別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭

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小伝馬町の「駆け込み寺」

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「——子が生まれたってのにさ、呑んだくれてばっかでろくに働きもしねえ、あんな亭主の辛抱しなくてもいいなんてよ、なんてありがてぇこった。
 亭主と別れたあとの奉公先まで口を利いてくれたお与岐よきさんにゃあ、何から何まで世話んなっちまって……ほんとに足を向けて寝られねえよう」

 座敷にきちっと膝を揃えて座った裏店うらだな(長屋)住まいの女房は、一枚の紙を受け取ると涙で潤む目元を着物の袖口で拭った。
 さすれば、とたんに背負おぶった乳飲み児がぐずり出し、次の刹那火がついたかのごとく泣き声をあげ始める。

「何云ってんのさ、おもん。わっちは渋るおまえさんの亭主になんとか去り状を書かせたり、おまえさんと口入れ屋との間を取り持ったりしただけさ。
 しっかりおしよ。これからはこの子を女手おなごで一つで育てていかなきゃなんないんだよ。本当の辛抱が待ってるのは今からだかんね」

 与岐は膝を進めて女房に近づくと、大泣きしてぐずる乳飲み児の背中せなをやさしくさすりながら女房——おもんに云い含めた。

 おもんが与岐から受け取った紙は「去り状」だ。
 三行半みくだりはんとも云われるれは、亭主から女房に渡すいわゆる離縁状である。女房の方からは渡せない。女房が亭主からもらうことで、晴れて夫婦めおとの縁がすっぱりと切れる。
 去り状さえあれば、たとえ六年に一度しかお改めのない人別帳(宗門人別改帳)に未だ夫婦として記されていたとしても、すでに赤の他人であると云うあかしになった。
 そして、もし女房がこの先違う男と縁があれば、大手を振って夫婦になれるのだ。

 おなごの五、六倍も男の数が多い江戸は「おのこの町」である。
 三代の公方くぼう様(徳川家光)による「年ごとの大名行列」——諸藩のお殿様(大名)たちへの一年ごとに領地と江戸を往復する御触おふれ(参勤交代)によって、国許からお殿様に付き従ってきた男たちが呼び水となり、その後諸国から職を求めていろんな身分の男たちがやってくるようになった。
 さらに「入り鉄砲と出女」の御触れで江戸へのおなごの出入りが厳しくなり、ますます男ばかりになった。

 ゆえに、江戸の男たちには一生涯独り身である者が少なくない。
 しからば、もっとおのれの女房を大事にすれば良いものを「宵越しの銭を持たぬ」江戸の亭主たちは女房を得たことに胡座をかいて「呑む・打つ・買う」に勤しむのだ。
 されども、いざ女房から離縁したいと去り状を催促されると、また独り身に戻るのを嫌がってか、のらりくらりと交わしてはぐらかす亭主のなんと多いことか。

 さような亭主と談判して女房の代わりに去り状をもぎ取ってくる「公事師くじし」が、今の与岐の生業なりわいである。
 小伝馬町の仕舞屋しもたやに居を構えていることと、離縁したいときの最後の手立ては鎌倉の東慶寺などに駆け込むことから「小伝馬町の駆け込み寺」と呼ばれて久しい。

 与岐はおもんの気を落ち着かせるために、空になっていた湯呑みにもう一杯麦湯を注いだ。


 やがて麦湯を飲み干すと、おもんは背中の乳飲み児を気遣いつつ、ゆっくりと立ち上がった。
 そして座敷を出て裏の勝手口へ向かうと、戸口で何度も何度も頭を下げて与岐の仕舞屋から去って行った。

 この足でそのまま奉公先へ行く算段になっている。与岐の馴染なじみの口入れ屋(奉公人斡旋屋)に頼んで探してもらった。
 新しい奉公先は、待ちに待った跡取り息子が生まれたにもかかわらず若内儀おかみの乳の出が悪くて困っていた商家らしい。もちろん乳飲み児ともども住み込みで雇ってくれるとのことだ。

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