要はない)
(バカ! アレクなんか大っ嫌い! ひみこが逃げ出せて本当によかった)

 ──アブリエット、僕は知っていたよ。君がどれほど恋人を作ろうが他の男と結婚しようが、ずっと僕を思ってくれたことを──

 アレックスは、左手を伸ばし、現れたばかりの太陽に指をかざす。

「ネパールに行く前に、アブリエットに贈る本物のダイヤモンドリングをオーダーしよう。依頼先は炭素研究所だな」

 温室効果ガスでも最も多いのが二酸化炭素。生物の活動でも人間独自の活動でも排出される。
 二十一世紀後半から世情が不安定となり科学技術は停滞したが、近年、ようやく二酸化炭素の大量還元技術が実用化された。
 還元された物質は、新たな資源として活用される。それは炭素。

「地球環境保護のために産まれた炭素で、ダイヤモンドを作らせるんだ。早く依頼した方がいいな。ダヤルの株価が安定している間に」

 結婚するはずだったあの日、雪が舞い降りた。四月の札幌の雪は、今世紀で初めての気象現象。ニュースチャンネルでコメンテーターは、二酸化炭素還元技術により地球温暖化に歯止めがかかったのでは? と浮かれていた。

「温暖化が止まった? そう簡単には断定できないのに……みんな幸せなんだな」

 船着き場に集まる人々は、月の後ろから現れた太陽を歓迎し、手を叩いた。

「アブリエットは、天然ダイヤモンドでないと怒るだろうか」

 これからの人生は、彼女に捧げよう──ナイルの岸辺で心を定め、ローブのポケットに手を入れた。
 指にゴロンとした硬いものがあたった。取り出してみると、二日前まで婚約者が付けていた指輪。
 王家のティアラを輝かせた大きな赤いルビーと、ゴールドリング。赤と金……ビザンツ帝国の色。指輪を輝かせていた細い薬指──五年近く一緒に暮らした少女。

 アレックスは指輪を太陽と重ねた……ヨーロッパ王家から伝わるルビー。二酸化炭素還元技術でこれから作るダイヤモンド──。
 どちらも捨てられない。どちらの価値が上などと選ぶことはできない。地球の力が作った天然のルビーも、人の叡智が作り上げたダイヤモンドも、尊いことには変わらない。

 VRゲーム「アイーダ」でアレックスは、エジプト王女とエチオピア王女アイーダ、二人の愛を同時に得た。
 が、現実の女たちは、男に唯一の愛を求める。母、ラニカ・ダヤルがそうだったように。

 ──なのに僕は、一人の女だけを思うことができない……僕は、神にもアブリエッタにも不実だ。母を苦しめた父に、何もかもそっくりなんだ──

 ローブの内ポケットから、聖書を取り出した。彼が唯一もつ紙の書籍。父の母国語で書かれた神との契約。

「神に不実な僕は、バイブルに相応しくない!」

 老人は、ナイル川の岸辺に駆け寄り、父から受け継いだ聖書を振り上げる。

「偉大なナイルは、救世主が生まれるずっと前から流れていた! さあ受け取るんだ!」

 彼は古い書物を川面に放り投げた──


 しかし、振り切る直前で、手を止めた。男は首を振って、聖書をしまい込む。
 左の掌を目の前に広げた。そこには、フィッシャーらの奮闘で得た認証登録の成果、真新しいスキンデバイスが貼り付けてあった。
 おぼつかない指付きで、アレックスはデバイスを操作する。

「ヴァルナ!」

 呼びかけると掌のスキンがキラキラ輝く。十分ほどで小型ドローンが到着した。
 また、彼は掌をドローンにかざしたり、指の付け根を押したりと手間取りつつ、用件を伝えた。

「このバイブルをトロントの倉庫まで運んでほしい」

 ドローンのボックスに、小さな聖書を押し込む。フタが閉じられると、ドローンは空港を目指して飛んでいった。
 アレックスは、空を駆け抜ける小さな物体に手を振り笑った。

「偉大なファラオは、何人もの妃を愛したそうじゃないか」

 太陽は、エジプトでも日本でもどの世界でも崇められた。太陽がなければ生きていけないのは、現代も変わらない。
 アレックスは、結婚するはずだった少女の名前に「太陽」の意味が込められていることを思い出す。彼女自身が何度も語っていた。
 闇の世界で輝き続ける黒髪の少女。
 彼女の母語をウシャスの力でマスターしたが、力の消失と共に忘れてしまった。

「五つ目の言語学習に取り組むとするか。ウシャスがないと厳しいが、いい講師さえいれば……いや、完璧な講師がいるじゃないか!」

 三日月の形をした太陽に、彼は拍手を送った。自分の頭がまだ冴えていることに喜びを隠せず、笑いが止まらない。

「ひみこ、ウシャスを失った僕が、今度こそ本気で日本語をマスターしたいと言ったら、喜んで受け入れてくれるよね。君は心優しいから」

 ──ひみこ。あの彼は君のパートナーに相応しい。若さに溢れている……僕は何もない老いぼれだ。財はあるが、いつまでも保つかわからない。

 形を戻しつつある太陽の力で、岸辺の白い建物が眩しく輝く。

 ──でもひみこ。君のパートナーがウシャスのない君を本当に愛せるか、僕は心配なんだ。君が男の愛に迷ったときは……僕が慰めてあげよう。心配しなくていいよ。みんな、僕の腕の中で喜びの声をあげていたから。もし君が僕の愛を知ってたら逃げなかっただろうに……いや、それは、先の楽しみに取っておこう──


 自分の思いつきに、彼は力を取り戻す。ウシャスの力を失っても、できること、やりたいことはある。
 アレックスは、川の船着き場を後にした。古代エジプト王の墓マスタバを見るため、西の村ベイト・ハラフへ向かう。
 ナイル川のほとりで、大蛇アペプに勝利した太陽神ラーが誇り高く輝いていた。



 鈴木ひみこが十代の時に関わった重要人物であるアレッサンドロ・ダヤル・パレオロゴの物語は、ここで終わる。
 ここから先は、鈴木ひみこの物語に戻ろう。
    
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