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八段目
丈毋の場〈弐〉
しおりを挟む「そなた……『美鶴』殿と申されるか。図らずも、わたくしとよう似た名でござりますること」
平伏していた美鶴が面を上げると、梅幸茶色の小袖に藤鼠色の打掛を羽織った形の、いかにも「武家の奥方」と云った風情の女人が座敷の奥に座していた。
「此の方こそ、お初にお目にかかりまする。公方様の御不幸に慮ったとは云え、昨日の南町奉行所でのそなたらの祝言に出ること叶わず、誠に無礼をば仕ってござりまする」
そして、ゆったりと微笑んだ。
「南町奉行所 筆頭与力 松波 多聞が奥の…… 志鶴にてござりまする」
志鶴は、代々「北町奉行所」で筆頭与力の御役目を担ってきた佐久間家の娘として生を受けた。
年頃になると、此方もまた代々「南町奉行所」で筆頭与力の御役目を担ってきた松波家の嫡男・多聞に嫁入った。
今となっては「南町」と「北町」の間での縁組は其れほどめずらしいことではなくなったが、当時の「南町」と「北町」は手柄を求めて互いに鎬を削り反目し合う「犬猿の仲」であった。
やがて、それは双方の御奉行様の目にも余るようになり、和睦のための一計が案じられ、下知によって「南町」の松波 多聞と「北町」の志鶴は、半ば無理矢理に縁組みされてしまった。
その頃、見目麗しきおなごだった志鶴の名声は、武家屋敷を通り抜けて町家まで鳴り響いていた。
町家を歩けば、その身なりや中間(武家に仕える下男)を供に連れていることから武家のおなごであるとわかっているにもかかわらず、浮世絵の手本になってほしいなどと再々声をかけられた。
いつしか「北町小町」と呼ばれるようになっていた。
ゆえに、かような「北町の宝玉」志鶴を「南町」に差し出すことになって、北町奉行所の男たちが口惜しさのあまり咽び泣いたと、町家では今でも語り草になっているほどである。
されども、さような周囲を他所に、その後二人は一男一女に恵まれた。
妹の和佐はすでに同じ与力の御家に嫁ぎ、そして今、兄で嫡男でもある兵馬もまた祝言を挙げて妻女を迎えることと相成った。
「……美鶴殿、身体の方は大儀ござらぬか」
志鶴が心配そうな面持ちで尋ねてきた。
「今朝は面通しをせねばならぬゆえ、そなたを呼び立ててしもうたが、もし身体が辛ければ部屋で横になっておっても……」
「と、とんでもないことにてござりまする」
美鶴は弾かれたように答えた。
「姑上様、わたくしめの身体はこのとおり差し支えのうございまするがゆえ、どうか、さような御心遣いは一切なきよう……」
嫁入って翌る日から寝込むなど、なにもお武家に嫁がなくとも御法度なのは、火を見るよりも明らかだ。
「されども……」
なぜか美鶴の言葉に、志鶴はすぅーっと目を細めた。
歳を経てもなお、その美しくも冷ややかな「北町小町」の面差しは、まるで天女が下賤なこの世の者に放つかのごとき神々しさである。
「我が息子とは云え、あの愚か者が、昨夜そなたにした仕打ちを思えば……」
だが、美鶴はなぜだか天罰に触れたかのような心持ちになり、背筋が凍って、後ずさりしたくなった。
「わたくしは、兵馬を……決して赦すことはできぬ」
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