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Chapter 10
虚偽 ③
しおりを挟む「……あら、いやだぁ。いきなり、そういうことしないでよー。動画撮り損ねちゃったじゃん」
コーヒーを運んできた誓子が口を尖らせた。
「青山君、誓子さんのために、今のヤツもう一度やりたまえ」
社長が真顔で言った。本気である。
ステーショナリーネットの愛妻家ランキングで社長が除外され「殿堂入り」しているだけのことはある。
今も誓子が持ってきたトレイを「こぼすと危ないから」と自分が引き取り「誓子さんのはちゃんとデカフェにしてるよね?」と確認しようと思った矢先だった。
よく見ると、誓子のお腹の辺りがゆったりしているのがわかる。二人目の子が宿っていた。
「もぉっ、ケンちゃんは心配性なんだからぁ~」
誓子からは呆れられている。社長の名前は謙二といった。
「……大橋さん、ずいぶんと社長に『本性』を見せてるじゃないですか?」
青山はリムレスの眼鏡をきらり、と光らせてイヤミを言った。TOMITAに勤務していた頃の誓子は、葛城の前ではメタボ級の猫を被っていたのである。
「ふん、オンナはね、子ども一人産んだら、暑っ苦しい猫なんか、被っていられなくなんのよ。でも、人前ではちゃあんと『装着』してるわよ」
誓子は忌々しげに青山を睨んだ。確かに創立記念パーティでは、夫を支える楚々とした妻を、特殊メイクばりに演じていた。
「なにを言うんだ、青山君。誓子さんがせっかく僕に、こんなに心を開いてくれるようになったというのに」
社長は最愛の妻を愛しげに見つめた。「溺愛」というフィルターを通すと、なんでも都合よく見えるのだ。
——大丈夫か?この会社……
稍は入社初日にして不安になった。
なので——
「智くん……社長と奥様に失礼だよ」
くいくい、っと袖を引っ張って言った。
とたんに、一同の顔色が変わった。
「「……さ、さとくん……?」」
葛城夫妻は一瞬、マイナス一九六度以下の液体窒素をぶっかけられたみたいに瞬間冷凍され、カチンコチンに固まった。二人とも、ありえないものを見るかのごとく驚愕の表情を浮かべている。
だが、次の瞬間、一気に温度が上昇し、沸点をぶっ超えて大爆笑し始めた。真っ白な煙のような蒸気が、もくもくと溢れ出すさまが見えるようだった。
「やぁっだー、青山、あんたっ、『さとくん』って呼ばれてんのぉーっ⁉︎」
今までがんばって「青山くん」と呼んでいたのに、すっかりTOMITA時代に戻ってしまった。
「ち…誓子さん……そんなに笑っちゃダメだよ……」
そういう社長がお腹を抱えて、ヒィヒィ笑っている。
またもや、視線だけで人の息の根を止めるかのような凄まじさで、稍は青山から睨まれた。
青山は、稍から「さとくん」と呼ばれていることを死んでも知られたくない人間が世の中にたった二人だけだと思っていたが、まだいたのに気がついた。
「あ……彩乃に報告しなきゃっ!」
彩乃からまず、夫の富多副社長に伝わるだろう。TOMITAには懇意にしていた元同僚も元部下もいる。
さらに、彩乃は親友の華絵にも言うに違いない。華絵は現部下の石井の妻だ。いや、石井どころか、すでに魚住課長が知っている。
さらにさらに、会社関係だけではなく、学生時代からの悪友の小笠原にも知られた。もしかしたら同窓生たちにチクってるかもしれない。
青山は息をのんだ。
——最悪だ。なんだか、ねずみ算式に増えていっていないか……?
「……TOMITAの朝比奈社外取締役は、お元気ですか?」
青山は話題を変えることにした。TOMITAにいるときに、副社長に次いで世話になった人だ。
「あぁ……彩乃の親戚で元カレのイケメンね。今はほとんどTOMITAには関わってないようだけど本業のあさひJPN銀行でがんばってるみたいだから、元気じゃない?結婚はしたと思うんだけど、離婚したんだっけ?……どうだったか、忘れたわ」
まだ笑い足りないながらも、誓子が「余計な情報」をぶっ込みながら報告する。
「ええっ⁉︎ 彩乃は海洋とつき合ってたのかっ⁉︎」
社長がびっくりして叫ぶ。彼にとって彩乃は実家の近所に住む妹のような幼なじみで、朝比奈 海洋は名門私立男子校の後輩だった。
生まれながらの金持ちというのは、自宅は広大なくせに、住む世界は猫の額ほどの狭さなのだ。
稍にはもう、だれがだれとどうなっているのか、さっぱりわからない。とっくについていけない世界だった。
「……ところで、青山君」
社長が青山の顔をぐっ、と見る。
「君も身を固めたことだし、そろそろ『本来の仕事』をしてもらえないだろうか」
——本来の仕事ってなに?
「それなりのポストを用意してるつもりなんだが……奥さんの稍さんにも喜んでもらえると思うんだけどなぁ。そもそも、そのつもりで富多副社長に僕が頭を下げてまで、君に来てもらったわけだし」
「そうだよねぇ?」と社長は稍に同意を求める。
しかし、話が全然見えない稍は曖昧に微笑むしかできない。
「そうよ、青山。いいかげん、あんたの本来の能力をうちの会社で発揮してよ」
誓子もわかっているようだ。話がわからないのは、稍だけだった。
目の前にいる「正真正銘の夫婦」は、目には見えないけれども、愛情という絆でしっかりと結ばれていることがよくわかる。
そして、自分たちには、その欠片もないことを……
——だから、なんにも言ってくれないんだ。
派遣から嘱託になったことすら、知ったのは今日だ。社長や人事部長や魚住課長には、前もって根回ししてあったはずなのに……
稍は自分が「偽装結婚の妻」であることを、ひしひしと感じた。
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