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4章 アラサー女子、年下宇宙男子に祈る
4-19 天の川に会いたくて
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流斗君のプロポーズから数週間経ったけど、相変わらず彼は忙しく、なかなか会えない。
電話やメッセージはあるが、他愛もない雑談ばかり。
私はまだ決めかねていた。
『朝河那津美』さんになるということを。
三月になった。
もうすぐ流斗君の誕生日がやってくる。
大学の食堂の隅で、ささやかな立食パーティー。
宇宙観測衛星の初動成功の打ち上げが、宇宙棟と事務室の合同で開かれた。
金曜日の夜ということで、みんな開放的な気分に浸っている。
お酒もどんどん減っているようだ。
私は車通勤だから、お酒は厳禁。沢井さんと飯島さんは、近くに住んでいるため、歩いて通っている。海東さんは、今日はご主人に送り迎えしてもらえるとか。
いいな。ちょっと羨ましい。
ほろ酔い加減の真智君が私に近づいてきた。
「やっほー、那津美さーん、流斗とイチャラブらしいね。俺だって狙ってたのにな」
相変わらず、チャラ男くん健在だ。悪い気はしない。私はお酒を飲んでないが、雰囲気に酔ってるのかも。
「真智くんの本命は別でしょ?」
微笑みながら小声で囁く「杏奈ちゃんとはどうなの?」
以前、塾で古文を教えていた杏奈ちゃんは、来月から日本史を学ぶ大学生となる。
秋の月祭りで見た二人の間には、先生と生徒以上の何かがあった気がしたんだけど。
「杏奈ちゃん、これから大学でいろんな出会いあるから、ボンヤリしてると、ほか行っちゃうよ」
「え、いやあ、那津美さん。ははは」
「そろそろチャラ男クン、卒業しないと……!?」
真智くんが、不意に私の頬にキスをした。
あまりにも自然な動作だった。私は何も言えず立ち尽くすだけ。
彼は本当に慣れている。スマートだ。
まあ国によっては普通の挨拶だし、彼にとっても普通の挨拶なんだろう。
「残念。流斗には負けっぱなしだ」
周囲がヒューっと騒ぎに包まれる。と、騒ぎに気がついた流斗君がつかつかとやって来た。
「真智さん! 広報の人に何してるんですか!」
「うわ、流斗先生、早いね。怖いから帰りまーす」と手をヒラヒラさせて去った。
後に残った私は、流斗君を宥める。
「朝河先生、大丈夫ですよ。ただの挨拶ですから」
流斗君が私に小声で呟いた。
「真智さんには許すくせに、僕がしたら、その挨拶違うって、怒ったよね?」
「あ、それは外国に行く先生にちゃんとしてほしくて……」
周囲の目が気になる。
付き合いが公然の秘密状態とはいえ、ここでそういう話はしたくない。
と、今度は沢井さんが私たちの前に現れた。こちらも少しお酒が回っているようだ。
「ねえ、朝河先生。うちの素芦と付き合う意味って分かってます?」
「ちょっ! やめてください課長」
「何です?」
流斗君が不機嫌そうに沢井さんを睨んだ。
「あのね、先生は若いから結婚なんてまだまだ先でしょうけど、うちの素芦は三十歳で後がないの? わかります?」
や、やめてよ!
「課長! 私に後がないとか、それセクハラです!」
騒ぎを聞きつけたのか、飯島さんが加わる。
「素芦さんこそ、セクハラや。朝河先生とベタベタしてマンションに入り浸って。そういうの環境型セクハラって言うの」
そうか、セクハラにも色々あるのね。そこは素直に反省する。
しかし、黙ってない人もいる。
「待ってください。素芦さんが広報の仕事で何か迷惑かけたんですか? それに仕事が終わった後、何をしようが、犯罪じゃない限り、関係ありませんよね」
流斗君が援護射撃してくれるが、恥ずかしいのでやめてほしい。
「飯島君、いちいち僻まないで、こういうチャンス、がんばりなさい」
「沢井さん! そういうのもセクハラなんどす! 大体、こっちは、沢井さんからの仕事でいっぱいや」
と、先ほどまで不機嫌そうだった若い准教授が、笑顔を向けた。
「飯島さん、僕も仕事でいっぱいでした。でも、偉人たちによると、恋愛は研究の妨げではなくインスピレーションの源泉だそうです。僕もそうありたいですね」
あら、流斗君、大人の余裕でカッコいい。
海東さんも加わった。
「いいな、若い人って。そうだ、朝河先生のマルチバースって、パラレルワールドなんですか? 別の選択をした私たちがいるみたいな」
海東さんはSF好きだ。
「そうですね。この世界は重ね合わせですから。でも、残念ですが、パラレルワールドに行くことはできないんですよ。別の選択をした未来を知ることができればいいんだけどね」
SF話で二人は盛り上がっている。一方、広報課の正職員二人は?
「飯島君、素芦さんと朝河先生がイチャイチャしようが気にしないで、君は君の仕事をしなさい」
「俺、沢井さんの指示、ちゃんとやってます」
「そうじゃなくて、君ももうすぐ二年になるんだから、自分で広報職員として何をするか、考えて仕事するの」
そういって沢井さんは私をチラッと見た。こちらの二人は先生と生徒というところか。
「だったら言いますけど、沢井さんも朝河先生、持ち上げるじゃないですか。すごい先生と思いますが、他にも素晴らしい先生います」
「お。そういう考え大切よ。じゃ、どの先生をプッシュしたい?」
飯島さんが黙ってしまう。
私も飯島さんに同意だ。べつに流斗君を独り占めしたいからじゃない。うん。
ということで、提案。
「課長。朝河先生以外にも、うちの大学、おもしろい先生いっぱいいますよ。私、研究のことはわからないけど、いつも着物着てる先生とか、占いにハマってる先生とか。そういうのPRしたらどうでしょ?」
「じゃあ、具体的なプラン、出してみて」
飲み会で、美魔女の課長に指示された。
こういうことを考えるのは楽しい。
そして、心なしか落ち込んで見える若い職員さんを、励ましたくなった。
「私、飯島さんのおかげで本当に鍛えられました。感謝してます」
赤ぶちメガネの奥の目がきょとんと丸くなっている。
「ま、まあな、あんたも少しは使えるようになったしね」
あれ、飯島さん、照れてる? 失礼だが、隣の席の職員さんを、初めて可愛いと思ってしまった。
打上げの帰り、流斗君をマンションまで乗せていった。
入り口のロータリーに車を停める。
金曜日の夜。
私は、明日と明後日は休みだ。
流斗君はどうなんだろう? 衛星は今のところ順調に稼働しているみたいだけど、色々忙しそうだな。
でも、明日と明後日。特に明後日は彼のそばにいたい。
「あ、あの……」
今晩、そっちに泊まっていいかな? と、自分から切り出すのは恥ずかしい。
「な、那津美さん、今日は、もう、早く帰った方がいいと思う」
そうか残念。でも明日は流斗君にとって久しぶりの休日、一人でゆっくり休みたいよね。
できれば明後日、ちょっとでも会いたいけど。
「そ、そのさ、宿、取った。天の川、見に行こうって、話したし」
かすれ声でポツポツと話す流斗君の顔は、フロントウィンドウを向いたまま。
「前から言ってたけど、ようやく休めるから。明日一泊ね。あ、現地の天気はまず大丈夫。晴れ」
はい? 明日一泊?
「今日は早く帰って、旅行の荷物まとめといて。日が沈まないうちに現地に入りたいから、明日、朝、迎えに行くね」
そっぽを向いたまま、彼は車を降りた。
彼の発言を整理してみる。
流斗君は、天の川を見るため、宿を取った。明日、彼の運転で出発する。
ということは?
私たち、初めての旅行じゃない!
思わず顔がにやけてしまう。月が見えたら、ウサギさまに感謝の歌を捧げるところ!
が、浮かれている場合ではないことに気がつく。
とっくに店が閉まっているこの時間に、旅行の準備をしなければならない。
流斗君、そういうことは、もっと早く言って!
あなたは、海外だってよく行って旅慣れているでしょうけど、私は、八年前の卒業旅行以来、誰かと旅したことはないのよ!
オレンジ色のミニバンで、流斗君はアパートに迎えにきてくれた。
「どこへ行くの」
「へへ、着いてからね」
サプライズっぽい。天の川を見るためだから、静かな山奥なんだろう。
私がこの前、宇宙研究センターへ行った時と同じ道を辿っている。
「那津美さん、気分悪くなったら言ってね。引き返すから」
私がこの町から出ようとするとおかしくなってしまうことを、心配してくれる。
「ご先祖様が寂しがるんだね。那津美さんにここにいてほしいって。それとも、ウサギさま? 亀さまかな?」
「流斗君、迷信、信じない人でしょ?」
彼は何も答えず、私の手をそっと握りしめる。
「ちゃんと運転して! まだ初心者でしょ」
「悪かったな。初心者で」
口を尖らせたその顔を、ずっと見ていたい。
車が高速道路に入ったところで、また、流斗君が手を握ってきた。
「もう、ちゃんと前を向いて運転してね」
「大丈夫?」
私の軽口など聞こえないかのように、真剣だ。
そうか。もうすぐ宇関町を出る。
私の中にいる誰かの声は、もう聞こえない。
私が宇関の町を出たからといって責めたてる者はいない。
宇宙研究センターへ行ったことで、「ソレ」は消えてしまったのだろうか。
車が速度を落とした。高速道路の本線なのに、心配なぐらいに減速する。後続車は今のところいないが。
「流斗君、普通に走って。後ろから追突される方が怖いよ」
「そうか、大丈夫か。よかった」
少しずつ、車は速度を増した。
左手に隣の市の名を記した標識が見える。
呆気ないほど、あっという間に、標識は後ろに消え去った。
何ということもない。町から出るなんて簡単なこと。
「ウサギさまも、亀さまも、ご先祖様も、好きにしていいって。ふふ、見捨てられちゃったかもね」
「僕が拾うよ。ただの人間でよければ」
ありがとう。拾ってくれて。
「平気? 休もうか?」
彼がそっと、また手を伸ばしてくれる。私はその暖かさを受け取った。
心配してくれるんだね。今、泣き出しちゃったからかな?
すごく嬉しいからだよ。
サイドウィンドウを開けてみる。
西の空は、青く晴れ渡っている。うすい筋雲が広がっている。
月は見えない。でも、空高く昇っているはず。
今の月齢は27。細い月だから、昼間の太陽にかき消されてしまっているだけ。
流斗君みたいに計算はできないけど、その日の月齢を意識するようになった。
古いカレンダーがなくても、ウェブでいくらでも月齢を確認できる。
もう私の涙は乾いていた。
お昼過ぎにサービスエリアで、きのこ雑炊をいただいた。
「ねえ、どこへ行くの?」
「へへへ」
私は、この道を知っている。夏、毎年訪れていた道。
彼が連れていってくれるところが、見えてきた。
降りたインターチェンジもよく知っている。
「本当に運転交代するよ」
私は運転こそしたことないが、大体道がわかる。
「バレちゃった? 調べたら星見の里ってことで、売り出してるみたいだね」
車は、山奥のバスターミナル側の駐車場で駐まった。
私はここを良く知っている。
ターミナルの雰囲気は大分変った。オシャレなファッションビルがいくつか並んでいる。
でも、ロータリーの真ん中にある、天使の像は変わらない。
「ちょっと買い出しするから、その辺で時間潰してて」
流斗君は、ファッションビルに消えていった。
星見の里と呼ばれるこの村に、私は二十年前まで両親と三人で、毎年、夏に出かけていた。今はもう他人のものになった別荘がある避暑地だ。
空にかかる雲も大分晴れてきた。夜にはきれいな天の川が見られるだろう。
しばらくすると、紙袋を抱えた流斗君が戻ってきた。
「あれ? なんかすごい荷物ね」
「今日の夕飯と、明日の朝食」
「宿、とってるって言ったよね」
「うん。今から行くよ」
車は再び走り出した。
どんどん山に登る。
この山道も、全部知っている。カーブの曲がり具合も、どこで入るかも。
「ねえ、もしかして」
「さすがにわかるか」
今から、別荘を見せてくれるんだ。すごいサプライズじゃない!
山奥に入ると、途中で、かつての別荘とは別の道に入る。
新しそうなログハウスが見えた。
車が停まる。流斗君は一人でログハウスに入り何か用事を済ませ、また戻ってくる。
「これで確実に、日が沈む前に着けるな」
「チェックインとか制限時間あるの?」
「星見の里だよ。ヘッドライトを点けて運転したくない」
車は、二十年前まで過ごした別荘に到着した。
壁はきれいに塗りなおされているが、そのこじんまりとした姿は変わらない。
「流斗君、ありがと! また、ここに連れてきてくれるなんて」
が、彼はそれには答えず、車を別荘の前の砂利に停めた。
「大丈夫? 今は人、いないみたいだけど、勝手に人の駐車場に停めるのって……」
ここが素芦の別荘だったのは八年前。今は他人の物だ。
が、彼は私に応えず、車から荷物を降ろし、鍵を見せた。
「明日までは、この家は僕らの物だ」
そういって、玄関のドアを開けた。
「ちゃんと掃除されているんだね」
中の壁紙や家具はすっかり変わったが、部屋の作りは変わらない。
大きなLDKに小さな寝室が二つ。
「僕は今から食事、準備するから、那津美さんはテレビ見るかネットしてて」
「一緒にご飯、作ろうよ」
思い出した。
普段、絶対、台所に立たない父が、この夏だけは、母と一緒に台所に立った。
といっても皿を洗って並べるぐらいしかできず、母に叱られてたっけ。
あの時、私は幸せで。父も母も、あの時は幸せだった……そう思いたい。
「那津美さんが、別荘で天の川を見たことがあるって言ったから、お母さんに、ここを教えてもらったんだ。調べたら貸別荘になってた」
照れくさそうに玉ねぎの皮をむく流斗君。
私たち初めての旅行。
彼がセッティングしてくれたプランが、ようやく実現した。
私が宇関から出られないこともあって、会う場所はいつも私が決めていた。
思わず彼の肩に頭を乗せる。
「危ないって」
「私、流斗君が大好き。どの宇宙でも一番好き」
自分の気持ちをちゃんと伝えてなかった。
恥ずかしい、叶わない、どうせ無理だから、と、気持ちにふたをしていた。
私はただの友だちでいい、時間を潰すだけの関係でいいって、言い聞かせた。
「へへ、そうか……がんばって良かった」
消えるような小さな声で答える彼が好き。
この嬉しさ、どう現わしたらいいかわからない。
子ども時代、私は幸せだったと思い出させてくれたから。
忙しい合間の休み、私と過ごすことに使ってくれたから。
私を喜ばせようと考えてくれたから。
「今度こそ、首都のプラネタリウム、行きたいな」
米を研ぎながらお願いした。
次は、流斗君の好きなところに連れてってね。
電話やメッセージはあるが、他愛もない雑談ばかり。
私はまだ決めかねていた。
『朝河那津美』さんになるということを。
三月になった。
もうすぐ流斗君の誕生日がやってくる。
大学の食堂の隅で、ささやかな立食パーティー。
宇宙観測衛星の初動成功の打ち上げが、宇宙棟と事務室の合同で開かれた。
金曜日の夜ということで、みんな開放的な気分に浸っている。
お酒もどんどん減っているようだ。
私は車通勤だから、お酒は厳禁。沢井さんと飯島さんは、近くに住んでいるため、歩いて通っている。海東さんは、今日はご主人に送り迎えしてもらえるとか。
いいな。ちょっと羨ましい。
ほろ酔い加減の真智君が私に近づいてきた。
「やっほー、那津美さーん、流斗とイチャラブらしいね。俺だって狙ってたのにな」
相変わらず、チャラ男くん健在だ。悪い気はしない。私はお酒を飲んでないが、雰囲気に酔ってるのかも。
「真智くんの本命は別でしょ?」
微笑みながら小声で囁く「杏奈ちゃんとはどうなの?」
以前、塾で古文を教えていた杏奈ちゃんは、来月から日本史を学ぶ大学生となる。
秋の月祭りで見た二人の間には、先生と生徒以上の何かがあった気がしたんだけど。
「杏奈ちゃん、これから大学でいろんな出会いあるから、ボンヤリしてると、ほか行っちゃうよ」
「え、いやあ、那津美さん。ははは」
「そろそろチャラ男クン、卒業しないと……!?」
真智くんが、不意に私の頬にキスをした。
あまりにも自然な動作だった。私は何も言えず立ち尽くすだけ。
彼は本当に慣れている。スマートだ。
まあ国によっては普通の挨拶だし、彼にとっても普通の挨拶なんだろう。
「残念。流斗には負けっぱなしだ」
周囲がヒューっと騒ぎに包まれる。と、騒ぎに気がついた流斗君がつかつかとやって来た。
「真智さん! 広報の人に何してるんですか!」
「うわ、流斗先生、早いね。怖いから帰りまーす」と手をヒラヒラさせて去った。
後に残った私は、流斗君を宥める。
「朝河先生、大丈夫ですよ。ただの挨拶ですから」
流斗君が私に小声で呟いた。
「真智さんには許すくせに、僕がしたら、その挨拶違うって、怒ったよね?」
「あ、それは外国に行く先生にちゃんとしてほしくて……」
周囲の目が気になる。
付き合いが公然の秘密状態とはいえ、ここでそういう話はしたくない。
と、今度は沢井さんが私たちの前に現れた。こちらも少しお酒が回っているようだ。
「ねえ、朝河先生。うちの素芦と付き合う意味って分かってます?」
「ちょっ! やめてください課長」
「何です?」
流斗君が不機嫌そうに沢井さんを睨んだ。
「あのね、先生は若いから結婚なんてまだまだ先でしょうけど、うちの素芦は三十歳で後がないの? わかります?」
や、やめてよ!
「課長! 私に後がないとか、それセクハラです!」
騒ぎを聞きつけたのか、飯島さんが加わる。
「素芦さんこそ、セクハラや。朝河先生とベタベタしてマンションに入り浸って。そういうの環境型セクハラって言うの」
そうか、セクハラにも色々あるのね。そこは素直に反省する。
しかし、黙ってない人もいる。
「待ってください。素芦さんが広報の仕事で何か迷惑かけたんですか? それに仕事が終わった後、何をしようが、犯罪じゃない限り、関係ありませんよね」
流斗君が援護射撃してくれるが、恥ずかしいのでやめてほしい。
「飯島君、いちいち僻まないで、こういうチャンス、がんばりなさい」
「沢井さん! そういうのもセクハラなんどす! 大体、こっちは、沢井さんからの仕事でいっぱいや」
と、先ほどまで不機嫌そうだった若い准教授が、笑顔を向けた。
「飯島さん、僕も仕事でいっぱいでした。でも、偉人たちによると、恋愛は研究の妨げではなくインスピレーションの源泉だそうです。僕もそうありたいですね」
あら、流斗君、大人の余裕でカッコいい。
海東さんも加わった。
「いいな、若い人って。そうだ、朝河先生のマルチバースって、パラレルワールドなんですか? 別の選択をした私たちがいるみたいな」
海東さんはSF好きだ。
「そうですね。この世界は重ね合わせですから。でも、残念ですが、パラレルワールドに行くことはできないんですよ。別の選択をした未来を知ることができればいいんだけどね」
SF話で二人は盛り上がっている。一方、広報課の正職員二人は?
「飯島君、素芦さんと朝河先生がイチャイチャしようが気にしないで、君は君の仕事をしなさい」
「俺、沢井さんの指示、ちゃんとやってます」
「そうじゃなくて、君ももうすぐ二年になるんだから、自分で広報職員として何をするか、考えて仕事するの」
そういって沢井さんは私をチラッと見た。こちらの二人は先生と生徒というところか。
「だったら言いますけど、沢井さんも朝河先生、持ち上げるじゃないですか。すごい先生と思いますが、他にも素晴らしい先生います」
「お。そういう考え大切よ。じゃ、どの先生をプッシュしたい?」
飯島さんが黙ってしまう。
私も飯島さんに同意だ。べつに流斗君を独り占めしたいからじゃない。うん。
ということで、提案。
「課長。朝河先生以外にも、うちの大学、おもしろい先生いっぱいいますよ。私、研究のことはわからないけど、いつも着物着てる先生とか、占いにハマってる先生とか。そういうのPRしたらどうでしょ?」
「じゃあ、具体的なプラン、出してみて」
飲み会で、美魔女の課長に指示された。
こういうことを考えるのは楽しい。
そして、心なしか落ち込んで見える若い職員さんを、励ましたくなった。
「私、飯島さんのおかげで本当に鍛えられました。感謝してます」
赤ぶちメガネの奥の目がきょとんと丸くなっている。
「ま、まあな、あんたも少しは使えるようになったしね」
あれ、飯島さん、照れてる? 失礼だが、隣の席の職員さんを、初めて可愛いと思ってしまった。
打上げの帰り、流斗君をマンションまで乗せていった。
入り口のロータリーに車を停める。
金曜日の夜。
私は、明日と明後日は休みだ。
流斗君はどうなんだろう? 衛星は今のところ順調に稼働しているみたいだけど、色々忙しそうだな。
でも、明日と明後日。特に明後日は彼のそばにいたい。
「あ、あの……」
今晩、そっちに泊まっていいかな? と、自分から切り出すのは恥ずかしい。
「な、那津美さん、今日は、もう、早く帰った方がいいと思う」
そうか残念。でも明日は流斗君にとって久しぶりの休日、一人でゆっくり休みたいよね。
できれば明後日、ちょっとでも会いたいけど。
「そ、そのさ、宿、取った。天の川、見に行こうって、話したし」
かすれ声でポツポツと話す流斗君の顔は、フロントウィンドウを向いたまま。
「前から言ってたけど、ようやく休めるから。明日一泊ね。あ、現地の天気はまず大丈夫。晴れ」
はい? 明日一泊?
「今日は早く帰って、旅行の荷物まとめといて。日が沈まないうちに現地に入りたいから、明日、朝、迎えに行くね」
そっぽを向いたまま、彼は車を降りた。
彼の発言を整理してみる。
流斗君は、天の川を見るため、宿を取った。明日、彼の運転で出発する。
ということは?
私たち、初めての旅行じゃない!
思わず顔がにやけてしまう。月が見えたら、ウサギさまに感謝の歌を捧げるところ!
が、浮かれている場合ではないことに気がつく。
とっくに店が閉まっているこの時間に、旅行の準備をしなければならない。
流斗君、そういうことは、もっと早く言って!
あなたは、海外だってよく行って旅慣れているでしょうけど、私は、八年前の卒業旅行以来、誰かと旅したことはないのよ!
オレンジ色のミニバンで、流斗君はアパートに迎えにきてくれた。
「どこへ行くの」
「へへ、着いてからね」
サプライズっぽい。天の川を見るためだから、静かな山奥なんだろう。
私がこの前、宇宙研究センターへ行った時と同じ道を辿っている。
「那津美さん、気分悪くなったら言ってね。引き返すから」
私がこの町から出ようとするとおかしくなってしまうことを、心配してくれる。
「ご先祖様が寂しがるんだね。那津美さんにここにいてほしいって。それとも、ウサギさま? 亀さまかな?」
「流斗君、迷信、信じない人でしょ?」
彼は何も答えず、私の手をそっと握りしめる。
「ちゃんと運転して! まだ初心者でしょ」
「悪かったな。初心者で」
口を尖らせたその顔を、ずっと見ていたい。
車が高速道路に入ったところで、また、流斗君が手を握ってきた。
「もう、ちゃんと前を向いて運転してね」
「大丈夫?」
私の軽口など聞こえないかのように、真剣だ。
そうか。もうすぐ宇関町を出る。
私の中にいる誰かの声は、もう聞こえない。
私が宇関の町を出たからといって責めたてる者はいない。
宇宙研究センターへ行ったことで、「ソレ」は消えてしまったのだろうか。
車が速度を落とした。高速道路の本線なのに、心配なぐらいに減速する。後続車は今のところいないが。
「流斗君、普通に走って。後ろから追突される方が怖いよ」
「そうか、大丈夫か。よかった」
少しずつ、車は速度を増した。
左手に隣の市の名を記した標識が見える。
呆気ないほど、あっという間に、標識は後ろに消え去った。
何ということもない。町から出るなんて簡単なこと。
「ウサギさまも、亀さまも、ご先祖様も、好きにしていいって。ふふ、見捨てられちゃったかもね」
「僕が拾うよ。ただの人間でよければ」
ありがとう。拾ってくれて。
「平気? 休もうか?」
彼がそっと、また手を伸ばしてくれる。私はその暖かさを受け取った。
心配してくれるんだね。今、泣き出しちゃったからかな?
すごく嬉しいからだよ。
サイドウィンドウを開けてみる。
西の空は、青く晴れ渡っている。うすい筋雲が広がっている。
月は見えない。でも、空高く昇っているはず。
今の月齢は27。細い月だから、昼間の太陽にかき消されてしまっているだけ。
流斗君みたいに計算はできないけど、その日の月齢を意識するようになった。
古いカレンダーがなくても、ウェブでいくらでも月齢を確認できる。
もう私の涙は乾いていた。
お昼過ぎにサービスエリアで、きのこ雑炊をいただいた。
「ねえ、どこへ行くの?」
「へへへ」
私は、この道を知っている。夏、毎年訪れていた道。
彼が連れていってくれるところが、見えてきた。
降りたインターチェンジもよく知っている。
「本当に運転交代するよ」
私は運転こそしたことないが、大体道がわかる。
「バレちゃった? 調べたら星見の里ってことで、売り出してるみたいだね」
車は、山奥のバスターミナル側の駐車場で駐まった。
私はここを良く知っている。
ターミナルの雰囲気は大分変った。オシャレなファッションビルがいくつか並んでいる。
でも、ロータリーの真ん中にある、天使の像は変わらない。
「ちょっと買い出しするから、その辺で時間潰してて」
流斗君は、ファッションビルに消えていった。
星見の里と呼ばれるこの村に、私は二十年前まで両親と三人で、毎年、夏に出かけていた。今はもう他人のものになった別荘がある避暑地だ。
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「あれ? なんかすごい荷物ね」
「今日の夕飯と、明日の朝食」
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「うん。今から行くよ」
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「ねえ、もしかして」
「さすがにわかるか」
今から、別荘を見せてくれるんだ。すごいサプライズじゃない!
山奥に入ると、途中で、かつての別荘とは別の道に入る。
新しそうなログハウスが見えた。
車が停まる。流斗君は一人でログハウスに入り何か用事を済ませ、また戻ってくる。
「これで確実に、日が沈む前に着けるな」
「チェックインとか制限時間あるの?」
「星見の里だよ。ヘッドライトを点けて運転したくない」
車は、二十年前まで過ごした別荘に到着した。
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「流斗君、ありがと! また、ここに連れてきてくれるなんて」
が、彼はそれには答えず、車を別荘の前の砂利に停めた。
「大丈夫? 今は人、いないみたいだけど、勝手に人の駐車場に停めるのって……」
ここが素芦の別荘だったのは八年前。今は他人の物だ。
が、彼は私に応えず、車から荷物を降ろし、鍵を見せた。
「明日までは、この家は僕らの物だ」
そういって、玄関のドアを開けた。
「ちゃんと掃除されているんだね」
中の壁紙や家具はすっかり変わったが、部屋の作りは変わらない。
大きなLDKに小さな寝室が二つ。
「僕は今から食事、準備するから、那津美さんはテレビ見るかネットしてて」
「一緒にご飯、作ろうよ」
思い出した。
普段、絶対、台所に立たない父が、この夏だけは、母と一緒に台所に立った。
といっても皿を洗って並べるぐらいしかできず、母に叱られてたっけ。
あの時、私は幸せで。父も母も、あの時は幸せだった……そう思いたい。
「那津美さんが、別荘で天の川を見たことがあるって言ったから、お母さんに、ここを教えてもらったんだ。調べたら貸別荘になってた」
照れくさそうに玉ねぎの皮をむく流斗君。
私たち初めての旅行。
彼がセッティングしてくれたプランが、ようやく実現した。
私が宇関から出られないこともあって、会う場所はいつも私が決めていた。
思わず彼の肩に頭を乗せる。
「危ないって」
「私、流斗君が大好き。どの宇宙でも一番好き」
自分の気持ちをちゃんと伝えてなかった。
恥ずかしい、叶わない、どうせ無理だから、と、気持ちにふたをしていた。
私はただの友だちでいい、時間を潰すだけの関係でいいって、言い聞かせた。
「へへ、そうか……がんばって良かった」
消えるような小さな声で答える彼が好き。
この嬉しさ、どう現わしたらいいかわからない。
子ども時代、私は幸せだったと思い出させてくれたから。
忙しい合間の休み、私と過ごすことに使ってくれたから。
私を喜ばせようと考えてくれたから。
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米を研ぎながらお願いした。
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