上 下
75 / 92
6 主人公は、あっさりワナにはまる

(18)王子デイポボスとアカイアの船乗りたち

しおりを挟む
 トロイアを襲った群雲はあっという間に霧散し、空は青い輝きを取り戻した。
 ポセイドン神殿の建立を託されている王子デイポボスは、高波に襲われた海岸を見て回り、被災状況を確認する。
 波は、海の宿を直撃し、いくつもの小舟が流された。
 王子は、被災した人々を町へ避難させる。

「けが人と子供と年寄りは、トロイアの町中でしばらく暮らすんだ。無事だった者は、急いで港と宿を修復しろ。俺たちも手伝う」

 民は「ありがたい」と王子を拝む。デイポボスは部下に避難民の先導を託し、小高い崖の上に建立中のポセイドン神殿に向かった。
 神殿は、トロイアの町にあるアポロン神殿ほど豪勢ではないが、大きな石を積み上げ磨いている。
 スエシュドス老人に誘われたアカイア人の船乗りたちは屈強で、よく働いた。そのため、あっという間に神殿の基礎が出来上がった。
 造りかけの神殿に、十人ほどの男が集まっている。

「みんな無事か。神殿を崖の上に建てて良かったな」

 デイポボスは、兄ヘクトルの「神殿は高台に造れ」との指示に従った。彼は、兄にこと細かく相談して事業を進めた。

「王子様、俺たちゃなんともないんですが、あの人たちは?」

 アカイアの民のリーダーが、遠くを指し示した。指の先では、避難民がトロイアの兵に率いられている。デイポボスは彼らがトロイアの町に向かっていると答えた。途端、アカイアの男たちが、口を捻じ曲げた。

「俺らアカイア人は、トロイアの町には入れないっすよね」

 デイポボスは、口をつぐむ。
 トロイアの町を囲む巨大な城壁は、トロイア人を守るための物。トロイア、またはそこに属する人々なら入れるが、海の向こうで生まれたアカイア人を住まわせるわけにはいかない。
 神殿建立のためにやってきたアカイア人は、船の廃材を組み合わせて造った間に合わせの住処で暮らしている。

「ここは城壁の外だが、神殿の周りは高台で波も来ない。お前たちの住まいを石壁で造ろう」

 ――多分、ヘクトル兄上は反対しないだろう

 デイポボスは、ウンウンとうなずく。

「それは申し訳ないっす。住むとこあるだけでありがたいってもんだ。でも……俺たち、アカイアから逃げてきたじゃないっすか。もし、アカイアのやつらがトロイアを襲ってきたら、俺たち、どこにも行けないっすよね?」

「アカイアが攻めてくるなんて、言うなよ!」

 王子は顔を真っ赤にして否定した。が、その可能性は兄ヘクトルから散々聞かされている。兄が連れてきた予言者の男も同じ言葉を繰り返した。

「こっちのみなさん、呑気っすね。でもアカイアの連中、ヤバイっすよ。港で、でっかい船を何艘も造ってるし、王様は強い男たちを集めてるんですよ」

 その話も、アカイアを旅したヘクトルから聞かされている。

「……もしそうなっても、俺たちがお前らを守るから、心配するな」

 デイポボスは、アカイアの男たちの肩をポンポンと叩く。

「王子様。あんたはいい人だ」

 船乗りのリーダーは、悲しげに笑った。

「アカイアのやつらが攻めてきても、トロイアの城壁は頑丈だから、城の中は安心だ。でも……俺たちは、城の中に入れてもらえないっす」

 再びデイポボスは、口をつぐむ。

「そこで考えたんすが……この神殿の地下を掘って、避難場所にするってどうすかね?」

「あ、ああ、そ、それなら……いや……」

 デイポボスは、厳しい兄の顔を思い浮かべた。ヘクトルは独断専行を嫌がる。勝手に事業を進めたら、どんな報復が待っているだろう?
 彼は、身をもって知っている。

 デイポボスが、トロイアで暴れるアカイアの海賊を捕まえたときのこと。海賊たちが泣きながら詫びるものだから、「二度と襲うなよ」と見逃した。
 それを知ったヘクトルは、デイポボスを『なら自分が俺より優れた戦士である証を示せ!』と叱り飛ばした。
 おかげでデイポボスは、朝から日没まで食事抜きで、ヘクトルから槍投げと剣技の特訓を受ける羽目になった。弟王子は、数日間、怪我と筋肉痛で動けなくなった。

「少し考えるから待ってくれ」

 ヘクトルは今、王族アイネイアスや部下たちを連れて、落雷の激しかった南のイデ山へ向かっている。十日は戻らないだろう。

「王子様って、いっつもヘクトル様にオドオドしてますよね?」

 途端、デイポボスは真っ赤になって目を吊り上げた。

「俺はオドオドなんかしてない! 兄上は正しいから相談しているだけだ!」

 リーダーのとなりに立つ船乗りが、首を傾げた。

「同じ王子でもパリスさんとは違いますねえ。あの人はニコニコしていつも楽しそうにしてたなあ」

 パリスはスエシュドス老人と共に、アカイアの船乗りに声を掛けていた。パリスは王子と名乗らなかったが、老人が必ず、パリスがトロイアの王子だと紹介した。

「あの男のことを言うのは、止めてくれ!」

 デイポボスの顔がますます赤くなる。一月前に出ていった王子アレクサンドロスの名を聞くたびに、怒りがこみあげてくる。
 兄ヘクトルが旅先で知り合った男は、弟だった。彼の風貌からそれは納得できる。しかし弟王子アレクサンドロスは、卑怯にも勝手にトロイアを抜け出した。
 が、もっと腹立つのは、ヘクトルがそれを許したことだ。
 少しでも逆らうと容赦ないはずの兄が、なぜアレクサンドロスには甘いのだ?

「デイポボスさんだって偉い王子様なんすよね?」

「だから、兄上が戻ってくるまで待てって言ってるだろ!」

「その間に、アカイアが攻めてきたら俺たち……終わりじゃないすか……」

 デイポボスは、頭を巡らす。共に神殿事業に関わった男たちだ。アカイア人とはいえ、彼らはアカイアの人々に冷遇された船乗りだ。トロイア生まれではないとはいえ、むしろ守るべき民ではないか。

「わかったよ。神殿の地下に避難所を造っていい。でも……ヘクトル兄上が反対したら工事は中止だ」

「ありがたいっす! さすがはデイポボス王子!」

 船乗りのリーダーは、王子を強く抱きしめた。周りの船乗りも一斉に喜びに湧き、歓声を上げた。
 デイポボスは、船乗りたちの喜びを目の当たりにして(これでいい。俺はいいことをしたんだ)と言い聞かせた。
しおりを挟む

処理中です...