ママの忘れもの 私と彼女の五十年

さんかく ひかる

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令和の母と娘

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 実家を毎週訪ねるようになって、一年になる。
 両親は一軒家で二人暮らし。隣の市に住む兄夫婦が、二日に一度、介護に通っている。特に義姉あねには、感謝してもしきれない。
 母は昨年、腰椎圧迫骨折したため、ベッドから起き上がれない。理学療法士が通い歩行訓練のリハビリを指導しているが、母はあまり乗り気ではない。

 コンビニで買った食べ物を、父に渡す。父はずっとリビングのソファに座って、テレビを見ている。
 一言二言話し、母のいる部屋に入る。彼女は開口一番、必ず言う。

「私、疲れちゃった、本当に疲れたわ」

 通い始めた当初は(こっちは二時間以上かけて来たけど、あなた、ずっとベッドで寝ているよね?)と、心の中で突っ込んだが、免疫ができた。
 この人は、動かないのではなく、動けないのだ。
 八十過ぎの身体でベッドから動けない。それがどれほど疲れることなのか、今の私には、まだわからない。


 介護用ベッドに角度をつけて、母に週刊誌を渡した。母は「こういうこと知っておかないとね」と、政治スキャンダルの記事に目を通す。
 母が雑誌を拒まず喜んだことに、私は安堵する。

「お母さん、その手の話題好きだよね」

「違うわよ! こういうことを知るのは、自分を守るために必要なの」

 この人はそうなのだ。
 必要だから、仕方ないから、勉強になるから……必ず何かの理屈をつける。
 楽しいから、ワクワクするから、ドキドキするから……自分が好きだから、という発想はない。
 それは、彼女が昭和一ケタ生まれの戦中育ちだからか?
 理由は分からないが、彼女の発言の癖は染みついている。
 なぜなら。
 私は彼女と付き合って五十年になる。


「お母さん、日本のサッカーすごかったよね」

 新聞を開いて、ワールドカップの記事を見せた。
 私はスポーツに興味はない。が、「疲れた」を連呼する母を何とかしたくて、明るい話題を提供する。

「そうね。それはいいけど……あ、久保さんって、私の同級生にいたわ。九州の人でしょ?」

 母が代表選手のリストを指さした。

「違うと思うけど……調べてみるね」

 サッカーに詳しくない私は、選手の出身地は知らない。スマホで検索し、成果を母に伝えた。

「久保の出身は川崎だよ。あ、お父さんは和歌山出身だって。九州は関係ないよ」

「そう? でも私の同級生はね……」

 どんな話題を振っても、母は必ず自分の話に持っていく。昔から変わらない。すぐ話題はある一点に集約する。

「私、苦労ばかりだったわ」

 始まった。


「子供の私が『ご飯ちょうだい』と言ったら、母は『あっちへ行け!』って言うの。ひどいでしょ?」

 私が小学生のころから何百回、いや千回以上は聞かされている祖母への恨み。
 祖母は厳しい女性だった。私には優しかったが、背筋をピンと伸ばした着物姿は、貴婦人そのものだった。

 母の生家は、代々続く地主だ。祖父は、母が幼い時に亡くなった。祖母は、嫁ぎ先を守るので精一杯だった。幼子おさなごを慈しむ余裕はなかったのだろう。「あっちへ行け!」は、確かにひどいが。

「母は、結婚するか働くかどちらかにしなさいって言うの。あんまりと思わない?」

 長話ながばなしは父と結婚したところで終わる。その後の人生の方が長いのに、兄と私は、話題に上らない。
 老いのせいではない。昔から変わらない。
 それでも私は、彼女に抵抗する。

「お母さん、お兄ちゃん生まれて嬉しくなかった?」

「そうね、お兄ちゃん、ちっちゃい時、可愛かったわ」

 私が促すことでようやく母は、結婚後の人生を思い出す。

「お母さんには孫がいるし、ひ孫ちゃんも産まれたじゃない」

「ひ孫ちゃんは可愛いけど……」

 しかし、孫もひ孫も彼女の慰めにならず、話題は振りだしに戻る。

「母ってひどいのよ」

 またそれかよ! 何千回聞けば、満足するんだ!!
 私は真っ黒に変色する。

「あんたには孫もひ孫もいるじゃない! 私、病院に行っても子供できなかったんだよ! あんたと違って、私はひとりぼっちで死ぬしかないんだよ! あんたがカワイソウ? 私の方があんたより、ずっとずっと可哀想だよ!」

 母は数秒固まってから、ポツリと話す。

「あなたに子供ができなかったのは、私のせいではないでしょ?」

「じゃあ、おばあちゃんが意地悪なのも、私のせいじゃないよね!?」

 自分は最低だ。八十過ぎの老人にすることではない。

 身体が弱いのに、高齢出産で私を産んだ母。
 朝寝坊な私を、毎日苦労して起こした母。
 家事が苦手なのに、六年間、私の弁当を作った母。
 大学に入学してすぐ引きこもった私を、何とかしようとした母。

 全部忘れている私は最低だ。
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