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三章 僕は彼女に知らせたい
68 貧しいメイドは、身も心も天才教授に支配される ※R
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若い女が、王立大学の長い廊下を歩いている。
大学は、ネールガンド王国が今のような大国になる前に創建され、四百年もの伝統を誇る。
太陽はとっくに地の下に潜った。三日月もまもなく沈む。
壁に掛けられたオイルランプが、石畳をほのかに照らしている。
宮殿では夜通し灯りを点けているらしい。が、大学ではランプのオイルは貴重な燃料だ。オイルは教授や学生たちの実験にも使われる。無駄遣いはできない。
女は、今宵こそ用を済ませたらすぐ戻ろう、と決意した。早く教授室から出ないと、灯りが消されてしまう。部屋に戻る途中、真っ暗な廊下でゴーストに会うかもしれない。
レナが王立大学のメイドとなって半年になる。いつしか、夜、アーキス・トレボー教授の私室にコーヒーを届けるようになった。
大学の寮には、街で流行っているようなコーヒー・ハウスが置かれ、教授や学生たちが活発な議論を行っている。
しかしアーキスは、コーヒー・ハウスにも食堂にもあまり顔を出さず、よくメイドに食事や飲み物を届けさせていた。
「失礼します」
ドアを開けると、目に映ったのは、床に寝そべる黒髪の男。両の腕を天井に伸ばし、オルガンでも弾くかのように指を動かしている。
だらしなく転がっているこの男こそ、昨年、二十五歳の若さで王立大学の教授となった、アーキス・トレボーだ。
レナはコーヒーカップとポットをテーブルに置き、ベッドからブランケットを取り、男にかけた。
「先生、そんなところで寝ていたら、風邪をひきますよ」
男は、素肌にガウンをまとっている。ガウンは、チェスボードのように白と紺色の大きな格子の柄で染められている。ガウンの珍しい模様に目が惹かれたが、レナの心をざわめかせるのは、別のものだ。
剥き出しの短い黒髪、鷹のように鋭い眼と鼻、そしてガウンの襟から覗く胸元。
レナは他の教授にも食事や衣服を届けているが、未だにアーキスの紳士からほど遠い姿に慣れない。
『先生がだらしない? そりゃそうだよ。あたしらメイドはバカにされてる。紳士的に振る舞う価値がないってことさ』
古参のメイドは厨房でカラカラ笑い、レナを諭す。
ただのメイドである自分に対して、紳士的に振る舞ってほしいとは、期待していない。
他の教授たちも、部屋ではウィッグを外し、コートとベストを脱ぎ、シャツの上にガウンを被っていることが多い。
が、アーキスのだらしなさは、他の教授たちとはどこか違う。具体的にどう違うのかレナにはわからないが、彼の姿を目にしたときだけ胸の鼓動が速まるのだ。
『トレボー先生は美男子だ。あんたみたいな小娘が惚れるのは無理ないさ。でも、やめときな。大学の先生とは、結婚できないからね』
レナは大学に来て早々、先輩のメイドたちから釘を刺された。
メイドが主人に恋するなどあり得ない。レナは立場をわきまえていた。以前、豪商の元にいたときは誠心誠意仕えていたが、恋という感情が入る余地はなかった。
そのはずだった。
アーキスはムクッと起き上がり、ブランケットを丸めてソファにポスッと投げた。
「太陽をつかんだぞ」
レナはすかさずブランケットを取り、ベッドに敷いた。
太陽をつかむ? 学者の言うことはよくわからない。大学の高い塔に昇っても、一向に太陽に近づけない。故郷の村を出たとき山越えをしたが、それでも太陽は遥かな高みにあった。
男は左手で拳を握りしめ、右手でコーヒーをすすっている。
メイドとしての用事は終わった。部屋に戻ろう。見回りがランプを消さないうちに。
「先生、どうして太陽をつかむなんて恐ろしいことを、おっしゃるのですか?」
女は質問してから後悔する。早く帰るつもりだったのに、なぜ自分は余計なことを口走るのだろう?
「お前は面白いことを言うな」
アーキスの微笑みは、レナの胸を高鳴らせる。
「子供の時、教会の師司様が教えてくださいました。昔、人々が太陽をつかもうと塔を建てたら、神の怒りに触れ、塔が崩れて人々はバラバラに散ったと」
「それは高い塔を立てて雷が落ちたからだろう。真の神の教えとは、落雷の多い土地に高い建物を建てるな、ということだ。我々はしばし神の言葉を違えて聞く。そもそも太陽のつかまえ方が間違っている」
「太陽がつかまえられるとは思いません。また神様がお怒りになります」
「そうだな。神の御心は計り知れぬ。しかし……神は、自ら知ろうとする者を救ってくださるのだよ」
レナは、貧しい雇われ農夫の娘だった。教会の師司が貧民救済に力を入れ、レナのような貧しい子供にも分け隔てなく神の言葉を伝えた。
師司様がおっしゃってたのは「自ら助る者を助く」ではなかったか?
「私の救いの道は、果てしなく遠いようです。山の上からも手が届かない遠くの太陽は見えるのに、なぜ私の故郷は見えないのでしょう?」
男は、コーヒーをすする動きを止めた。カップをテーブルに置いて、メイドに近づく。
女は、また愚かなことを口走ったと後悔した。
故郷の師司が熱心に教えてくれたお陰で、レナは簡単な読み書きができる。が、王立大教授と話せるほどの知識と教養はないと、自覚していた。
「お前は本当に面白いな。男なら私が推薦して学生にしてやれるのに、残念だ」
女の頬に赤みがさした。自分の愚かな問いかけが、若き教授を喜ばせたから。
「それは、大地が球体だからだよ」
言葉の終わりと共に、男は女の唇を吸い取った。
――ああ、今夜も私は、灯りが消える前には帰れない。
女は、口内で暴れるざらついた舌の感触に、酔いしれた。
「教えてやろう。そのまままっすぐ立ってろ」
レナは無言で頷いた。男は女の背後に回る。彼の指は幾重にも重なったスカート生地を潜り抜け、女の尻に直接触れた。
「球に接線を引くのだ。動くな。垂直に立っていないと、正しく直線が引けない」
男の指が尻から股間に伸び、女の核に刺激を繰り返した。
レナの全身に甘い痺れがはしる。動くなというのは無理だ。
「お前の目を通るように接線を引く。ふらついたら、何も見えなくなるぞ」
男のもう片方の手が背後から伸び、レナの豊かな胸を布地ごと鷲掴みした。
「せ、先生、もう、私は……」
堪え切れず女は崩れ、床に四つん這いとなった。
「よくできたな。お前の背の高さで見えるのは、3マイルまでだ」
アーキスは耳元で囁く。レナのスカートをまくり上げ、背後から股間に指を差し込みこねくり回す。教授室に淫靡な音が響き渡る。
「お前の故郷はどこだ?」
「あ、ああ、く、ノ、ノーサン・バレー……」
女は突き上げる快楽を堪えて、生まれた村の名を告げる。
「北へ200マイルか」
「……た、太陽は、もっと遠いの、ですか……」
「ずっとずっと遠いな」
初めてこの教授に衣類を届けたとき、彼は一言も発せず目も合わせなかった。
何度か通い、やがて彼は笑顔を見せ、大地が巨大な球体であること、天を駆け巡る太陽は動かず、この大地が廻っていることを教えてくれた。夜には、不思議な筒を通して、ゴツゴツした岩におおわれた月の大地を見せてくれた。
そこで止まれば、何も問題なかった。
が、そこで止まったのはほんのひと時だった。
アーキスの指と舌でレナの体はすっかりとろけ、何度も高みに昇らされる。なのに、女は強烈な渇望を覚える。
「せ、先生、お、願い、せんせいを、ください、は、早く」
故郷の師司は穏やかな老人で、神に認められた結婚の尊さを語っていた。嫁ぐ日まで身を清らかに保つことが大切だと、村の老婆は口酸っぱく繰り返した。
今の自分は何をしている? 尻を高く掲げ、浅ましく男を欲している。
汚れた獣に成り下がった自分は、故郷、ノーサン・バレーに二度と戻れない。
「もう待てぬか。仕方のない女だ」
背中にのしかかった男が、太い楔を柔らかな門に打ち込み、激しく腰を振動させる。
「お願い、もっと、もっとください、あ、ああああ」
女は押し寄せる快楽の波に耐えきれず、ついに意識を喪失した。
パサリ。
衣擦れの音で、レナは目覚めた。
起き上がると共に、自分を包んでいる布が、チェスボード柄のガウンということに気がついた。教授の素肌を覆っていたガウン。彼の匂いに包まれているようだ。ガウンを抱きしめたくなったが、衝動をやり過ごして立ち上がり自らの衣服を整えた。
「先生、ありがとうございます」
女はガウンを片付けようとワードローブを開けたが、男に手首を取られた。彼は、パサっとガウンを広げ、リネンの白い寝間着の上に重ねた。
「地球から太陽までは9300万マイルだ」
レナはアーキスがなぜそんなことを口にしたかよくわからず、首を捻った。と、先ほどの行為での話を思い出し、顔を赤らめる。
「遠すぎてまったくわかりません」
「不眠不休で歩いて4300年かかる」
「4300年? 世界が終わってしまいます」
「……世界が終わる前に、神の御心を知りたいものだ」
「神の御心ですか?」
レナにとって神の御心とは、故郷の教会に他ならない。教会の師司は貧しい子供たちにわかりやすく、神の御心を説いてくれた。村はいつも春の穏やかな日差しに包まれていた。
「私は、太陽と月、数多の惑星の動きをつぶさに観測し、ついに神の御心を見いだした。星も我らも世界の全てが、一つのことわりで動いているのだよ」
男は二つの拳を握りしめ、勝ち誇ったように笑った。
「一つのことわり?」
「この世の全ての物体が引き合っている。そのことわりで、月が回ることも惑星が逆行することも、説明できる。そうだな」
男はコーヒーの入ったカップを傾けた。黒々とした液体が流れ、カーペットに染みを作る。
「せ、先生! 汚れちゃいます!」
「コーヒーが染みを作ること、ネールガンド王国に雪が降ること、あらゆる事象が一つのことわりで語れるのだぞ! 全てが引き合う、それだけだ。神の御技のなんと美しく尊いことか!」
レナにわかるのは、コーヒーの染みは落ちない、ということだけ。
彼女には、教授の言う「ことわり」の素晴らしさはわからない。第一、全てが引き合ったら、変なことになりそうだ。
「その……みんながみんなを引っ張ったら、くっついて一つになってしまいませんか?」
男はカラカラと笑い転げ、レナの肩をさすった。
「全ての物体の初速がゼロならそうなるか。いや、そうとも限らないか。いずれ世界は長いときをかけて一つになるやもしれぬ。本当にお前は面白い。女であるのが残念だ」
レナも残念に思った。先ほどの行為は、レナが女だから成り立つ。自分が女であることをこの方は喜んでくれないのか。あの行為は彼にとって喜びではないのか?
「神の御心をもっと知りたい。私が見つけた世界のことわりは、ひとかけらに過ぎぬ」
アーキスはいたずらっぽく笑った。
「私はまだ、コーヒーの染みがなぜ落ちないのか、説明ができないのだよ」
「先生! お願いします! 早く、『コーヒーの染みのことわり』を見つけてください。洗濯が大変なんです」
レナはこの部屋に入って初めて笑った。
メイドは空っぽになったポットとカップをトレイに乗せ、空いた方の手を教授室のドアノブに伸ばした。
「レナ」
男の声が女の耳をくすぐった。今宵、初めて名を呼ばれ、レナの胸の高鳴りは、最高潮に達する。
「明日もコーヒーを頼む」
メイドは「かしこまりました」と頭を下げて、教授室を出た。
なぜこの部屋で長い時間を過ごしてしまうのか、女はわかっていた。
彼に自分の名を呼んで欲しいからだ。その一言が欲しくて、彼から離れられないのだ。
廊下の灯りは消えている。
暗闇の中を壁伝いに、メイドの部屋へ戻らなければならない。
すっかり慣れた。幸い、一度もゴーストに会ったことはない。
教授に恋をしても結ばれない。王立大学の教授は独身と定められている。
先ほどの行為は、神に誓った夫婦のみに許されることだ。
これは、神を裏切る行為ではないのか?
なぜアーキスは、妻ではないメイドの身体を貪る? 神の御心を知りたい男が、なぜ神を裏切る?
こんなことを思ってはならない。が、レナは、神の御心を知りたいと語る美しい姿を見ると、神とは反対の存在を思い出す。
故郷の教会にも大学の教会にも、神に叛逆する恐ろしい魔王を描いた絵が飾られていた。
アーキスの端正な姿は、魔王とは似ても似つかないのに、なぜ魔王の絵が頭に浮かぶのだろう? アーキスは神の御心を知りたいと顔を輝かせているが、その実、彼は神に成り代わりたいのでは?
いや、そんな恐ろしいことを考えてはならない。
レナは、壁伝いに闇の廊下を進む。
故郷の教会の師司は説いていた。人を愛しなさい。報われなくても愛を注ぎなさい、と。
彼にとって自分は戯れの相手に過ぎない。このような関係は長く続かない。いずれ自分は大学を去らなければならない。
それでもいい。それでいい。ひと時でもあの方と過ごせた思い出だけで、残りの人生を全うしてみせよう。
「アーキス、あなたを愛しています」
彼にも誰にも決して聞かれてはならない呟き。
彼をただ愛する。彼の妻になれなくても、彼に愛されなくても、彼が魔王であっても。
報われなくても人を愛する。それは神の御心に叶うことでは?
「私は神を裏切っていない。師司様の教えの通りに今も生きている」
暗闇に一筋の光が差した。
レナにはもう、恐ろしいものはなかった。
大学は、ネールガンド王国が今のような大国になる前に創建され、四百年もの伝統を誇る。
太陽はとっくに地の下に潜った。三日月もまもなく沈む。
壁に掛けられたオイルランプが、石畳をほのかに照らしている。
宮殿では夜通し灯りを点けているらしい。が、大学ではランプのオイルは貴重な燃料だ。オイルは教授や学生たちの実験にも使われる。無駄遣いはできない。
女は、今宵こそ用を済ませたらすぐ戻ろう、と決意した。早く教授室から出ないと、灯りが消されてしまう。部屋に戻る途中、真っ暗な廊下でゴーストに会うかもしれない。
レナが王立大学のメイドとなって半年になる。いつしか、夜、アーキス・トレボー教授の私室にコーヒーを届けるようになった。
大学の寮には、街で流行っているようなコーヒー・ハウスが置かれ、教授や学生たちが活発な議論を行っている。
しかしアーキスは、コーヒー・ハウスにも食堂にもあまり顔を出さず、よくメイドに食事や飲み物を届けさせていた。
「失礼します」
ドアを開けると、目に映ったのは、床に寝そべる黒髪の男。両の腕を天井に伸ばし、オルガンでも弾くかのように指を動かしている。
だらしなく転がっているこの男こそ、昨年、二十五歳の若さで王立大学の教授となった、アーキス・トレボーだ。
レナはコーヒーカップとポットをテーブルに置き、ベッドからブランケットを取り、男にかけた。
「先生、そんなところで寝ていたら、風邪をひきますよ」
男は、素肌にガウンをまとっている。ガウンは、チェスボードのように白と紺色の大きな格子の柄で染められている。ガウンの珍しい模様に目が惹かれたが、レナの心をざわめかせるのは、別のものだ。
剥き出しの短い黒髪、鷹のように鋭い眼と鼻、そしてガウンの襟から覗く胸元。
レナは他の教授にも食事や衣服を届けているが、未だにアーキスの紳士からほど遠い姿に慣れない。
『先生がだらしない? そりゃそうだよ。あたしらメイドはバカにされてる。紳士的に振る舞う価値がないってことさ』
古参のメイドは厨房でカラカラ笑い、レナを諭す。
ただのメイドである自分に対して、紳士的に振る舞ってほしいとは、期待していない。
他の教授たちも、部屋ではウィッグを外し、コートとベストを脱ぎ、シャツの上にガウンを被っていることが多い。
が、アーキスのだらしなさは、他の教授たちとはどこか違う。具体的にどう違うのかレナにはわからないが、彼の姿を目にしたときだけ胸の鼓動が速まるのだ。
『トレボー先生は美男子だ。あんたみたいな小娘が惚れるのは無理ないさ。でも、やめときな。大学の先生とは、結婚できないからね』
レナは大学に来て早々、先輩のメイドたちから釘を刺された。
メイドが主人に恋するなどあり得ない。レナは立場をわきまえていた。以前、豪商の元にいたときは誠心誠意仕えていたが、恋という感情が入る余地はなかった。
そのはずだった。
アーキスはムクッと起き上がり、ブランケットを丸めてソファにポスッと投げた。
「太陽をつかんだぞ」
レナはすかさずブランケットを取り、ベッドに敷いた。
太陽をつかむ? 学者の言うことはよくわからない。大学の高い塔に昇っても、一向に太陽に近づけない。故郷の村を出たとき山越えをしたが、それでも太陽は遥かな高みにあった。
男は左手で拳を握りしめ、右手でコーヒーをすすっている。
メイドとしての用事は終わった。部屋に戻ろう。見回りがランプを消さないうちに。
「先生、どうして太陽をつかむなんて恐ろしいことを、おっしゃるのですか?」
女は質問してから後悔する。早く帰るつもりだったのに、なぜ自分は余計なことを口走るのだろう?
「お前は面白いことを言うな」
アーキスの微笑みは、レナの胸を高鳴らせる。
「子供の時、教会の師司様が教えてくださいました。昔、人々が太陽をつかもうと塔を建てたら、神の怒りに触れ、塔が崩れて人々はバラバラに散ったと」
「それは高い塔を立てて雷が落ちたからだろう。真の神の教えとは、落雷の多い土地に高い建物を建てるな、ということだ。我々はしばし神の言葉を違えて聞く。そもそも太陽のつかまえ方が間違っている」
「太陽がつかまえられるとは思いません。また神様がお怒りになります」
「そうだな。神の御心は計り知れぬ。しかし……神は、自ら知ろうとする者を救ってくださるのだよ」
レナは、貧しい雇われ農夫の娘だった。教会の師司が貧民救済に力を入れ、レナのような貧しい子供にも分け隔てなく神の言葉を伝えた。
師司様がおっしゃってたのは「自ら助る者を助く」ではなかったか?
「私の救いの道は、果てしなく遠いようです。山の上からも手が届かない遠くの太陽は見えるのに、なぜ私の故郷は見えないのでしょう?」
男は、コーヒーをすする動きを止めた。カップをテーブルに置いて、メイドに近づく。
女は、また愚かなことを口走ったと後悔した。
故郷の師司が熱心に教えてくれたお陰で、レナは簡単な読み書きができる。が、王立大教授と話せるほどの知識と教養はないと、自覚していた。
「お前は本当に面白いな。男なら私が推薦して学生にしてやれるのに、残念だ」
女の頬に赤みがさした。自分の愚かな問いかけが、若き教授を喜ばせたから。
「それは、大地が球体だからだよ」
言葉の終わりと共に、男は女の唇を吸い取った。
――ああ、今夜も私は、灯りが消える前には帰れない。
女は、口内で暴れるざらついた舌の感触に、酔いしれた。
「教えてやろう。そのまままっすぐ立ってろ」
レナは無言で頷いた。男は女の背後に回る。彼の指は幾重にも重なったスカート生地を潜り抜け、女の尻に直接触れた。
「球に接線を引くのだ。動くな。垂直に立っていないと、正しく直線が引けない」
男の指が尻から股間に伸び、女の核に刺激を繰り返した。
レナの全身に甘い痺れがはしる。動くなというのは無理だ。
「お前の目を通るように接線を引く。ふらついたら、何も見えなくなるぞ」
男のもう片方の手が背後から伸び、レナの豊かな胸を布地ごと鷲掴みした。
「せ、先生、もう、私は……」
堪え切れず女は崩れ、床に四つん這いとなった。
「よくできたな。お前の背の高さで見えるのは、3マイルまでだ」
アーキスは耳元で囁く。レナのスカートをまくり上げ、背後から股間に指を差し込みこねくり回す。教授室に淫靡な音が響き渡る。
「お前の故郷はどこだ?」
「あ、ああ、く、ノ、ノーサン・バレー……」
女は突き上げる快楽を堪えて、生まれた村の名を告げる。
「北へ200マイルか」
「……た、太陽は、もっと遠いの、ですか……」
「ずっとずっと遠いな」
初めてこの教授に衣類を届けたとき、彼は一言も発せず目も合わせなかった。
何度か通い、やがて彼は笑顔を見せ、大地が巨大な球体であること、天を駆け巡る太陽は動かず、この大地が廻っていることを教えてくれた。夜には、不思議な筒を通して、ゴツゴツした岩におおわれた月の大地を見せてくれた。
そこで止まれば、何も問題なかった。
が、そこで止まったのはほんのひと時だった。
アーキスの指と舌でレナの体はすっかりとろけ、何度も高みに昇らされる。なのに、女は強烈な渇望を覚える。
「せ、先生、お、願い、せんせいを、ください、は、早く」
故郷の師司は穏やかな老人で、神に認められた結婚の尊さを語っていた。嫁ぐ日まで身を清らかに保つことが大切だと、村の老婆は口酸っぱく繰り返した。
今の自分は何をしている? 尻を高く掲げ、浅ましく男を欲している。
汚れた獣に成り下がった自分は、故郷、ノーサン・バレーに二度と戻れない。
「もう待てぬか。仕方のない女だ」
背中にのしかかった男が、太い楔を柔らかな門に打ち込み、激しく腰を振動させる。
「お願い、もっと、もっとください、あ、ああああ」
女は押し寄せる快楽の波に耐えきれず、ついに意識を喪失した。
パサリ。
衣擦れの音で、レナは目覚めた。
起き上がると共に、自分を包んでいる布が、チェスボード柄のガウンということに気がついた。教授の素肌を覆っていたガウン。彼の匂いに包まれているようだ。ガウンを抱きしめたくなったが、衝動をやり過ごして立ち上がり自らの衣服を整えた。
「先生、ありがとうございます」
女はガウンを片付けようとワードローブを開けたが、男に手首を取られた。彼は、パサっとガウンを広げ、リネンの白い寝間着の上に重ねた。
「地球から太陽までは9300万マイルだ」
レナはアーキスがなぜそんなことを口にしたかよくわからず、首を捻った。と、先ほどの行為での話を思い出し、顔を赤らめる。
「遠すぎてまったくわかりません」
「不眠不休で歩いて4300年かかる」
「4300年? 世界が終わってしまいます」
「……世界が終わる前に、神の御心を知りたいものだ」
「神の御心ですか?」
レナにとって神の御心とは、故郷の教会に他ならない。教会の師司は貧しい子供たちにわかりやすく、神の御心を説いてくれた。村はいつも春の穏やかな日差しに包まれていた。
「私は、太陽と月、数多の惑星の動きをつぶさに観測し、ついに神の御心を見いだした。星も我らも世界の全てが、一つのことわりで動いているのだよ」
男は二つの拳を握りしめ、勝ち誇ったように笑った。
「一つのことわり?」
「この世の全ての物体が引き合っている。そのことわりで、月が回ることも惑星が逆行することも、説明できる。そうだな」
男はコーヒーの入ったカップを傾けた。黒々とした液体が流れ、カーペットに染みを作る。
「せ、先生! 汚れちゃいます!」
「コーヒーが染みを作ること、ネールガンド王国に雪が降ること、あらゆる事象が一つのことわりで語れるのだぞ! 全てが引き合う、それだけだ。神の御技のなんと美しく尊いことか!」
レナにわかるのは、コーヒーの染みは落ちない、ということだけ。
彼女には、教授の言う「ことわり」の素晴らしさはわからない。第一、全てが引き合ったら、変なことになりそうだ。
「その……みんながみんなを引っ張ったら、くっついて一つになってしまいませんか?」
男はカラカラと笑い転げ、レナの肩をさすった。
「全ての物体の初速がゼロならそうなるか。いや、そうとも限らないか。いずれ世界は長いときをかけて一つになるやもしれぬ。本当にお前は面白い。女であるのが残念だ」
レナも残念に思った。先ほどの行為は、レナが女だから成り立つ。自分が女であることをこの方は喜んでくれないのか。あの行為は彼にとって喜びではないのか?
「神の御心をもっと知りたい。私が見つけた世界のことわりは、ひとかけらに過ぎぬ」
アーキスはいたずらっぽく笑った。
「私はまだ、コーヒーの染みがなぜ落ちないのか、説明ができないのだよ」
「先生! お願いします! 早く、『コーヒーの染みのことわり』を見つけてください。洗濯が大変なんです」
レナはこの部屋に入って初めて笑った。
メイドは空っぽになったポットとカップをトレイに乗せ、空いた方の手を教授室のドアノブに伸ばした。
「レナ」
男の声が女の耳をくすぐった。今宵、初めて名を呼ばれ、レナの胸の高鳴りは、最高潮に達する。
「明日もコーヒーを頼む」
メイドは「かしこまりました」と頭を下げて、教授室を出た。
なぜこの部屋で長い時間を過ごしてしまうのか、女はわかっていた。
彼に自分の名を呼んで欲しいからだ。その一言が欲しくて、彼から離れられないのだ。
廊下の灯りは消えている。
暗闇の中を壁伝いに、メイドの部屋へ戻らなければならない。
すっかり慣れた。幸い、一度もゴーストに会ったことはない。
教授に恋をしても結ばれない。王立大学の教授は独身と定められている。
先ほどの行為は、神に誓った夫婦のみに許されることだ。
これは、神を裏切る行為ではないのか?
なぜアーキスは、妻ではないメイドの身体を貪る? 神の御心を知りたい男が、なぜ神を裏切る?
こんなことを思ってはならない。が、レナは、神の御心を知りたいと語る美しい姿を見ると、神とは反対の存在を思い出す。
故郷の教会にも大学の教会にも、神に叛逆する恐ろしい魔王を描いた絵が飾られていた。
アーキスの端正な姿は、魔王とは似ても似つかないのに、なぜ魔王の絵が頭に浮かぶのだろう? アーキスは神の御心を知りたいと顔を輝かせているが、その実、彼は神に成り代わりたいのでは?
いや、そんな恐ろしいことを考えてはならない。
レナは、壁伝いに闇の廊下を進む。
故郷の教会の師司は説いていた。人を愛しなさい。報われなくても愛を注ぎなさい、と。
彼にとって自分は戯れの相手に過ぎない。このような関係は長く続かない。いずれ自分は大学を去らなければならない。
それでもいい。それでいい。ひと時でもあの方と過ごせた思い出だけで、残りの人生を全うしてみせよう。
「アーキス、あなたを愛しています」
彼にも誰にも決して聞かれてはならない呟き。
彼をただ愛する。彼の妻になれなくても、彼に愛されなくても、彼が魔王であっても。
報われなくても人を愛する。それは神の御心に叶うことでは?
「私は神を裏切っていない。師司様の教えの通りに今も生きている」
暗闇に一筋の光が差した。
レナにはもう、恐ろしいものはなかった。
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