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二章 僕は彼女を離さない

41 迷わず前進

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「先輩! 文化祭まで二週間切ってますが、僕のピアノソロ、追加できます?」

 水曜日、僕はアンサンブル・サークルの練習室に入るなり、前坂由奈さんに頭を下げた。

「三好君、曲の長さは?」

「三分、いや、四分ください!」

 と、前坂さんが「そうねぇ」首を捻り、思わせぶりに笑う。

「いいわよぉ」

 僕は、この程度の願いなら聞き入れられると確信していた。発表会場は、いつもの練習室。外のホールほどの時間厳守は求められない。三~四分程度、追加しても問題ないと踏んだ。
 第一、僕は、伴奏者としてアンサンブルサークルに多大な貢献をしている。

 が、この二年先輩は、例によって僕の腕をさすりだす。

「あたしとデートして!」

 まだ諦めていないのか、この先輩。止めてくれ! 僕はもう決めたんだ。
「あ、その」と、付きまとう先輩の手を振り払うところを、練習室に入ってきた女子大生に目撃される。

「マサ……ふふ、楽しそうね」

 途端に先輩は僕から離れ、青山星佳に駆け寄った。

「青山ちゃーん。だいじょーぶよぉ。あたしは三好君の単なるファン。青山ちゃんから盗ろうなんてないからあ」

 星佳はいつものように眩いばかりに輝いて……あれ? いや、普通にきれいな女性と思うし、胸がポカポカしてくるが……何か違う。どこか僕は、冷静に眺めている。

「マサ、前坂さんのアヴェ・マリア、優しく弾いてあげるのよ」

 グノーのアヴェ・マリアは、僕と星佳の出会いの歌。しかし文化祭では前坂さんが歌い、僕が伴奏する。
 星佳はどう思っているのか? 彼女は涼し気に微笑むだけ。
 星佳に、少しは気にしてほしいと思わなくもないが――いや、そんなことは、もうどうでもいい。

 文化祭で僕は、前坂さんのアメイジング・グレイスとアヴェ・マリア、星佳の夜の女王のアリアをはじめ、割り当てられた伴奏を弾く。歌が輝くようにピアノを添える。余計なことは考えない。

 伴奏のあとは、ショパンの革命のエチュードに挑戦し、もう一曲、ピアノソロを披露する。いま前坂さんにお願いした追加演奏。
 発表会で一番ウケるだろう。自信はある。
 でもウケ狙いの選曲ではない。他の誰でもない、あの子のために僕は弾く。


 僕と前坂さんは星佳の指導のもと、グノーのアヴェ・マリアを仕上げた。前坂さんは練習を始めた頃、低音部に苦労していたが、星佳が通うようになってから、声に伸びが出てきた。

 先輩は練習が終わると僕の腕を取って出口に進む。「じゃあ、三好君。一曲追加していいから、デートしよぉねえ」ともたれ掛かってきた。
 星佳に助けを求めようと僕は奥のピアノに顔を向ける。しかし星佳は他のメンバーの指導にかかりきりで、僕の存在を忘れている。
 彼女は音楽の女王だ。それでいい。
 練習室を後にして、前坂さんに引きずられるよう廊下を歩く。

「大学のカフェでケーキを奢ります。それ以上は付き合えません」

 最大限の譲歩を示した。僕はもう、あの子以外の女の子とは必要以上に関わりたくない。

「いやだあ。あたし、青山ちゃんから三好君、盗る気ないって言ったじゃない。大体、あたし、本命別にいるもんねえ、ほら!」

 先輩は、自分のスマホの待ち受け画面を見せた。
 長髪を束ねたあごひげの中年男が、不敵な笑みを浮かべている。テレビや動画でよく見かける顔だ。

「そうだ前坂さん、四条リューが好きなんですよね」

 以前、文化祭のパンフレットをもらったとき、この有名人について先輩から教えてもらった。
『きみから世界をはじめよう』のCMで話題になった工業大学情報工学科卒の社長。彼は文化祭で、OBとしてトークショーを行う。

「前坂さん、もしかしてデートって?」

「あたしたちさあ、文化祭で四条リューが出る時、暇じゃない? トークショー、三好君も行こうよお。ボッチで聞くの嫌なんだあ」

「それなら喜んで付き合います!」

 僕は心の底から笑顔を見せた。

「よかったあ、他の子たち、キモ親父嫌いって逃げるから、助かったあ。あ、もしかして三好君もリューちゃんにハマってるぅ?」

「いろいろ勉強したいんです。じゃ!」

 前坂さんと廊下で別れ、僕は図書館に向かった。
 この文化人は、テレビでコメンテーターしたり、動画で人生相談したりと忙しいが、本業は学生起業をサポートする会社の経営だ。
 学生のスタートアップ……少し前まで興味はなかったが、今の僕は大いに惹かれた。


 対話的理性……価値相対主義……
 法学の教授が、次々と黒板に文字を記していく。
 前期の法学では、60点という不名誉な成績を残した。単位取得の最低ラインだ。最低点の理由は、憲法護憲派の教授に憲法改正を強く主張したからとの疑惑があるが、真偽不明。

 僕は、後期試験のために、全ての教授について検索し彼らの専門分野や主張を抑えておいた。
 なるべく前で真ん中の席に座るようにしている。成績には関係ないだろうが、教授へのアピールもある。

 しかし今、僕は講義室の一番後ろ、出入り口近くの席に座っている。
 後期の法学講義に、60点なんてみっともない証は残したくない。
 が、今回は特別だ。
 法学講義の仲間に、あとでノートを見せてもらうよう頼んだ。仲間は僕の行動を不審に思っているかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
 講義終了十五分前、僕はノートパソコンをリュックにしまい、席を立った。


 講義棟の廊下をバタバタ走り建物を出た。講堂に向かって全力疾走をする。

 この大学は街中にある割にはかなり広い。三つの区の境にあるため、同じ大学なのに建物によって町名どころか区も変わり、最寄り駅も二つある。
 この広さは快適だが、今は恨めしい。
 敷地をドタドタ走る僕は、なんて無様なんだ!
 僕は、篠崎あいらが受講している科学史の会場へ駆けていった。


 人文系教養科目の中で、科学史は一番人気が高い。あいらは、この科目で90点を取ったと、目を輝かせて語っていた。
 僕とプラネタリウムに行ったことをヒントにレポートを書いた。テーマは古代ギリシャと古代中国の天文学の比較。
 プラネタリウムでは、歳差運動について解説していた。星空の回転の中心と星座の形は、数千年から数万年で変わるのだ。

 講堂の重たい扉をそっと開ける。十分前だが講義は終わってない。早く講義を終える教授もいるから、早めに法学の教室を抜け出した。

 広い講堂に散らばる五百人の学生から篠崎あいらを探す……すぐ見つかった。
 左の前方の席に座っている。席の背もたれからちょこんと頭が見えた。灰色のパーカーのフードを後ろに垂らし、少し伸びた髪がかかっている。
 両隣は男子だ。友達とは別行動なのか。女子が一割しかいないこの大学では、後ろ姿だけでも目立つ。
 講堂の扉は前と後ろにある。彼女がどちらの扉から出るかわからないから、講義が終わったらすぐ掴まえないと。

 十分間の科学史講義は長かった。いや、この先生、三分もオーバーした。すごく迷惑な先生だ。広いキャンパスで僕ら一年は、講義ごとに建物を移るのに。
 ざわめきのなか、僕は講堂を出る学生らの大波に逆らって、あいらを目指す。
 彼女はノートパソコンをのそのそともたつきながら片付けていた。
 いつも実験室の不器用な彼女にイラついていたが、このときばかりは彼女の鈍い動きに助けられた。
 リュックのファスナーに手をかけた小さな手の動きが止まる。
 大きな目が、真円を形作り凝固した。

「へ? な、なんで?」

 彼女が逃げないよう、両肩をがっしり掴んだ。

「だ、駄目だよ! ほら……」

 あいらは首を回し、あたりをキョロキョロうかがっている。
 講堂を出ようとする学生たちが静止した。数十個、いや百個は越えるだろう眼が、僕らをじっと観察しているらしい。かまうもんか。
 いや、むしろ都合がいい。

「あいら、文化祭で僕のピアノを聴いてくれ。頼む!」

 何十体もの観察者に聞こえるように宣言した。
 篠崎あいらの大きな目が瞬きを繰り返す。また首を回して周囲の様子を確認している。
「え、あ……」と呟き小さく「うん……」とうなずいた。

 彼女がイエスと言ってくれた。不安と恐れが、希望と喜びに反転する。彼女は僕のエクスポーネンシャル! とどまることを知らないプラスの極大。僕の脳波をデコーディングしたら、どんなパラダイスが表示されるのだろうか!

「ありがとう! ちゃんと練習するよ! またね!」

 彼女に手を振って、講堂のステップを駆け上がった。
 何十体もの観察者から冷やかしの声が発せられているようだが、そんなことはどうでもいい。

 僕は、青山星佳ではなく篠崎あいらを選んだ。
 一日も早く伝えたかった。火曜の物理実験まで待てなかった。
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