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6 主人公は、あっさりワナにはまる

(17)神の住むところ

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 王女カッサンドラは夢の中で、愛する神に抱えられ、トロイアの南、アポロンの住処すみかイデの山頂に降りた。
 山頂には逞しい男が立っていた。
 カッサンドラは目を見張った。この男が海の神ポセイドンらしい。なるほど、いかにもポセイドンらしい風貌だ。アポロンと話せるようになって、はじめて他の神を目の当たりにした。

 かつてポセイドンは、アポロンと共に、トロイアを守っていた。が、アポロンばかり崇めるトロイア人にポセイドンが怒り、高波を起こした……と、トロイアには伝わっている。
 言い伝えのため、カッサンドラはポセイドンが苦手だった。が、苦手であれ神には変わらない。王女は礼を尽くそうと膝を折ろうとした。が、膝を曲げることも頭を下げることもできない。

(動けない、どうして? 声も出ない……夢の中だけど……)

「我慢してくれ。ポセイドンからお前を隠した。美しいお前を、奪われたくないからね」

 太陽神の命ずるまま、王女は神像のように硬直した。
 カッサンドラは、言い争うアポロンとポセイドンを、ただ見つめるだけだった。

「おいおい、喧嘩はやめよーぜ。ゼウスはなあ、お前を俺らオリュンポスチームに入れたいってな」

「ポセイドン、お前は見事ゼウスの兄の称号を得たな。早々に私を裏切ることで」

 海神はカラカラと笑った。

「ガハハハッ! 最高神の兄貴ってーのは、わりーもんじゃねーよ」

「誇り高いお前はもう、いないのだな」

 アポロンは金の眼を曇らせた。


 トロイアに小さな町が生まれたころ。
 アポロンは海の東を、ポセイドンは西の大地を、姉の女神ヘラと共に守護をしていた。他の神々も互いの領分を侵さず、人々の神であった。
 しかし、オリュンポス山の北から現れた雷神ゼウスは、強大な力でまたたく間に神々を征服する。
 地母神ヘラは、ゼウスの妃にさせられ、ゼウスの浮気に嫉妬する女神に成り下がってしまった。

「ポセイドン。お前はこのイデ山で、共にゼウスと戦おうと言ったではないか!」

「ハハハハハ。俺は、青臭いガキだった」

「トロイアの人々に堅固な城壁を造らせようと、導いたではないか!!」

 ポセイドンは「そんなことも、あったがな~」顔を背けた。
 その昔、海神は、ヘラがゼウスの支配下に入り、危機感を覚え、東のトロイアの神アポロンに協力を要請し、ゼウスに対抗した。

「アポロン、雷の力には勝てねえんだよ。お前はすげーイケメンで、アカイアでも女子受けする。オリュンポスに移ったら、お前の信者は爆増するぞ。イデ山なんかに引きこもるのは、もったいねーよ」

「断る! この雷はゼウスの仕業! トロイアの民が、雷によって起こされた炎に焼かれているではないか! 卑怯者! ゼウスは雲の向こうに隠れて様子を窺っているに違いない」

 アポロンは腕を掲げ天を指さし、ポセイドンをにらみつける。

「ポセイドン、ゼウスの使い走りにされて、悔しくないのか! お前は誇り高い大地の神だった!」

「俺をパシリだと? ほざくんじゃねー!」

 海神は目を剥き三叉の矛を高く掲げた。途端、トロイアの海岸で高波が発生し、多くの人が呑み込まれる。

「少しは誇りが残っていたようだな。が、ゼウスと一緒になってトロイアの民を苦しめるのはよせ」

 ポセイドンはアポロンの肩をぐいと抱き寄せ、耳元でささやいた。

「おいおいアポロンさん、お前も同じじゃね? 俺と一緒にトロイアを盛り上げたとき、病を流行はやらせトロイアを苦しめたじゃねーか」

 アポロンの形の良い耳が、ピクっと動く。それは真実であった。

「あれは……人々に神の存在を知らしめるためだった」

「かははは、いうねー。でもあん時とは違うぜ。お前と話せるトロイア人、もういないんだろ? 虚しくねえ?」

 誇り高い太陽神は、海神の逞しい腕をはらいのけた。

「私は、たったひとりでも私の声を聞くものがいる限り……いや、だれ一人私の声を聞かなくとも、トロイアに人々がいる限り、私はイデ山にて民を守る」

 再びアポロンは天に腕を伸ばす。

「これ以上雷を落とすなら、アカイアの民は日照りに苦しむであろう」

 途端、ポセイドンの顔から笑顔が消え去る。海神は天を仰ぎ叫んだ。

「ゼウス、ヤバいぞ! ひとまず引き上げようぜ」

 イデ山を覆う群雲は、たちまち消え失せた。雷鳴はおさまり、青空がトロイアの大地を照らす。

「アポロン、俺と一緒にオリュンポスを盛り上げようぜ!」

 山頂に、黄金に輝く四頭立ての馬車が現れる。海神は太陽神に笑いかけ、天高く駆けていった。


 カッサンドラは、晴れ渡るイデの山頂で我に返った。

「かわいい人よ、怖かっただろう」

 アポロンは振り返り、王女に笑顔を見せる。
 カッサンドラは、神の争いを目の当たりにし、トロイアと愛する神に危険が迫っていることを理解した。
 彼女は、悲痛な面持ちで覚悟を示す。

「私……アポロン様がオリュンポスへ行っても、アポロン様のことは忘れません。ですから無理なさらないで! 私たちは、永遠にアポロン様を信じ続けます」

 アポロンの花嫁カッサンドラ。彼女は彼の声を聞くためだけに生きてきた。アポロンがトロイアを離れれば、二度と彼に会えないだろう。彼女の生きる意味を失ってしまう……いや愛する神を苦しめてはならない。彼を引き留めてはならない。

「そうではない!」

 アポロンは、カッサンドラを強く抱きしめた。

「ゼウスは、トロイアを滅ぼすのだぞ!」
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