彼女の前世がニホンジン? 2 聖妃二千年の愛

さんかく ひかる

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10章 アタランテ(聖妃の黄昏)

142 二つの別れ

 玉座の間の酒宴から三日後、アタランテの私室に、リディアが茶器をトレイに乗せて入ってきた。

「リディア、あなたが私に部屋に来るなんて、久しぶりね」

「はい、今日はお別れの挨拶に伺いました」

「別れ? 何ですって?」

 リディアは壺からカップに茶を注ぎ入れる。レモンバウムの香りがあたりに立ち込めた。

「息子トアスが王宮の外の世界を知りたいと……聖王様は、メノン様と共にガウラに行くよう、勧めてくださいました」

 末息子メノンは、近々ラドコスの末娘を娶り、ガウラ領主の任に着くことになっている。

「トアスは成長したわ。ひとりでもやっていけるわよ。それよりあなたがいなくなったら、アトレウス様が寂しい想いをされるわ」

 王の愛妾は寂しげに微笑む。

「いいえ……あたしはここから離れて、苦しみを終わらせたいのです」

 リディアの澄んだ瞳に吸い込まれる。
 この儚げな女を苦しめているのは、王者への想いだろうか?
 彼女がどれほどアトレウスを愛しても、彼を独り占めすることはできないのだ。

 自分がアトレウスの元から離れれば……いや、自身はただの女ではなく、ゴンドレシアすべての母。逃げることはできない。

「……わかったわ。ガウラでも、メノンと仲良くしてくれると嬉しいわ」

 長年王の愛妾を務めた侍女は唇を結んだ。

「ところで王妃様、聖王様のお守りをご存知ですか?」

 アタランテは首を傾げる。夫が肌身はなさず着けているお守りのことを、なぜリディアはこの場で切り出すのか?

「皮の小袋ね。イドメネウスが結婚した頃から身に着けていらして」

「あのお守りは、あたしが作って差し上げたんです」

 女は茶器を抱えて、退出した。


 アタランテはただひとり、床を見つめる。
 そういうことだったのか。だからアトレウスは、あのお守りを肌身離さず着けていた……愛する女性が作った大切な宝を……。

「いやだわ、私」

 王妃は首を振った。黒い感情の目覚めに、ただ戸惑う。アトレウスとの間にはもう孫が何人もいる。コンスタンティアの死から、夫と男女の仲に戻るつもりはなかった。
 なのに。
 今、渦巻くはリディアへの嫉妬。

「やめなさいアタランテ! 私はゴンドレシアの母! 宮の女たちは、みな私の娘」

 白髪混じりの巻き毛を振り乱す。

「おい、どうした!」

 戸口で男の声がした。
 見ると夫アトレウスが、大股で近づいてくる。

 女は身動きできず、ただ硬直するのみ。
 愛妾への嫉妬に頭を巡らせていたところに、当の男が現れるとは。

「あ、あなた……な、なぜ?」

 男は大きな手で妻の背中を優しくさする。

「お前こそどうした? いきなり大声を出して何かあったか?」

 愛妾がいなくなる……目の前の夫は寂しいのではないか? 慰めの言葉をかけるべきか? いや、古い妻が口に出すべきことではない……。
 言葉を探し求めるアタランテに、アトレウスが畳み掛ける。

「話したくないなら良い……それより、今すぐティリンス村へ帰るんだ」

「え?」

 女は緑色の眼を見開いた。


 割り切れぬ思いを抱えているところに、夫からの唐突の命令。

「あなたはなぜ、今になって私に故郷へ帰れと?」

 まさか今更この王宮から出ていけということなのか? 女の胸が騒めく。
 しかし続くアトレウスの言葉が、騒めきを消した。

「ティリンス村から使者が来たから、タラオス殿の様子を聞いた。この数年、王都に顔を見せなくなったからな。今や身動きできず、屋敷から出ることも難しいそうだ」

 嫉妬に囚われた王妃の頭が白くなった。
 父タラオスはもう八十歳近い。母メロペが亡くなり七年経っている。いつ何があってもおかしくない年なのに、アタランテは考えないようにしてきた。

「父が……そうですか」

 娘の死、ゴンドレシアの統一といった大きなうねりを乗り越え、たった今、夫の愛妾への嫉妬に囚われる自分を、アタランテはひどく恥じた。老いた父への想いをなおざりにしてきた。

「今すぐタラオス殿に会うんだ。車も旅支度も済ませてある」

 王妃は瞬きを繰り返す。

「帰ってよろしいのですか? その……」

 ティリンス村を出て三十年。アルゴスの王妃となるからには、故郷へ帰れないことは覚悟してきた。
 アトレウスは穏やかに微笑む。

「ゆっくりお父上と過ごすがいい」

 嫉妬の火が一瞬にして冷めていく。故郷に帰れと言われたことが、むしろ救いのように思えた。
 夫に促され私室を出ると、侍女たちが王妃の旅支度で忙しなく走り回っている。

「あなた、こんなに急がせなくても……」

「ティリンス村は馬を走らせても十日はかかる。ぼさっとするな」

 アトレウスはアタランテの手首を引いて、庭に連れ出した。
 すでに馬車が何台も待機している。荷車には、いくつもの壺が詰めまれている。

「手ぶらで故郷に帰るわけにはいかんだろ? 見舞いの品を急ぎ用意させた。ほら」

 男はしゃがみ込み、昔と変わらぬ豪腕でアタランテを横抱きにした。

「あなた! 私、歩けます!」

「俺が抱えるほうが早い」

 考える間もなく、アタランテの身は馬車に押し込まれる。
 王妃が別れを告げるまもなく、車は都を駆け抜けていった。


 アタランテは三十年ぶりに、故郷ティリンス村に足を踏み入れた。
 村長の娘だった女は、今や統一ゴンドレシアの聖妃である。村人たちは熱狂をもって迎え入れ、夜には盛大な宴が開かれた。
 焚火を囲んで、歌い踊り、飲み明かす。
 だが、そこに父タラオスの姿はなかった。

 翌朝。アタランテはようやく村長の屋敷に案内された。
 寝床に伏す父は、顔の肉を落とし、目の奥だけがかすかに光っている。
 残された時間がわずかであると、その眼差しが静かに告げていた。

「お父さん! なかなか帰れなくて、ごめんなさい」

 娘は、骨ばった手をそっと包み込む。
 タラオスの口元が、ほんのわずか緩んだ。
 竜の娘の力で、命を引き留めることはできないが、痛みを和らげることはできる。
 父の呼吸が少しずつ楽になっていくのがわかった。

「お、おおアタランテ……さすがじゃ……胸のつかえが嘘のようじゃ……」

 タラオスは肘で体を支え、上半身を起こした。

「お父さん、無理しないで」

「いやいや、聖妃様のお越しじゃ。寝たままでは、失礼だからな」

 その言葉に、アタランテはほほえんだ。
 目尻に光るものが、朝日にきらりと揺れた。


「いい天気じゃ」

 水仙が白く咲く秋の川辺を、父と娘はゆっくり歩く。
 タラオスは、河原の石に腰を下ろした。アタランテも隣に座る。

「お前を竜から授かった時も、こんな川じゃった……この村ではないがな」

「私を? 私はこの村で生まれたのではなかったの?」

「ああ、生まれたのはここじゃ。だが授かったのは……別の地じゃ」

 タラオスは、遠い記憶を辿るようにまぶたを閉じた。

「なかなか子に恵まれなんでな……メロぺが泣き出すほどで……そこで旅に出たんじゃ。子が授かる泉の噂を聞いてな」

 初めて聞く話に、アタランテは身を乗り出す。

「わしらは自分の欲のために魔法を使ってはならんと戒めてきた。竜は、欲深い魔法使いには容赦せんからな」

 アタランテの脳裏に、前王メレアグロスの末路がよぎる。

「泉に浸っても何も起こらんでな……とうとうメロぺは竜に向かって泣いて訴えた。
『子が授かるなら魔力を失ってもよい』とな……」

 父の眼が細くなる。

「そしたら竜から、『お前にしよう』とお告げがあっての……村に戻ったら、お前がメロぺの腹におった」

 秋の日差しが、アタランテの横顔を赤く照らす。

「間違いなくお前は竜の娘じゃ。ゴンドレシアの聖妃となったのも……定めじゃな」

「全てはアトレウス様のおかげよ。ふふ、お父さん、最初あの人に会った時、炎の魔法をぶつけたわね」

「はは……あの聖王様に、の。若い娘をたぶらかす男にしか見えんかったでな……お前は間違っておらんかった」

「どうなのかしら……あの人は、竜の力で私と結婚させられたのよね……」

 アタランテの胸に、ふと守り袋のことがよぎる。
 愛妾リディアの手で作られた、小さな皮袋。

「おいおい、あの人は大きなゴンドレシアを治める王じゃ。妾の一人や二人、子の一人や二人……許してやれ」

「もう、お父さんったら……男の人って、みんなそう言うのね」

 アタランテは子供のように頬を膨らませた。
 タラオスは嬉しそうに頷く。

「久しぶりじゃ……お前のそんな顔を見るのは。本当に、良かった……」

 日差しが赤く傾き、麦畑が風に揺れていた。


 三日後、ティリンス村の長タラオスは、静かに竜の元へ還った。
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