狂い咲く花、散る木犀

伊藤納豆

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8章

134話 嘘泣き

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リクが来てからもう少しで1週間。篠ケ谷や天童の言う通り、ずっと一緒って訳でもないのだから今だけ我慢しようと晴柊は思い直していた。過去どう嘆いたって仕方が無い。琳太郎は自分だけだという今があるんだから。


そんな晴柊の元に再び現れたのはリクだった。あれから晴柊はリクにできるだけ接触しないように注意を払っていた。晴柊は視界にリクを捉えるも、これ以上挑発に乗るものかと鍋に向かい直す。無視だ無視。何度も懲りずに突っかかってくるリクも質が悪い。


「琳太郎さんどころか部下たちも手懐けてるんだね。琳太郎さん以外に股でも開いてるの?」

「アンタと一緒にするなよ。」

「まあそうだよね。身体を売る勇気も無い役立たずだし。」

「その安い挑発にはもう乗らないよ。確かにアンタと琳太郎には俺との間には無いもんがあると思うけど、それでも俺は一番欲しい物与えてもらえてるから。だからアンタも突っかかってくるの止めろよ。」


晴柊は鍋の中で煮えたぎる具材をお玉でかき回す。それまでおちょくる様子だったリクの表情が一変する。彼に背後を向けている晴柊はその変化に気が付かない。リクは晴柊に歩み寄ると、そのまま腕を力強く引き身体のバランスを崩させると、肩を押して尻もちをつかせる。急な衝撃に晴柊は痛みに顔を歪ませるが、すぐに立っているリクを見上げるようにして睨んだ。


「急になにするんだよっ……!!」


立ち上がろうとする晴柊にしゃがみ込み視線を合わせるとそのまま跨るようにして床に押し倒す。そしてリクは晴柊が使っていた包丁を手に取り、晴柊の首元に這わせた。


「騒ぐなよ。……本当にムカつく。なんでお前なんだよ。俺の方が、ずっと、ずっとずっとずっとずっとずーーーっと琳太郎さんの傍にいて、愛してたのに。ぽっと出のお前なんかになんで奪われなきゃならないんだよ。許せない、許せないっ……!!」


リクの様子がへ豹変する。包丁を掴む腕に力が込められ、柊は瞬時に彼の手を上から掴み、抵抗する。このままではマズい。でも声を上げれば何をされるかわからない。最早この男は正気ではないのではないか。恨みつのった視線で晴柊を見つめるリクの形相は、とてつもなく恐ろしかった。


「役立たず。邪魔者。疫病神。お前は相応しくない。わかってるなら自分からさっさと身を引けよ!」


リクの言葉に晴柊は怯むのではなく寧ろ怒りの感情が湧いてくる。腹立たしい。そんなことを言われる筋合いは無い。


「なんでアンタにそんなこと言われなきゃならないんだ!」


晴柊はそのままリクを突き飛ばすと、今度は自分がリクに馬乗りになるようにして跨った。誰かを呼ばなければ。


そのときだった。リクの口角が不敵に上がる。リクは無理矢理晴柊に包丁を握らせると、まるで誘導にするようにして自身の顔にそのナイフを振り下ろさせた。晴柊は突然のことにパニックになり、リクの手が離れるや否や血の付いたナイフを床にごとりと落とした。リクの綺麗な顔に赤い血が滴る。何が起きている?どうしてこんなこと――晴柊がぐるぐると頭で考えているときだった。リクが一段と声を張り上げる。


「助けて、誰か、誰かー!!!」


晴柊がハッとする。リクの傍から離れようとしたとき、琳太郎がリクの言葉を聞きつけてキッチンへとやってくる。その光景に一瞬目を見開いた。晴柊がリクの上に跨っている。リクの商売道具ともいえる顔には傷がついており、晴柊の手元の傍には血の付いた包丁が落ちていた。


「おい、何が起きて……」

「急にこの人が俺を襲ってきて……!」

「違う、違うっ……!」

「落ち着け、一旦離れろ。」


琳太郎が晴柊を立たせ、仰向けになり涙を流すリクの手を引いて起こさせた。騒動を聞きつけた篠ケ谷も合流する。異様な光景に、琳太郎と篠ケ谷は息を呑んだ。


リクは誰もが信じてしまうほどの涙をぽろぽろと流している。晴柊にはわかる、あんなのは嘘泣きだ。アイツが自分で自分を怪我させた。そう伝えようと晴柊が声を出そうとする。しかし晴柊の視界には残酷にも、自分の傍による琳太郎ではなく、涙を流すリクを心配そうに抱きかかえる琳太郎が映った。


怪我をしてるんだから、状況もわからない琳太郎にとっては当たり前の行動かもしれない。俺が説明して誤解を解かないと。しかし、晴柊の心の傷が抉られる。理由は何であれ、自分よりもリクを大切にしているような琳太郎の姿に、晴柊は胸が締め付けられた。


「っ……。」

「あっ、おい待て!」


入り口に立ち電話で他の組員に応急処置の指示をしているのであろう篠ケ谷の制止を振り抜き、晴柊はその場から逃げるように走り去った。篠ケ谷はすぐにその後を追いかける。


琳太郎は目の前で涙を流すリクを介抱していた。傍から見れば自分が悪者だ、無理もない。けれど、一瞬でも信じて欲しかった。どんなことがあっても自分の一番の味方でいて欲しかった。晴柊は涙が零れそうになるのを必死に堪え、玄関に向かって走る。


こんなことをすればリクの思うつぼ。自分が本当に危害を及ぼしたと思われる。でも、最早晴柊はどうにでもなれ、と思っていた。ヤケクソだった。俺を悪者にされてもいい。俺が怪我させたことにすればいい。もう、何もかもどうでもいい。悔しさ、虚しさが晴柊を襲う。


「こら、待てってば!!」


追いかけてきた篠ケ谷が晴柊の腕を掴む。


「離してよっ……もう、出てく……!!」

「落ち着けってば、どこに行く気だよ!」

「生駒くんのところでも、空弧のところでもっ……もう、嫌だ。ここにはいたくない……!!」

晴柊が篠ケ谷の腕をぱっと振り払う。離れて行こうとする晴柊を、篠ケ谷は思いっきり後ろから抱きしめた。抱擁、というよりは、逃げようとする晴柊を捕まえるかのように、後ろからぐっと強く拘束するように。僅かに背の高い篠ケ谷が晴柊にのしかかるように体重をかけ後ろから抱きとめた。


「わかってる、わかってるから。お前やってないんだろ。……もうどこにも行こうとしないでくれ、頼むから。」


いつも口調が荒く声の大きい篠ケ谷が、絞る様に出した声で晴柊に言葉を渡す。八城の一件の時の様に、もう二度と晴柊が傍からいなくなるのはごめんだ、と篠ケ谷は思った。篠ケ谷の抱きしめる手に、冷たいものが落ちる。晴柊の涙だった。



「ぅっ……ひ、っ……琳太郎さん、どうしようっ……顔に、傷っ……」


まるで取り乱すように泣くリクの肩を琳太郎は抱いていた。顔が商売道具であるリクにとって、この傷は相当ショックなものだ。跡が残れば、リク本人の価値を下げることにすら繋がる。夜の世界というのはそういう惨い世界なのである。


あの状況を見れば晴柊がリクを怪我させたと考えるのが妥当だ。しかし、仮にそうだとしても、きっと訳があるに違いない。とにかく晴柊本人に話を聞かなければ。琳太郎は冷静に、リクに問いかけた。


「落ち着け、今手当してやるから。他に怪我は無いか?」

「ひ、ぐっ……」

「お待たせしました、急いで手当しましょう。」


救急箱を持って現れたのは日下部だった。リクを椅子に座らせ、すぐに手当を始める。琳太郎は晴柊を今にでも追いかけようと、日下部にリクを任せ動こうとする。そんな琳太郎を見透かしたかのように、リクはぐっと腕を掴んでそれを制止させた。


「行かないで、琳太郎さんっ……俺の、傍にいて……」
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