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5 定番ですが、主人公は王子様

(5)またまた華のない新キャラ登場

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「うぜーよ! あんたの奥さんにチクってやる!」

 パリスはヘクトルによって、突然、宿の二階に押し込められ、尻をいじられ後ろから抱きしめられた。
 若者は気色悪いセクハラ行為に耐えかねて、反撃した。
 怒りが収まらないパリスは、転がる大男のわき腹に何度も蹴りを入れる。

「や、やめろ! 悪かった! 嬉しすぎてつい、落ち着け!」

「僕とヤリたいんだったら、プロセス踏め! デート誘って、スウィートトークとプレゼントで攻めてからだろ! いきなり襲うなんてサイテーだ!」

「わ、わかった! まず服を着ろ!」

 パリスは裸体のまま、転がるヘクトルに蹴りをいれる。

「あんたが脱げと言ったんだろ!」

「本当に悪かった! 弟よ! 兄の話を聞いてくれないか!」

『弟』と呼びかけられて、パリスは我に返る。ようやく攻撃をやめ、衣服を被り、帯を締めた。

「言っとくけど、今さらワインの壺をもらっても、あんたとだけはヤラないからな」

「誤解だ! 兄が弟にそんなことするわけないだろ! 第一、俺には妻がいる!」


 ヘクトルは寝台に腰かけ、パリスに、自分の右隣へ座るよう手招きした。

「俺が七歳の時、弟が産まれた。親父もお袋も喜んだ。アポロンの恵みを受けた子が生まれたんだ」

「アポロンの恵み?」

「トロイア王族のなかには、ここに」

 ヘクトルがパリスの右尻に手を伸ばしてきた。当然パリスはバシッとはたく。

「だから、セクハラするな!」

「すまんすまん、ここに」

 今度は、ヘクトルが自身の右の臀部を触った。

「王族のなかには、輝くしるしを着けて生まれるものがいるんだ」

 男は腰の帯を緩め短剣を床に置き、衣の裾をたくし上げた。ゴソゴソと衣のこすれる音が響く。

「だから、僕はぜーったいに、あんたとはやらないんだって!」

 パリスの抗議を無視して、ヘクトルは自身の右尻を指さした。

「ここだ。わかるか?」

 むさ苦しい男の尻などパリスは見たくなかったが「あ……」と声を漏らす。

「なんだろ、これ。不思議な形で光っている」

 むさ苦しくも引き締まった臀部には、黄金色に輝く図形が刻まれている。T字の形を、手のひらほどの大きさの半円の弧が囲んでいる。
 男は裾を下ろし、帯を結び直した。

「場所が場所なのであまり見たことはないが、俺は兜の力を授かって生まれた、と聞かされた」

 ヘクトルは、床に置いた短剣を拾い上げる。

「お前も知りたいだろ? これを使おう。さあ立つんだ」

 剣の煌めきに圧され、パリスはおずおずと立ち上がる。素直に裾をたくし上げ、さきほどヘクトルに触られた部分を見せた。
 男は、パリスに見えるよう剣身の角度を調整し、右尻を映した。

「よく見えないけど、半月みたいだね」

 剣身に写る影に目を凝らすと、かすかに光る閉じた半円の縁取りが見える。

「アレクサンドロスと名付けられた弟の尻には、弓の形が刻まれていた。お前のしるしは、俺が二十年前に見た形と同じだ」

 パリスは衣を整えながら「でも……ヘクトルの弟は、アレクサンドロスはどうして?」とこぼす。
 男は弟かもしれない若者の問いかけに、ゆっくりと首を振った。

「俺がアレクサンドロスを見たのは一度だけだ。生まれた次の日に死んだ。立派な葬儀をして、親父とお袋と俺も、王宮のみなが泣いた」

「じゃ、じゃあ、アレクサンドロスは……」

 ヘクトルが勢いよく頭を上げた。

「俺は弟の死に顔を見てない。思い出した。遺体は布で覆われていた。焼いた跡も見ていない」

「もしかして、トリファントスさんの言ったことが?」

 未来人の世界では、パリスは不吉をもたらす者として捨てられたと伝えられている。

「お前を親父とお袋に会わせれば、はっきりする」

 ヘクトルはバシッと、不安に怯えるパリスの背中を叩いた。曇りのない笑顔だった。


 兄弟かもしれない二人が二階で盛り上がっている間、未来人トリファントスは、古代のグルメと格闘していた。

「ここで生きてくんだから、薄い味に慣れねーとなあ。俺に料理のスキルがあったら、飯テロ起こせるんだろうが、中途半端な算術しか取り柄がねーんだよ」

 しかも未来人なのに、トロイア戦争にまつわる重要なポイントを忘れてしまった――トリファントスが苦悩している間も、船人の宿は人の出入りが激しい。

 パリスたちの船にいた四人の漕ぎ手が入ってきた。彼らは四方に散らばる。
 漕ぎ手のなかに杖をついた老人がいた。ボサボサに広がった白髪が肩まで延びている。他の漕ぎ手たちと比べると、明らかに浮いている。全身を薄汚れたぼろ布で覆っている。伸びすぎた白髪で顔がよく見えない。

「ヘクトルさんが言ってたが、ここは就職相談所なんだっけ。あんなじいさんも、食っていかねえとな」

 漕ぎ手の老人がおぼつかない足取りで、トリファントスのテーブルに近づいてきた。

「あんたは船を漕いでたじいさんだな。アカイア人だっけ? 親分のご馳走だ。あんたも食えよ」

 これ幸いとトリファントスは、自分の口に合わない古代グルメを老人に勧める。
 アカイアの老人は杖にしがみついたまま、慎重に椅子に腰かけた。

「ありがてえ、ありがてえ。そうじゃ、一緒にいたお二人さんは?」

「今、取り込み中だ。いや?」

 奥の階段が鳴った。トリファントスが顔を向けると、よく知る二人の男が肩を組み、笑いながら降りてきた。
 戻ってきたヘクトルが、数学者の息子に笑顔を向けた。

「先ほどはすまなかった。が、貴殿のおかげで大切なことがわかったぞ」

「い、いや~ヘクトルさんにそう言われると、照れるなあ」

「貴殿は賢者だ。ああ」

 ヘクトルは、老人に向き直った。

「お前は、船を漕いでたアカイアの老人か」

「旦那さん。ご馳走になりやす」

 老人は山羊のチーズをもしゃもしゃと噛み締めている。
 ヘクトルとトリファントスが談笑するなか、パリスはいたたまれなくなってきた。
 こんな年寄りも働かなければいけないのか。顔は白髪で隠されている。どんな表情でチーズを味わっているのだろう。

「おじいさん、家族はいないの?」

 老人はうつむき、首を振った。

「うちの島は貧しくて……なんとかしてやりたかった。外に出て何年経つかのお。家族は、どうしているやら……」

 老人は、夢を見て島から本土に出たものの、夢果たせず故郷の島に帰れなくなったのか――パリスの胸に悲しみが広がる。

「ねえ、ヘクトル、なんとかならない? かわいそうだよ」

 弟かもしれない若者に請われ、男はすっと立ち上がる。

「じいさん、お前の故郷はどこだ? 島へ行く船の仕事を探してやろう」

 ヘクトルは、奥のカウンターに移ろうとした。が、老人に腕を捉えられた。

「つっ! な、なんだ!?」

 大男は捕まれた腕を振り払おうとするが、老人は離れてくれない。

「旦那は偉い人なんだろ? わしを王様に会わせてくれ!」

 アカイアの老人は、トロイアの王子の両肩にしがみついた。
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