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30. 既婚者からのアドバイス
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「神崎さん、会社パンフレット多めに机に出しておいてくれる?」
「大丈夫です。昨日予想以上にはけたので、今日はかなり多めに準備しておきました!」
「さすがね! それじゃあもうすぐ開場のようだから今日も1日よろしくね!」
「はいっ!」
都内にある大規模会場で開催されている新卒向けの合同会社説明会。
企業側にとっては学生に自社を知ってもらう貴重な場であり、就活生にとっては1日でたくさんの企業について現役社員から直接情報収集ができる有益な場だ。
就活生に向けて自社の説明を行うべく、様々な企業がブースを構えている。
そのブースの1つに、先輩社員とともに私もいた。
人事部で採用を担当する社員として仕事でこの場に来ているのだ。
10月に人事部へ異動してから半年、3月になり就活が解禁した現在はまさに繁忙期だ。
目まぐるしい日々を送っている。
開場すると、慣れないリクルートスーツに身を包んだ初々しい学生達が一気に会場に流れ込んで来る。
手渡されたブースの配置図を見ながらお目当ての企業を探す者、まずは全体を見回すべくキョロキョロしている者、とりあえず知名度の高い大手企業へ向かう者……とその行動は様々だ。
そんな学生達にブースから声を掛け、説明会に参加しないかと集客する。
うちの会社は業界No.1シェアを誇る大手情報通信企業だが、ビジネスモデルがB to Bのため、普段生活していて接する機会がなく、一般消費者には名前が知られていない。
テレビCMなどで知名度の高い企業にはどうしても集客力で負けてしまう。
待っているだけだとブースに学生が集まらないため、こうして積極的に人を呼び込んでいた。
この合同会社説明会は昨日に引き続き2日目なのだが、昨日の様子を見ていると、説明会で会社について知ってもらいさえすれば興味を持ってくれる学生は多い。
業界No.1という実績や安定性は学生にとって十分魅力的なようで、良質な企業との出会いと捉えてくれるのだ。
そのおかげで、昨日は机の上に置いておいた会社パンフレットは予想以上にはけた。
2日目の今日もブースへの集客は順調だ。
昨日以上に説明会への参加者が多く、合同説明会前に立てた目標人数を大幅に超えそうである。
先輩と二人でブースを切り盛りし、1日を終えた頃には二人とも疲れ果ててヘロヘロだった。
ずっと話しっぱなしだったので喉が痛い。
だが、2日間の日程を終え「やり切った!」という達成感と心地良い疲労も感じていた。
「お疲れ様~。今日も盛況だったわね! これで2日間無事終わったわけだけど、神崎さんにとって初の合同会社説明会はどうだった?」
「学生さんのパワーに圧倒されました……! あと思ってもみない質問などもあって、もっと自社のことを勉強しないとって感じました」
「うん、その気付きは大切ね。今まで営業として自社商品のことをお客様に紹介してきたと思うけど、今度は学生がお客様で会社自体が商品みたいなものだから」
ブースの後片付けが終わり無事に本日の終業を迎えた私は、その足で近くの居酒屋に入り、人事部の先輩女性社員である槙野さんと反省会を兼ねた打ち上げをしている。
槙野さんは人事部に異動した直後から私の指導役をしてくれている頼りになる先輩だ。
異動が多いうちの会社の中では非常に珍しいのだが、入社以来ずっと人事部で活躍しているスペシャリストである。
「でも商品のことがスラスラ答えられるのは営業にいた神崎さんの強みよね。もちろん私も一通りは分かるけど専門的で細かいこと聞かれると答えに窮する時があるもの。神崎さんが詳しいから助かっちゃった!」
「こちらこそ、福利厚生など制度の詳細はまだまだ勉強不足で、槙野さんのフォローに助けられました! ありがとうございました!」
「それならお互いの培ってきた得意分野で補い合えたわね! 私たちいいコンビじゃない?」
ジャケットを脱ぎ、仕事終わりの一杯として生ビールを一緒に楽しみながら私と槙野さんは目を合わせ笑い合った。
自分が営業部時代に頑張ってきたことを認めてもらえたようでとても嬉しい。
過去の経験は決して無駄じゃない、過去があるから今に繋がっているのだと感じる。
「ねぇ、話変わるけど、せっかく仕事終わりにこうして神崎さんと飲んでるわけだし、個人的に気になってること聞いていい?」
「はい、もちろんです!」
「それならさっそくなんだけど、神崎さんって彼氏いるの?」
「えっ」
今まで真面目に仕事の話をしていたのに突然の話題転換だ。
ちょっと意表を突かれ、私は目を瞬く。
彼氏が社内の人で関係を秘密にしていることもあり少し戸惑った。
「……えっと、本当に急に話変わりましたね?」
「だって仕事中はなかなかこういう話はできないじゃない? 私ずっと神崎さんと恋愛トークしてみたかったのよ! 私みたいな既婚者子持ちになると、普段はママ友と子供や旦那の話ばっかりで、こう胸キュンするような話に飢えててね」
そう言って槙野さんはビールを一口飲みながら悪戯っぽく笑った。
仕事中の頼りになる姉御という様子と打って変わって、まるで恋バナに興味津々な女子高生みたいだ。
その様子に私も笑いを誘われ、思わずクスッと笑みが漏れた。
「ふふっ、胸キュンするような話に飢えてるんですか? でも私の話なんて別に普通ですよ?」
「若い子の恋愛話ってだけで十分胸キュンなのよ、私にとってはね」
「若い子って槙野さんも若いじゃないですか!」
「もう30代半ばよ? で、それよりどうなの? 神崎さんは彼氏いるの?」
目をキラキラさせてグイッと身を乗り出してくる槙野さんに若干気圧されながら、私は彼氏が航さんであることだけを避けて事実を普通に口にした。
「はい、います。付き合って1年半弱です」
「え~そうなんだ! どんな人なの? 年上? 年下?」
「年は私より5つ年上です。優しくて気遣いが上手で、落ち着いてて、いつも頼りになる素敵な人です!」
「やだ~、ベタ惚れじゃない! 彼氏を真っ直ぐ素敵な人って言えるなんて羨ましいわね。それだけでキュンってきちゃったわ! ママ友と話してると旦那の悪口や愚痴ばっかり耳にするから、なんだか心が癒される心地ね」
私が照れることなく航さんに対する本音をストレートに述べたところ、槙野さんのテンションはさらに急上昇した。
次々に質問をされ、相手が航さんだと断定されないことだけ気をつけてそれに答えていく。
航さんが料理上手で手料理を振る舞ってくれることがある話をしたら、めちゃくちゃ好反応だった。
槙野さん曰く、結婚して共働きがしたいなら、相手も料理を始めとした家事をある程度できる人の方が絶対いいとのことだ。
「まあ、これは経験を踏まえた個人的な意見だけどね。確か神崎さんって20代半ばだったわよね? それで5つ上だと彼氏さんは30代前半? そんなにベタ惚れなんだったらそろそろ結婚とかは考えてないの? すでに一緒に住んでるんでしょう?」
「結婚は……前は全く願望なかったんですけど、最近は意識し始めてる、と思うんです。だけど、まだ踏ん切りがつかないというか」
「踏ん切りかぁ。神崎さんは慎重なのね。私なんかはもっと感情のままに決めちゃったかな~。私の場合はね……あ、ちょっと待って! 降谷部長から電話だわ」
恋愛トークが結婚話に移行してきた頃、槙野さんのスマホに着信がかかって来て、一旦私たちは会話を止める。
槙野さんが電話に出ている間、私は手元にあったビールで喉を潤しつつ、一人でぼんやりと今の話を反芻する。
……結婚、かぁ。同棲を始めて半年、航さんとの生活にも慣れて、今も関係は良好だし、ベタ惚れって言われるくらい航さんのこと好きなのに、なんで私は踏ん切りがつかないのかな?
同棲を始てからこれまで、航さんが結婚という言葉を口にしたり、催促をしてきたりしたことはない。
私の負担にならないように、私のペースに合わせてくれているのが分かる。
それはきっと航さん自身が結婚を急かされてプレッシャーを感じた過去があるからだろう。
……私って慎重すぎるのかな? さっき槙野さんは感情のままに決めたって言ってたけど、どんな感じだったんだろう? 既婚者の経験談はぜひ聞いてみたいかも。
「神崎さん、ごめんお待たせ……! あのね、近くにいるから今から降谷部長も合流したいって。オッケーしちゃったけど大丈夫だった?」
その時、一人物思いに耽っていた私に通話を終えた槙野さんに声を掛けてきた。
降谷部長はこの近くにある会場で今日は人事系の外部セミナーに参加していたのだが、セミナーを終えて槙野さんに今日の合同説明会の報告を聞くため電話してきたらしく、その際に私たちが近辺で打ち上げ的に飲んでることを知ったらしい。
せっかく近くにいるから「ぜひ俺もたまには部下と飲みたい!」と申し出があったそうだ。
「もちろん大丈夫です。降谷部長とご一緒させて頂くのは異動してきた頃の歓迎会以来なので楽しみです」
「神崎さんならそう言うと思ったわ。ちなみに降谷部長が奢ってくれるって!」
「うわぁ、なんだか申し訳ないですけど、嬉しいですね!」
そんな会話を槙野さんと交わしているうちに、本当に近くにいたらしい降谷部長が程なくしてお店に到着した。
降谷部長も加わり、私たちは改めてビールのジョッキを片手に乾杯する。
「急に合流して悪いな。俺も帰る前に一杯飲みたい気分だったところに、槙野から近くで飲んでるって聞いてな」
「とんでもないです。降谷部長なら大歓迎です」
実際、降谷部長に対して私はとても好感を持っている。
というのも、航さんが信頼している方ということもあるし、私が倉林院長からのセクハラ被害を会社へ申し出た時に専門窓口の統括者として真摯に対応してくれたのが降谷部長だったからだ。
今は人事部の上司であり、その仕事ぶりや人柄も近くで触れる機会もあって、ますます信用できる方だと感じるに至っている。
私たちはお酒を飲みながら、同じ部署の人間同士の集まりに相応しく、最初は今日の合同説明会の事や降谷部長が参加していたセミナーの話など仕事関連の話題で盛り上がる。
だが、お酒が進むと次第に話題はプライベートなことにも移り変わってきた。
「そういえば、俺が合流するまでは槙野と神崎は二人でどんなことを話してたんだ?」
「それはもちろん恋愛トークですよ、部長! 神崎さんったら彼氏さんにベタ惚れらしくって!」
ちょっと酔っ払ってきている槙野さんにサラリと彼氏の有無を降谷部長に暴露され、私は少し身じろぎする。
別に隠しているわけではないから嫌ではないが、ベタ惚れと言われるのはなんとも恥ずかしい。
しかもそのベタ惚れの相手である航さんと降谷部長が親しい間柄というのもあり、余計にソワソワしてしまう。
「へぇ、神崎は彼氏がいるのか。俺もその手の話は好きだぞ」
「ベタ惚れな上に一緒に住んでるけど、結婚は踏ん切りがつかないらしいんですよ。私なんかは笑いのツボが一緒で価値観が似てるし大丈夫かな~って思ってあんまり深く考えず感情のままに決めちゃいましたけどね。部長はどうでした?」
「もう何年も前で記憶が曖昧だが、まぁ俺も槙野と似てるな。一緒にいて楽で居心地良かったのが決め手だったかな」
話の流れで、ちょうど降谷部長が合流する前の話題が再び舞い戻ってきて、期せずして私は二人分の既婚者の経験談を聞けることになった。
二人ともコレと言った大きな何かがあってというより、一緒にいて自然体でいられる相手という点が共通のようだ。
「なんだかちょっと意外です。もっとこう、なんか決め手になるような大きな出来事とかが起きるものなのかと思ってました……!」
私が思ったままの感想を溢すと、降谷部長と槙野さんは揃って首を振る。
「そういう人もいるかもしれないけど少数派なんじゃないかしら? 結婚って一緒に生活していくってことだから、やっぱり普段一緒にいて考え方が合うな~とか、居心地良いな~とかの感覚が大切だと個人的には思うわよ」
「確かに結婚したからと言って、当人同士が変わるわけでも、劇的に生活が変わるわけでもない。同棲してる場合なんかは特にな。もちろん姓が変わったり、義理の家族が増えたり……という点で変化はあるが、恋人時代と急に関係性が変わるわけでもなく延長線上の関係だからな」
結婚を劇的な一大事だと認識しすぎているのではという既婚者からの助言を受けドキリとする。
そう言われて心当たりがあったからだ。
……私、結婚することで関係が変わることを無意識に恐れてるのかな……?
もしかすると私は、付き合って「恋人」になるのが怖かったように、結婚して「夫婦」なって関係が変わるのが怖いのかもしれない。
より正確に言うならば、関係が変わることでそれに付随して求められる変化が怖いのだ。
「ただの男女」から「恋人」になるとセックスが加わるが、それと同様に「恋人」から「夫婦」になると新たに求められることもきっとあるだろう。
それが何かは具体的に私には分からないけど、その時、またデキナイ事態にならないだろうか。
無意識にそれが怖い。
「……あの、ちなみに、関係性が恋人から夫婦になることで新たに求められることって何かありますか?」
「う~ん、そうね、やっぱり子供じゃないかしら? 子供は夫婦関係になって始めて考え始めるものだから結婚後特有のことね。子供が欲しいかどうかの意向は擦り合わせておいた方がいいかもね」
「あとは、やっぱり家族関係もじゃないか? 恋人関係の時は相手の家族と関わらないことも多いが、夫婦になると義理の家族になるからな」
具体的な話に私はふむふむと頷く。
つまり、もし私が結婚によって関係が変わることで起こる事態を懸念しているのであれば、このあたりを事前に解消しておくことが不安を和らげることに繋がりそうだ。
……なんだか踏ん切りがつかなかった自分の心の内が少しクリアになったかも!
なんとなくモヤモヤしていた部分に光明の光が差した気がする。
その後も結婚の先輩である既婚者2人から色々とアドバイスを貰い、宴もたけなわになってきたところでこの日は解散となった。
電車を乗り継ぎ、家に到着したのは23時前だった。
私が帰って来た場所は、元は航さんの家で、今は一緒に暮らしている家だ。
慣れた手つきで鍵を開け、リビングへ進む。
リビングには灯りがついているが、その場はシンと静まり返っていて、航さんの姿は見当たらない。
とりあえずバックをテーブルの上に置き、一日の疲れを解放するかのように気の抜けた息を吐きながら私はソファーに身を沈めた。
それと同時にガチャリとドアの開く音が辺りに響く。
上体を起こして音がした方を振り返れば、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングへ入ってくる航さんの姿があった。
「おかえり、志穂。遅かったね」
航さんは私の姿を認め目元を緩めると、ソファーの方に移動してきて、私の隣に腰を下ろす。
そして流れるような動きで私の体を自分の方へ引き寄せ、包み込むように抱きしめた。
シャワーを浴びた直後のためかいつもより航さんの体温は高く、服越しでもその温もりを感じる。
そのまま顔を寄せられ、私たちはごく自然に唇を重ねた。
ふわりと優しく触れるようなキスはとても心地良い。
それに私を抱きしめる航さんの腕の中はどこまでも温かく、ホッと心が和む。
胸がじんわり温かくなるのを感じながら、唇が離れたタイミングで私は顔だけ上を向き、航さんに話しかけた。
「合同説明会の後、降谷部長と槙野さんと飲みに行ってたんです。航さんは今日は早かったんですか?」
「割と早く帰れたよ。20時過ぎには家に着いたかな。合説2日目はどうだった?」
「昨日に続き忙しかったですよ。もっと会社の魅力を学生さんに伝えられるように、私もまだまだ勉強しなきゃなって思いました。でも営業で培った商品知識は槙野さんに褒めてもらえて嬉しかったです!」
「それは良かったね。志穂は学生と歳も近いし、自分が大学生だった頃に企業に対して知りたかったことを思い出して、それを伝えられるようになれば、学生にとって頼りになる人事担当になれると思うよ」
「はい、頑張ります!」
こんなふうに一日の終わりに航さんと今日あったことをお互いに話すのが同棲を始めてからの私たちの日常だ。
スキンシップをとりながら話をするこの時間が私はとても好きだ。
濡れたままだった航さんの髪に気付き、私はタオルで軽く拭いた後ドライヤーを持って来て乾かしてあげる。
柔らかな髪に触れているうちに、なんとなく私の手はそのまま航さんの頭を撫で始めた。
「なに? 俺を寝かしつけたいの? 志穂じゃないんだから撫でられても眠くならないけど?」
ちょっとからかい口調の航さんは噛み殺すように笑っている。
「もう! そんなんじゃないですよ!」と戯れ合うように抗議しつつ、私もつられて笑っていた。
……ああ、なんかこういう時間、すっごく幸せ。ずっと航さんとこんな日々を過ごしたいなぁ。
そんな感情で胸がいっぱいになった瞬間、脳裏をよぎったのは、先程の既婚者2人の言葉だ。
――『一緒にいて楽で居心地良かったのが決め手だったかな』
――『結婚って一緒に生活していくってことだから、やっぱり普段一緒にいて考え方が合うな~とか、居心地良いな~とかの感覚が大切だと個人的には思うわよ』
……この感情がまさにそうかも……!
いつも感じていることではあるけど、第三者から言語化して表現されたことで、しっくりくるのが分かった。
この今の自分の感情を大切にしたい。
それならば私がすることは一つだ。
「あの、航さん。……ちょっと話を聞いて欲しいことがあるんですけど、いいですか?」
私は航さんの目を見つめ、そう切り出した。
「大丈夫です。昨日予想以上にはけたので、今日はかなり多めに準備しておきました!」
「さすがね! それじゃあもうすぐ開場のようだから今日も1日よろしくね!」
「はいっ!」
都内にある大規模会場で開催されている新卒向けの合同会社説明会。
企業側にとっては学生に自社を知ってもらう貴重な場であり、就活生にとっては1日でたくさんの企業について現役社員から直接情報収集ができる有益な場だ。
就活生に向けて自社の説明を行うべく、様々な企業がブースを構えている。
そのブースの1つに、先輩社員とともに私もいた。
人事部で採用を担当する社員として仕事でこの場に来ているのだ。
10月に人事部へ異動してから半年、3月になり就活が解禁した現在はまさに繁忙期だ。
目まぐるしい日々を送っている。
開場すると、慣れないリクルートスーツに身を包んだ初々しい学生達が一気に会場に流れ込んで来る。
手渡されたブースの配置図を見ながらお目当ての企業を探す者、まずは全体を見回すべくキョロキョロしている者、とりあえず知名度の高い大手企業へ向かう者……とその行動は様々だ。
そんな学生達にブースから声を掛け、説明会に参加しないかと集客する。
うちの会社は業界No.1シェアを誇る大手情報通信企業だが、ビジネスモデルがB to Bのため、普段生活していて接する機会がなく、一般消費者には名前が知られていない。
テレビCMなどで知名度の高い企業にはどうしても集客力で負けてしまう。
待っているだけだとブースに学生が集まらないため、こうして積極的に人を呼び込んでいた。
この合同会社説明会は昨日に引き続き2日目なのだが、昨日の様子を見ていると、説明会で会社について知ってもらいさえすれば興味を持ってくれる学生は多い。
業界No.1という実績や安定性は学生にとって十分魅力的なようで、良質な企業との出会いと捉えてくれるのだ。
そのおかげで、昨日は机の上に置いておいた会社パンフレットは予想以上にはけた。
2日目の今日もブースへの集客は順調だ。
昨日以上に説明会への参加者が多く、合同説明会前に立てた目標人数を大幅に超えそうである。
先輩と二人でブースを切り盛りし、1日を終えた頃には二人とも疲れ果ててヘロヘロだった。
ずっと話しっぱなしだったので喉が痛い。
だが、2日間の日程を終え「やり切った!」という達成感と心地良い疲労も感じていた。
「お疲れ様~。今日も盛況だったわね! これで2日間無事終わったわけだけど、神崎さんにとって初の合同会社説明会はどうだった?」
「学生さんのパワーに圧倒されました……! あと思ってもみない質問などもあって、もっと自社のことを勉強しないとって感じました」
「うん、その気付きは大切ね。今まで営業として自社商品のことをお客様に紹介してきたと思うけど、今度は学生がお客様で会社自体が商品みたいなものだから」
ブースの後片付けが終わり無事に本日の終業を迎えた私は、その足で近くの居酒屋に入り、人事部の先輩女性社員である槙野さんと反省会を兼ねた打ち上げをしている。
槙野さんは人事部に異動した直後から私の指導役をしてくれている頼りになる先輩だ。
異動が多いうちの会社の中では非常に珍しいのだが、入社以来ずっと人事部で活躍しているスペシャリストである。
「でも商品のことがスラスラ答えられるのは営業にいた神崎さんの強みよね。もちろん私も一通りは分かるけど専門的で細かいこと聞かれると答えに窮する時があるもの。神崎さんが詳しいから助かっちゃった!」
「こちらこそ、福利厚生など制度の詳細はまだまだ勉強不足で、槙野さんのフォローに助けられました! ありがとうございました!」
「それならお互いの培ってきた得意分野で補い合えたわね! 私たちいいコンビじゃない?」
ジャケットを脱ぎ、仕事終わりの一杯として生ビールを一緒に楽しみながら私と槙野さんは目を合わせ笑い合った。
自分が営業部時代に頑張ってきたことを認めてもらえたようでとても嬉しい。
過去の経験は決して無駄じゃない、過去があるから今に繋がっているのだと感じる。
「ねぇ、話変わるけど、せっかく仕事終わりにこうして神崎さんと飲んでるわけだし、個人的に気になってること聞いていい?」
「はい、もちろんです!」
「それならさっそくなんだけど、神崎さんって彼氏いるの?」
「えっ」
今まで真面目に仕事の話をしていたのに突然の話題転換だ。
ちょっと意表を突かれ、私は目を瞬く。
彼氏が社内の人で関係を秘密にしていることもあり少し戸惑った。
「……えっと、本当に急に話変わりましたね?」
「だって仕事中はなかなかこういう話はできないじゃない? 私ずっと神崎さんと恋愛トークしてみたかったのよ! 私みたいな既婚者子持ちになると、普段はママ友と子供や旦那の話ばっかりで、こう胸キュンするような話に飢えててね」
そう言って槙野さんはビールを一口飲みながら悪戯っぽく笑った。
仕事中の頼りになる姉御という様子と打って変わって、まるで恋バナに興味津々な女子高生みたいだ。
その様子に私も笑いを誘われ、思わずクスッと笑みが漏れた。
「ふふっ、胸キュンするような話に飢えてるんですか? でも私の話なんて別に普通ですよ?」
「若い子の恋愛話ってだけで十分胸キュンなのよ、私にとってはね」
「若い子って槙野さんも若いじゃないですか!」
「もう30代半ばよ? で、それよりどうなの? 神崎さんは彼氏いるの?」
目をキラキラさせてグイッと身を乗り出してくる槙野さんに若干気圧されながら、私は彼氏が航さんであることだけを避けて事実を普通に口にした。
「はい、います。付き合って1年半弱です」
「え~そうなんだ! どんな人なの? 年上? 年下?」
「年は私より5つ年上です。優しくて気遣いが上手で、落ち着いてて、いつも頼りになる素敵な人です!」
「やだ~、ベタ惚れじゃない! 彼氏を真っ直ぐ素敵な人って言えるなんて羨ましいわね。それだけでキュンってきちゃったわ! ママ友と話してると旦那の悪口や愚痴ばっかり耳にするから、なんだか心が癒される心地ね」
私が照れることなく航さんに対する本音をストレートに述べたところ、槙野さんのテンションはさらに急上昇した。
次々に質問をされ、相手が航さんだと断定されないことだけ気をつけてそれに答えていく。
航さんが料理上手で手料理を振る舞ってくれることがある話をしたら、めちゃくちゃ好反応だった。
槙野さん曰く、結婚して共働きがしたいなら、相手も料理を始めとした家事をある程度できる人の方が絶対いいとのことだ。
「まあ、これは経験を踏まえた個人的な意見だけどね。確か神崎さんって20代半ばだったわよね? それで5つ上だと彼氏さんは30代前半? そんなにベタ惚れなんだったらそろそろ結婚とかは考えてないの? すでに一緒に住んでるんでしょう?」
「結婚は……前は全く願望なかったんですけど、最近は意識し始めてる、と思うんです。だけど、まだ踏ん切りがつかないというか」
「踏ん切りかぁ。神崎さんは慎重なのね。私なんかはもっと感情のままに決めちゃったかな~。私の場合はね……あ、ちょっと待って! 降谷部長から電話だわ」
恋愛トークが結婚話に移行してきた頃、槙野さんのスマホに着信がかかって来て、一旦私たちは会話を止める。
槙野さんが電話に出ている間、私は手元にあったビールで喉を潤しつつ、一人でぼんやりと今の話を反芻する。
……結婚、かぁ。同棲を始めて半年、航さんとの生活にも慣れて、今も関係は良好だし、ベタ惚れって言われるくらい航さんのこと好きなのに、なんで私は踏ん切りがつかないのかな?
同棲を始てからこれまで、航さんが結婚という言葉を口にしたり、催促をしてきたりしたことはない。
私の負担にならないように、私のペースに合わせてくれているのが分かる。
それはきっと航さん自身が結婚を急かされてプレッシャーを感じた過去があるからだろう。
……私って慎重すぎるのかな? さっき槙野さんは感情のままに決めたって言ってたけど、どんな感じだったんだろう? 既婚者の経験談はぜひ聞いてみたいかも。
「神崎さん、ごめんお待たせ……! あのね、近くにいるから今から降谷部長も合流したいって。オッケーしちゃったけど大丈夫だった?」
その時、一人物思いに耽っていた私に通話を終えた槙野さんに声を掛けてきた。
降谷部長はこの近くにある会場で今日は人事系の外部セミナーに参加していたのだが、セミナーを終えて槙野さんに今日の合同説明会の報告を聞くため電話してきたらしく、その際に私たちが近辺で打ち上げ的に飲んでることを知ったらしい。
せっかく近くにいるから「ぜひ俺もたまには部下と飲みたい!」と申し出があったそうだ。
「もちろん大丈夫です。降谷部長とご一緒させて頂くのは異動してきた頃の歓迎会以来なので楽しみです」
「神崎さんならそう言うと思ったわ。ちなみに降谷部長が奢ってくれるって!」
「うわぁ、なんだか申し訳ないですけど、嬉しいですね!」
そんな会話を槙野さんと交わしているうちに、本当に近くにいたらしい降谷部長が程なくしてお店に到着した。
降谷部長も加わり、私たちは改めてビールのジョッキを片手に乾杯する。
「急に合流して悪いな。俺も帰る前に一杯飲みたい気分だったところに、槙野から近くで飲んでるって聞いてな」
「とんでもないです。降谷部長なら大歓迎です」
実際、降谷部長に対して私はとても好感を持っている。
というのも、航さんが信頼している方ということもあるし、私が倉林院長からのセクハラ被害を会社へ申し出た時に専門窓口の統括者として真摯に対応してくれたのが降谷部長だったからだ。
今は人事部の上司であり、その仕事ぶりや人柄も近くで触れる機会もあって、ますます信用できる方だと感じるに至っている。
私たちはお酒を飲みながら、同じ部署の人間同士の集まりに相応しく、最初は今日の合同説明会の事や降谷部長が参加していたセミナーの話など仕事関連の話題で盛り上がる。
だが、お酒が進むと次第に話題はプライベートなことにも移り変わってきた。
「そういえば、俺が合流するまでは槙野と神崎は二人でどんなことを話してたんだ?」
「それはもちろん恋愛トークですよ、部長! 神崎さんったら彼氏さんにベタ惚れらしくって!」
ちょっと酔っ払ってきている槙野さんにサラリと彼氏の有無を降谷部長に暴露され、私は少し身じろぎする。
別に隠しているわけではないから嫌ではないが、ベタ惚れと言われるのはなんとも恥ずかしい。
しかもそのベタ惚れの相手である航さんと降谷部長が親しい間柄というのもあり、余計にソワソワしてしまう。
「へぇ、神崎は彼氏がいるのか。俺もその手の話は好きだぞ」
「ベタ惚れな上に一緒に住んでるけど、結婚は踏ん切りがつかないらしいんですよ。私なんかは笑いのツボが一緒で価値観が似てるし大丈夫かな~って思ってあんまり深く考えず感情のままに決めちゃいましたけどね。部長はどうでした?」
「もう何年も前で記憶が曖昧だが、まぁ俺も槙野と似てるな。一緒にいて楽で居心地良かったのが決め手だったかな」
話の流れで、ちょうど降谷部長が合流する前の話題が再び舞い戻ってきて、期せずして私は二人分の既婚者の経験談を聞けることになった。
二人ともコレと言った大きな何かがあってというより、一緒にいて自然体でいられる相手という点が共通のようだ。
「なんだかちょっと意外です。もっとこう、なんか決め手になるような大きな出来事とかが起きるものなのかと思ってました……!」
私が思ったままの感想を溢すと、降谷部長と槙野さんは揃って首を振る。
「そういう人もいるかもしれないけど少数派なんじゃないかしら? 結婚って一緒に生活していくってことだから、やっぱり普段一緒にいて考え方が合うな~とか、居心地良いな~とかの感覚が大切だと個人的には思うわよ」
「確かに結婚したからと言って、当人同士が変わるわけでも、劇的に生活が変わるわけでもない。同棲してる場合なんかは特にな。もちろん姓が変わったり、義理の家族が増えたり……という点で変化はあるが、恋人時代と急に関係性が変わるわけでもなく延長線上の関係だからな」
結婚を劇的な一大事だと認識しすぎているのではという既婚者からの助言を受けドキリとする。
そう言われて心当たりがあったからだ。
……私、結婚することで関係が変わることを無意識に恐れてるのかな……?
もしかすると私は、付き合って「恋人」になるのが怖かったように、結婚して「夫婦」なって関係が変わるのが怖いのかもしれない。
より正確に言うならば、関係が変わることでそれに付随して求められる変化が怖いのだ。
「ただの男女」から「恋人」になるとセックスが加わるが、それと同様に「恋人」から「夫婦」になると新たに求められることもきっとあるだろう。
それが何かは具体的に私には分からないけど、その時、またデキナイ事態にならないだろうか。
無意識にそれが怖い。
「……あの、ちなみに、関係性が恋人から夫婦になることで新たに求められることって何かありますか?」
「う~ん、そうね、やっぱり子供じゃないかしら? 子供は夫婦関係になって始めて考え始めるものだから結婚後特有のことね。子供が欲しいかどうかの意向は擦り合わせておいた方がいいかもね」
「あとは、やっぱり家族関係もじゃないか? 恋人関係の時は相手の家族と関わらないことも多いが、夫婦になると義理の家族になるからな」
具体的な話に私はふむふむと頷く。
つまり、もし私が結婚によって関係が変わることで起こる事態を懸念しているのであれば、このあたりを事前に解消しておくことが不安を和らげることに繋がりそうだ。
……なんだか踏ん切りがつかなかった自分の心の内が少しクリアになったかも!
なんとなくモヤモヤしていた部分に光明の光が差した気がする。
その後も結婚の先輩である既婚者2人から色々とアドバイスを貰い、宴もたけなわになってきたところでこの日は解散となった。
電車を乗り継ぎ、家に到着したのは23時前だった。
私が帰って来た場所は、元は航さんの家で、今は一緒に暮らしている家だ。
慣れた手つきで鍵を開け、リビングへ進む。
リビングには灯りがついているが、その場はシンと静まり返っていて、航さんの姿は見当たらない。
とりあえずバックをテーブルの上に置き、一日の疲れを解放するかのように気の抜けた息を吐きながら私はソファーに身を沈めた。
それと同時にガチャリとドアの開く音が辺りに響く。
上体を起こして音がした方を振り返れば、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングへ入ってくる航さんの姿があった。
「おかえり、志穂。遅かったね」
航さんは私の姿を認め目元を緩めると、ソファーの方に移動してきて、私の隣に腰を下ろす。
そして流れるような動きで私の体を自分の方へ引き寄せ、包み込むように抱きしめた。
シャワーを浴びた直後のためかいつもより航さんの体温は高く、服越しでもその温もりを感じる。
そのまま顔を寄せられ、私たちはごく自然に唇を重ねた。
ふわりと優しく触れるようなキスはとても心地良い。
それに私を抱きしめる航さんの腕の中はどこまでも温かく、ホッと心が和む。
胸がじんわり温かくなるのを感じながら、唇が離れたタイミングで私は顔だけ上を向き、航さんに話しかけた。
「合同説明会の後、降谷部長と槙野さんと飲みに行ってたんです。航さんは今日は早かったんですか?」
「割と早く帰れたよ。20時過ぎには家に着いたかな。合説2日目はどうだった?」
「昨日に続き忙しかったですよ。もっと会社の魅力を学生さんに伝えられるように、私もまだまだ勉強しなきゃなって思いました。でも営業で培った商品知識は槙野さんに褒めてもらえて嬉しかったです!」
「それは良かったね。志穂は学生と歳も近いし、自分が大学生だった頃に企業に対して知りたかったことを思い出して、それを伝えられるようになれば、学生にとって頼りになる人事担当になれると思うよ」
「はい、頑張ります!」
こんなふうに一日の終わりに航さんと今日あったことをお互いに話すのが同棲を始めてからの私たちの日常だ。
スキンシップをとりながら話をするこの時間が私はとても好きだ。
濡れたままだった航さんの髪に気付き、私はタオルで軽く拭いた後ドライヤーを持って来て乾かしてあげる。
柔らかな髪に触れているうちに、なんとなく私の手はそのまま航さんの頭を撫で始めた。
「なに? 俺を寝かしつけたいの? 志穂じゃないんだから撫でられても眠くならないけど?」
ちょっとからかい口調の航さんは噛み殺すように笑っている。
「もう! そんなんじゃないですよ!」と戯れ合うように抗議しつつ、私もつられて笑っていた。
……ああ、なんかこういう時間、すっごく幸せ。ずっと航さんとこんな日々を過ごしたいなぁ。
そんな感情で胸がいっぱいになった瞬間、脳裏をよぎったのは、先程の既婚者2人の言葉だ。
――『一緒にいて楽で居心地良かったのが決め手だったかな』
――『結婚って一緒に生活していくってことだから、やっぱり普段一緒にいて考え方が合うな~とか、居心地良いな~とかの感覚が大切だと個人的には思うわよ』
……この感情がまさにそうかも……!
いつも感じていることではあるけど、第三者から言語化して表現されたことで、しっくりくるのが分かった。
この今の自分の感情を大切にしたい。
それならば私がすることは一つだ。
「あの、航さん。……ちょっと話を聞いて欲しいことがあるんですけど、いいですか?」
私は航さんの目を見つめ、そう切り出した。
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