花冷えの風

白湯すい

文字の大きさ
上 下
8 / 12
第二章

西伐

しおりを挟む
「いざ、進め!」
 クムラの号令で、戦いの火蓋は切って落とされた。琰からの宣戦布告に応戦の構えを見せたシレン軍の士気は高く、戦いに飢えた戦士たちの怒号が大地の空気をびりびりと震えさせた。


 大陸の西側を支配するシレン軍は、明確に国ではない。しかしその始まりはクムラたちとも似ていて、ただの腕っぷしの強い者たちの集まりに過ぎなかった。違っているのは、クムラたちは自警団のような集まりだったのに対し、その集団は日々縄張り争いをしているような性質のものだった。
 その小競り合いの規模がだんだんと大きくなっていき、もはや小さな戦争とも言えようものになっていった頃、シレンという名のひとりの青年が現れた。シレンはその異常とも思える強さですべての派閥を暴力で制し配下とした。それで続いていた争いは収まった。

 土地の争いを収めてくれたシレンにその土地に住む民たちは始めこそ感謝したが、シレンは決して善良な人間ではなかったのだ。

 シレンが行ったのは、その土地の民たちから強奪に近い徴収であり、その要求に応えなければ殺しも当然だった。誰も逆らうことのできぬシレンが町のルールを決めた。それに従わぬ者も見せしめに殺した。
 ただ、土地を奪おうと攻め込む外敵や山賊のような者たちからは守ってくれた。シレンが出れば、負けることは決してなかった。ただシレンが民を守るのは、民が全滅すれば己が食うに困ることを知っているからだ。この男に、人を想う心は備わっていなかった。
 こうしてシレン軍と呼ばれるものはできた。崩れることのないシレンという男の城だ。国の真似事をしているが、シレン本人にも国を作ろうという気はない。

「ただ己が死ぬまで、この城の頂点であり続けるだけだ」

 シレンが失うのを恐れるは自らの地位と命のみ。守るべきものがない者こそが時に真に恐ろしく強いと、クムラは思う。強さが約束された大将を持った兵たちもまた強い。圧倒的な武力というものは、時に信仰にも近いものになる。かの力を盲信した兵たちもまた、自分たちが負けるはずがないと信じて戦える。


「正直、相手にしたくないな」
 クムラは言う。けれど、恐れているような面持ちではない。
「なればこそ、今のうちに叩かねば……でしょう?」
 オウカが続ける。この軍師もまた、この戦を勝てると信じている。
「間違いない」
 いずれ自壊する未来も見えた。ただそれを待つ間に起こり得ることや万が一自壊しなかった場合が厄介だった。であれば、成長しきる前に叩く。それこそが最善と考えたのだった。

 しかしながら、同じようにそう考えた者たちや、西の民たちを憐れみシレン討伐に出た者たちは少なくない。そのどれもが壊滅させられ終わった。
 難攻不落の強敵・シレン軍。此度こそ、クムラ率いる琰軍が堕とすときだ。


 琰軍の兵たちも負けじと士気は高い。シレンのいる西の地域に程近い琰の民も、かつて住んでいたところをシレン軍に踏み荒らされた者が少なくない。なればこそこの戦に勝たねばならないと強い想いを抱えている。

 策に綻びはない。水門周りの守りが堅いというわけでもなく、狙いである城壁の警戒は特にされておらず、策が見破られているわけでもない。琰軍の兵たちもよく戦っている。
 それでも戦況が芳しくないのはやはり、シレン軍の屈強さゆえだった。彼らの戦い方は陣形を構えるというものでもなく、剣術と呼べるものでもないが、ただひたすらに強かった。決して怯まず、力任せに振るう剣は重い。その型破りさに少々押されていて、思うように前線を上げられないのが現状であった。
「このまま戦いが長引けば、不利になるのは此方の方ですね……」
 出征してきている立場上、長期戦はどうしたって不利になる。恐らくはこのシレン軍の勢いも、水計が成功したなら大幅に削ぐことができると考えられるが、あまり時間をかけては策がばれてしまう可能性も高い。
 後方の高台で戦況を見つめていたシュナが、ぽつりと呟く。

「……この戦、負けるわけにはまいりません。皆さま、力を貸していただけますでしょうか」
 シュナがそう自らの兵たちに声をかけると、おおお、と威勢の良い声がいくつも返ってくる。シュナの兵たちは、皆勇敢だ。シュナ自身が覚悟を決めたなら、その背中についてくることに迷いはなかった。


 前線に届くように激しく鳴り物の音ががしゃんがしゃんと響く。その合図で先鋒隊は少し引き、左右に陣形を分ける。

「止まらず進め! 私の進む先、そこに勝利があると信じなさい!」

 後方から突き進んでやってきた隊こそ、シュナが先頭に立つ中隊だった。シュナの号令とともに周囲の兵たちは奮い立ち、これまで以上の力を持って攻めに転じた。
 それはこれまで前線で戦っていた者たちにも電波し、これまでの戦いの傷がいつしか癒え、疲れを忘れ、たちまち力が湧いてくるようだった。

 ーー それこそが軍師・シュナの異能力『奮起』だった。

 側で戦っていたクムラにも、その影響は及ぶ。
「これが、シュナの力か……! これはまあ、確かにな……!」
 これまでの疲労や焦りが身体からたちどころに消えていくその感覚は、凄まじいがどこか恐ろしい。これを恐れていたシュナの心がほんの少しだけ理解できる。
 けれどこれならば、目の前の無茶苦茶な強さの敵兵らも相手にできると確信する。
「進め、進め! 一気に畳み掛けるのだ!」
 この状態はおそらく長くは持たないだろうと頭の片隅で考えた。さらに総大将クムラの号令で士気を高めていく。水門側を攻める前線は一気に押し上がっていった。

「……っ、シュナ殿……」
 勇ましく進むシュナの姿はもちろん、後方で戦っていたコハクは視認することは叶わない。しかしその小さな後ろ姿を目で追うコハクには、その様がとても悲痛に見えた。
 出会ったその日に、異能を使わぬのではなく使えぬのだと話していたシュナ。真夜中にひとり、異能を使わずとも役に立てるようにと鍛錬していたシュナ。コハクはその言葉を聞いて、その姿を見て、ああこの人は私と同じなのだと思った。きっとその力で辛く悲しい思いをしたことがある人。それ故にその力を使うことを恐れている人だと感じた。

 そんな人が、負けられないと自分を鼓舞し戦っている。
 ふがいない。もっともっと自分が強く、この戦況を打破できる力があればとコハクは槍を握る手にぐっと力を籠める。しかしこの状況でそんな物思いに耽っている時間はない。そうであればと、コハクが意を決するのも早かった。

「者ども聞け! 軍師殿の隊よりも自分は前に出て道を切り開く! だがお前たちは決して私の前には出るな、少し離れた後ろを進め。これはお前たちの命を守るための命令だ」
 自分も異能を使う。その決断に自分でも驚くほどに迷いはなかった。
 どうなるかはわからない。けれどこうして無駄に時間を浪費し、兵たちを失っていくのはコハクも耐えられなかった。


「……っ、何があったんです?」
 前を突き進むシュナの背中にも、奇妙なざわめきが届いた。眼前にいる敵兵たちも、明らかに何かに気付きはじめ狼狽えて、勢いが弱まったのがわかる。
「後方より同じく北上してくる隊を確認! 先頭の将がほとんどを薙ぎ倒し進軍している模様です!」
「いったい誰です?」
「それが……獣のような姿をしていてよくわからないのですが……どうやら武具を見るにコハク将軍のようなのです」
「コハク将軍……!」

 騒ぎの中心に視線をやると、そこには荒々しくも美しい獣が次々に周りのすべてを斬り捨てて進んでくる姿があった。コハクの髪色によく似た黒に紫色を混ぜたような深い色の毛並みに、琥珀色の瞳がぎらりと光っている。

「……それが、あなたの力なのですね」
 その瞳は彼と同じ色をしているけれど、いつものコハクのような静かな優しさは微塵も感じられはしなかった。どうやら自軍の兵たちは彼の槍の先が届かぬ位置に配置されているようで、恐らくは今のコハクに敵味方の区別はないのだろうと察せられた。

 ただ目の前のすべてを壊しつくす『修羅』。それこそがコハクの異能であった。

「皆、彼の進む先を避けなさい! 彼を囲うように旋回、身を守りながら彼の進軍を支えるのです」
 優しい彼が使うことを躊躇う意味が、よくわかった。孤軍奮闘するコハクがあっという間にシュナの隊を追い越し突き進んでいった。シュナは避けるようにと命令を出したが、それでも逃げるのが間に合わず巻き込まれ負傷した兵が少数居た。
「三隊、四隊は俺に続け! 巻き込まれて死ぬなよ!」
 シュナの軍と共にあったクムラもすぐに状況を理解し陣形を崩しつつ移動する。シュナの異能の力が働いている隊の動きは実に素早く、皆少し戸惑いながらも対応していた。シュナの力がなければどうなっていたかと、クムラもシュナ自身も恐ろしくなった。

 戦況はふたりの力によって好転。標的としていた水門もすぐそこだった。水計が為せれば、この戦の勝利は揺るがないであろう。
 だと言うのに、シュナの胸は締め付けられるように痛い。獣の姿となった彼はどうだかわからないが、きっと自分以上に心を痛めているに違いないとシュナは思った。

「さあ、ここからは策通りに! 背後は守ります、小隊で水門を。その間も巻き込まれぬよう注意を払いなさい、危険を感じたらすぐに退きなさい!」」
 雨期で雨水がたっぷりと蓄えられたそこを一斉に破壊する。陣形の中心に破壊工作用の武具を備えた小隊を隠しここまで進軍してきた。小隊は一同駆け出し、素早く任務を遂行した。その間、シュナとその兵たちは小隊を守り、そのさらに後ろではまだコハクがひとり戦っていた。
 コハクのおかげでシュナの隊が相対する敵兵は少なかった。ほとんどの敵兵はそのコハクの異形の姿やその強さに圧倒され逃げ出していたり、その手によって散っていったからだ。

 やがて間もなく水門は崩落し、敵軍は見る間に大混乱に陥った。水門破壊に気付いた者たちが伝令に走っていたが、もう遅かった。裏手で城攻めをしていたコト将軍らの陽動や正面の前線維持をしていたオチ将軍・軍師オウカたちの尽力が利いている。特に裏手への戦力分散によりもう何の対応もできぬ状況になった。策は成功した。
「策は為った! ここからは身を守ることを第一とせよ! 前線に戻りつつ戦え!」
 戦いの要となる策が成功してもどこかぴりついた空気のままなのは、紛れもなくただひとりの獣が原因だった。獣は、逃げ散っていく敵が目の前からいなくなってもなお、戦いを求めているようだった。幾多の兵たちの返り血に塗れてもなお、ふうふうと荒い呼吸と血走った眼がそれを物語っている。

「……コハク様……!」
 彼を止めなければ。止め方もわからぬままに、シュナはそう思った。近づけば自分もまた殺されるかもしれない。けれどそれよりも、コハクが元に戻れなかったら、そう考えたほうがシュナは怖かったのだ。
「……シュナ! 危険だ!」
「……っ」
 コハクのもとへ駆け出したシュナの背中にクムラが呼び掛けるが、その声はシュナの耳には届かなかった。

「コハク様!」
 夢中で走ったシュナは、その血だらけの獣の懐に飛び込み、自分のその美しい髪や白い肌が汚れるのも厭わずにぎゅっと抱き締めた。
「水計は成功しました。もう大丈夫です、もう、大丈夫ですから……」

 シュナの言葉が届いたのかどうかはわからなかった。それでも確かにシュナの体温をその身に感じたコハクは、暫くぐるると喉の奥で唸り声をあげて激しく身じろいでいたが、それも次第におさまっていった。そこでようやく、コハクは理性をだんだんと取り戻していった。

「……ぅ、ぐ……っ、……しゅな、…どの」
「……大丈夫、大丈夫ですよ」
 シュナはコハクの体を強く抱き締めながら、そう何度も大丈夫と繰り返した。
 それを聞いて、コハクは素直にああ、もう大丈夫なんだと思えた。
しおりを挟む

処理中です...