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三章 僕は彼女に知らせたい

68 貧しいメイドは、身も心も天才教授に支配される ※R

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 若い女が、王立大学の長い廊下を歩いている。
 大学は、ネールガンド王国が今のような大国になる前に創建され、四百年もの伝統を誇る。

 太陽はとっくに地の下に潜った。三日月もまもなく沈む。
 壁に掛けられたオイルランプが、石畳をほのかに照らしている。
 宮殿では夜通し灯りを点けているらしい。が、大学ではランプのオイルは貴重な燃料だ。オイルは教授や学生たちの実験にも使われる。無駄遣いはできない。

 女は、今宵こそ用を済ませたらすぐ戻ろう、と決意した。早く教授室から出ないと、灯りが消されてしまう。部屋に戻る途中、真っ暗な廊下でゴーストに会うかもしれない。

 レナが王立大学のメイドとなって半年になる。いつしか、夜、アーキス・トレボー教授の私室にコーヒーを届けるようになった。
 大学の寮には、街で流行っているようなコーヒー・ハウスが置かれ、教授や学生たちが活発な議論を行っている。
 しかしアーキスは、コーヒー・ハウスにも食堂にもあまり顔を出さず、よくメイドに食事や飲み物を届けさせていた。

「失礼します」

 ドアを開けると、目に映ったのは、床に寝そべる黒髪の男。両の腕を天井に伸ばし、オルガンでも弾くかのように指を動かしている。
 だらしなく転がっているこの男こそ、昨年、二十五歳の若さで王立大学の教授となった、アーキス・トレボーだ。
 レナはコーヒーカップとポットをテーブルに置き、ベッドからブランケットを取り、男にかけた。

「先生、そんなところで寝ていたら、風邪をひきますよ」

 男は、素肌にガウンをまとっている。ガウンは、チェスボードのように白と紺色の大きな格子の柄で染められている。ガウンの珍しい模様に目が惹かれたが、レナの心をざわめかせるのは、別のものだ。
 剥き出しの短い黒髪、鷹のように鋭い眼と鼻、そしてガウンの襟から覗く胸元。
 レナは他の教授にも食事や衣服を届けているが、未だにアーキスの紳士からほど遠い姿に慣れない。

『先生がだらしない? そりゃそうだよ。あたしらメイドはバカにされてる。紳士的に振る舞う価値がないってことさ』

 古参のメイドは厨房でカラカラ笑い、レナを諭す。
 ただのメイドである自分に対して、紳士的に振る舞ってほしいとは、期待していない。
 他の教授たちも、部屋ではウィッグを外し、コートとベストを脱ぎ、シャツの上にガウンを被っていることが多い。
 が、アーキスのだらしなさは、他の教授たちとはどこか違う。具体的にどう違うのかレナにはわからないが、彼の姿を目にしたときだけ胸の鼓動が速まるのだ。

『トレボー先生は美男子だ。あんたみたいな小娘が惚れるのは無理ないさ。でも、やめときな。大学の先生とは、結婚できないからね』

 レナは大学に来て早々、先輩のメイドたちから釘を刺された。
 メイドが主人に恋するなどあり得ない。レナは立場をわきまえていた。以前、豪商の元にいたときは誠心誠意仕えていたが、恋という感情が入る余地はなかった。
 そのはずだった。

 アーキスはムクッと起き上がり、ブランケットを丸めてソファにポスッと投げた。

「太陽をつかんだぞ」

 レナはすかさずブランケットを取り、ベッドに敷いた。
 太陽をつかむ? 学者の言うことはよくわからない。大学の高い塔に昇っても、一向に太陽に近づけない。故郷の村を出たとき山越えをしたが、それでも太陽は遥かな高みにあった。
 男は左手で拳を握りしめ、右手でコーヒーをすすっている。
 メイドとしての用事は終わった。部屋に戻ろう。見回りがランプを消さないうちに。

「先生、どうして太陽をつかむなんて恐ろしいことを、おっしゃるのですか?」

 女は質問してから後悔する。早く帰るつもりだったのに、なぜ自分は余計なことを口走るのだろう?

「お前は面白いことを言うな」

 アーキスの微笑みは、レナの胸を高鳴らせる。

「子供の時、教会の師司様が教えてくださいました。昔、人々が太陽をつかもうと塔を建てたら、神の怒りに触れ、塔が崩れて人々はバラバラに散ったと」

「それは高い塔を立てて雷が落ちたからだろう。真の神の教えとは、落雷の多い土地に高い建物を建てるな、ということだ。我々はしばし神の言葉を違えて聞く。そもそも太陽のつかまえ方が間違っている」

「太陽がつかまえられるとは思いません。また神様がお怒りになります」

「そうだな。神の御心は計り知れぬ。しかし……神は、自ら知ろうとする者を救ってくださるのだよ」

 レナは、貧しい雇われ農夫の娘だった。教会の師司が貧民救済に力を入れ、レナのような貧しい子供にも分け隔てなく神の言葉を伝えた。
 師司様がおっしゃってたのは「自ら助る者を助く」ではなかったか?

「私の救いの道は、果てしなく遠いようです。山の上からも手が届かない遠くの太陽は見えるのに、なぜ私の故郷は見えないのでしょう?」

 男は、コーヒーをすする動きを止めた。カップをテーブルに置いて、メイドに近づく。
 女は、また愚かなことを口走ったと後悔した。
 故郷の師司が熱心に教えてくれたお陰で、レナは簡単な読み書きができる。が、王立大教授と話せるほどの知識と教養はないと、自覚していた。

「お前は本当に面白いな。男なら私が推薦して学生にしてやれるのに、残念だ」

 女の頬に赤みがさした。自分の愚かな問いかけが、若き教授を喜ばせたから。

「それは、大地が球体だからだよ」

 言葉の終わりと共に、男は女の唇を吸い取った。
 ――ああ、今夜も私は、灯りが消える前には帰れない。
 女は、口内で暴れるざらついた舌の感触に、酔いしれた。


「教えてやろう。そのまままっすぐ立ってろ」

 レナは無言で頷いた。男は女の背後に回る。彼の指は幾重にも重なったスカート生地を潜り抜け、女の尻に直接触れた。

「球に接線を引くのだ。動くな。垂直に立っていないと、正しく直線が引けない」

 男の指が尻から股間に伸び、女の核に刺激を繰り返した。
 レナの全身に甘い痺れがはしる。動くなというのは無理だ。

「お前の目を通るように接線を引く。ふらついたら、何も見えなくなるぞ」

 男のもう片方の手が背後から伸び、レナの豊かな胸を布地ごと鷲掴みした。

「せ、先生、もう、私は……」

 堪え切れず女は崩れ、床に四つん這いとなった。

「よくできたな。お前の背の高さで見えるのは、3マイルまでだ」

 アーキスは耳元で囁く。レナのスカートをまくり上げ、背後から股間に指を差し込みこねくり回す。教授室に淫靡な音が響き渡る。

「お前の故郷はどこだ?」

「あ、ああ、く、ノ、ノーサン・バレー……」

 女は突き上げる快楽を堪えて、生まれた村の名を告げる。

「北へ200マイルか」

「……た、太陽は、もっと遠いの、ですか……」

「ずっとずっと遠いな」


 初めてこの教授に衣類を届けたとき、彼は一言も発せず目も合わせなかった。
 何度か通い、やがて彼は笑顔を見せ、大地が巨大な球体であること、天を駆け巡る太陽は動かず、この大地が廻っていることを教えてくれた。夜には、不思議な筒を通して、ゴツゴツした岩におおわれた月の大地を見せてくれた。
 そこで止まれば、何も問題なかった。
 が、そこで止まったのはほんのひと時だった。


 アーキスの指と舌でレナの体はすっかりとろけ、何度も高みに昇らされる。なのに、女は強烈な渇望を覚える。

「せ、先生、お、願い、せんせいを、ください、は、早く」

 故郷の師司は穏やかな老人で、神に認められた結婚の尊さを語っていた。嫁ぐ日まで身を清らかに保つことが大切だと、村の老婆は口酸っぱく繰り返した。

 今の自分は何をしている? 尻を高く掲げ、浅ましく男を欲している。
 汚れた獣に成り下がった自分は、故郷、ノーサン・バレーに二度と戻れない。
 
「もう待てぬか。仕方のない女だ」

 背中にのしかかった男が、太い楔を柔らかな門に打ち込み、激しく腰を振動させる。

「お願い、もっと、もっとください、あ、ああああ」

 女は押し寄せる快楽の波に耐えきれず、ついに意識を喪失した。


 パサリ。
 衣擦れの音で、レナは目覚めた。
 起き上がると共に、自分を包んでいる布が、チェスボード柄のガウンということに気がついた。教授の素肌を覆っていたガウン。彼の匂いに包まれているようだ。ガウンを抱きしめたくなったが、衝動をやり過ごして立ち上がり自らの衣服を整えた。

「先生、ありがとうございます」

 女はガウンを片付けようとワードローブを開けたが、男に手首を取られた。彼は、パサっとガウンを広げ、リネンの白い寝間着の上に重ねた。

「地球から太陽までは9300万マイルだ」

 レナはアーキスがなぜそんなことを口にしたかよくわからず、首を捻った。と、先ほどの行為での話を思い出し、顔を赤らめる。

「遠すぎてまったくわかりません」

「不眠不休で歩いて4300年かかる」

「4300年? 世界が終わってしまいます」

「……世界が終わる前に、神の御心を知りたいものだ」

「神の御心ですか?」

 レナにとって神の御心とは、故郷の教会に他ならない。教会の師司は貧しい子供たちにわかりやすく、神の御心を説いてくれた。村はいつも春の穏やかな日差しに包まれていた。

「私は、太陽と月、数多の惑星の動きをつぶさに観測し、ついに神の御心を見いだした。星も我らも世界の全てが、一つのことわりで動いているのだよ」

 男は二つの拳を握りしめ、勝ち誇ったように笑った。

「一つのことわり?」

「この世の全ての物体が引き合っている。そのことわりで、月が回ることも惑星が逆行することも、説明できる。そうだな」

 男はコーヒーの入ったカップを傾けた。黒々とした液体が流れ、カーペットに染みを作る。

「せ、先生! 汚れちゃいます!」

「コーヒーが染みを作ること、ネールガンド王国に雪が降ること、あらゆる事象が一つのことわりで語れるのだぞ! 全てが引き合う、それだけだ。神の御技のなんと美しく尊いことか!」

 レナにわかるのは、コーヒーの染みは落ちない、ということだけ。
 彼女には、教授の言う「ことわり」の素晴らしさはわからない。第一、全てが引き合ったら、変なことになりそうだ。

「その……みんながみんなを引っ張ったら、くっついて一つになってしまいませんか?」

 男はカラカラと笑い転げ、レナの肩をさすった。

「全ての物体の初速がゼロならそうなるか。いや、そうとも限らないか。いずれ世界は長いときをかけて一つになるやもしれぬ。本当にお前は面白い。女であるのが残念だ」

 レナも残念に思った。先ほどの行為は、レナが女だから成り立つ。自分が女であることをこの方は喜んでくれないのか。あの行為は彼にとって喜びではないのか?

「神の御心をもっと知りたい。私が見つけた世界のことわりは、ひとかけらに過ぎぬ」

 アーキスはいたずらっぽく笑った。

「私はまだ、コーヒーの染みがなぜ落ちないのか、説明ができないのだよ」

「先生! お願いします! 早く、『コーヒーの染みのことわり』を見つけてください。洗濯が大変なんです」

 レナはこの部屋に入って初めて笑った。


 メイドは空っぽになったポットとカップをトレイに乗せ、空いた方の手を教授室のドアノブに伸ばした。

「レナ」

 男の声が女の耳をくすぐった。今宵、初めて名を呼ばれ、レナの胸の高鳴りは、最高潮に達する。

「明日もコーヒーを頼む」

 メイドは「かしこまりました」と頭を下げて、教授室を出た。
 なぜこの部屋で長い時間を過ごしてしまうのか、女はわかっていた。
 彼に自分の名を呼んで欲しいからだ。その一言が欲しくて、彼から離れられないのだ。


 廊下の灯りは消えている。
 暗闇の中を壁伝いに、メイドの部屋へ戻らなければならない。
 すっかり慣れた。幸い、一度もゴーストに会ったことはない。

 教授に恋をしても結ばれない。王立大学の教授は独身と定められている。
 先ほどの行為は、神に誓った夫婦のみに許されることだ。
 これは、神を裏切る行為ではないのか?
 なぜアーキスは、妻ではないメイドの身体を貪る? 神の御心を知りたい男が、なぜ神を裏切る?

 こんなことを思ってはならない。が、レナは、神の御心を知りたいと語る美しい姿を見ると、神とは反対の存在を思い出す。
 故郷の教会にも大学の教会にも、神に叛逆する恐ろしい魔王を描いた絵が飾られていた。
 アーキスの端正な姿は、魔王とは似ても似つかないのに、なぜ魔王の絵が頭に浮かぶのだろう? アーキスは神の御心を知りたいと顔を輝かせているが、その実、彼は神に成り代わりたいのでは?
 いや、そんな恐ろしいことを考えてはならない。
 
 レナは、壁伝いに闇の廊下を進む。
 故郷の教会の師司は説いていた。人を愛しなさい。報われなくても愛を注ぎなさい、と。

 彼にとって自分は戯れの相手に過ぎない。このような関係は長く続かない。いずれ自分は大学を去らなければならない。
 それでもいい。それでいい。ひと時でもあの方と過ごせた思い出だけで、残りの人生を全うしてみせよう。

「アーキス、あなたを愛しています」

 彼にも誰にも決して聞かれてはならない呟き。
 彼をただ愛する。彼の妻になれなくても、彼に愛されなくても、彼が魔王であっても。
 報われなくても人を愛する。それは神の御心に叶うことでは?

「私は神を裏切っていない。師司様の教えの通りに今も生きている」

 暗闇に一筋の光が差した。
 レナにはもう、恐ろしいものはなかった。
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