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八段目
丈毋の場〈参〉
しおりを挟む「お、奥様……っ」
座敷の入り口で控えていた女中のおせいが、突然がばりとひれ伏した。
「若さまを……生まれなすったときからお世話さしてきた者として……まことに申し訳ねぇこってす」
畳にぺったりと額をつけて土下座したかと思えば、おいおいと泣き始めてしまった。
「おせい、そなたの所為ではあらぬ。わたくしの育て方が悪かったのじゃ。すべて……わたくしの不徳の致す処じゃ」
志鶴まで、涙声になっている。
「松波家の嫡男ともあろう者が祝言を終えた初夜に、嫁御に対してあのような狼藉を働くなぞ、与力の御家の……否、武家の風上にも置けぬわ」
志鶴は口惜しさのあまり、唇を噛み締めた。
「かように情けない嫡男を育ててしもうて、わたくしはご先祖様に……特に、あないに兵馬の誕生と成長を楽しみにしてござった、今は亡き舅上様と姑上様に……あの世へ参っても、到底顔向けできぬ……」
——も、もしや……
美鶴は、二人が昨夜の閨でのことを云っているのに、ようやく気づいた。
「あ、あの……」
美鶴は恐る恐る口を挟んだ。
「昨夜のことでこざりますれば、わたくしが悪うござって、旦那さまはなにも……」
「御新造さん、この期に及んで若さまを庇いなさるんは、止しておくんなせぇ」
間髪入れずにおせいから制された。
「今朝、若さまから呼ばれてお部屋に入り、夜具を見たときのたまげたことっ云ったら……」
おせいは、ぐすっと洟をすすった。
「若い女中じゃなくて、出戻りのあたいに『始末』をお頼みになったんは、若さまにしては上出来でやんすが……」
夜具にべっとりと付いていた夥しい鮮血を思い出し、おせいは身震いした。
「……『向こう』は今でも、おせいと縒りを戻したがっておるがのう」
かつて、おせいが所帯を持っていた男は、この屋敷で働く中間で、今も毎日のように顔を合わせている。
子に恵まれなかったことを苦にしたおせいが、敢えて我が身から「三行半」を突きつけて別れていた。
「奥様、おせいはもう子を産める歳でもありゃあせんし、死ぬまでこの松波の御家に奉公するつもりでやす」
その「忠義」は、この組屋敷の界隈にいる武家の男と較べても、だれより強いかもしれなかった。
志鶴はふぅ、とため息を一つ吐いた。
「とにかく……兵馬にはわたくしが、もそっと嫁御を大事に扱うよう、とくと話しまするがゆえ」
「お待ちくだされ、姑上様。ほんに……わたくしが悪うござって……」
されども、まさか……
「閨の中で、誤ってほかの男の名を呼んだために、若さまを激怒させてしまった」
とは、口が裂けても云えぬ。
そうこうしている間に、
「御新造さん、そろそろお部屋に朝餉の支度ができる頃でやす」
と、おせいに促され……
「さすれば美鶴殿、あとのことは心配するに及ばぬ。何卒ゆるりとなされませ。そなたが生家の貴藩の下屋敷から移られて、しばらくは北町の島村殿の御家にござったことは聞き及んでおりまする。されども、同じ奉行所の組屋敷とは云え、北町と南町とは違う処もござりましょう。わたくしも元は北町の身、正直申して慣れぬうちは辛うござったことも……。ゆえに、なにかござりますれば、おせいに何なりと申し付けられよ」
と、姑からこうまで云われては、ますます二の句も継げず……
「……それでは、此れにて御免仕りまする」
と、美鶴は平伏し、志鶴の座敷から辞するしかなかった。
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