13 / 26
娘の来訪〈伍〉
しおりを挟む「よりにもよって『北町』に嫁ぐなど……芙美、実か」
江戸の町家を月替わりで護っている北町奉行所と南町奉行所であるが、どちらがより大きな手柄を手にするかで日々鎬を削っているゆえ、言わずと知れた「犬猿の仲」である。
「実にてござりまする、母上」
母の問いに芙美はしっかりと肯いた。
「なにゆえ……あぁ、そうじゃ、確かまだ千賀が嫁入る前でござった、松波様が御奉行様の仰せにより南町の与力の御家から嫁御を娶られると聞き及んでおったが……」
千賀からその話を聞いた折は、北町と南町の与力の御家同士を縁付けて互いの矛を収めさせるとは、流石は御奉行様の『御裁き』だと与岐は感心しきりであったが……
収めさせるはずの矛先が我が腹を痛めて産んだ娘に向かっては、さように悠長なことを云ってはおれぬ。
「その嫁御は……北町から南町へ嫁いで息災でござるか。婚家で気詰まりな思いをなされてはござらんか」
同じ八丁堀の組屋敷に居を構えているにもかかわらず、北町奉行所と南町奉行所との間に行き来はなかった。ゆえに、嫁いできた「北町」の娘には顔見知りの者なぞ、ただの一人とておらぬと思われる。
「——すでに、町家の者たちの口の端にのぼってござりまする」
芙美はとたんに顔を曇らせた。
「『浮世絵与力』と夫婦になった『北町小町』は姑からいびり倒されている。
夫の世話をさせてもらえないどころか、同じ家におるにもかかわらず、顔を見ることすらままならぬ。家中の者からは『北町小町』はおらぬ者として扱われ、だれも口をきく者もなく、陽当たりの悪い部屋に日がな一日押し込められている。
食事は奉公人と同じ白米とおみおつけしか与えられぬゆえ、お菜を棒手振りから買おうにも『武家の恥』とて許されず、心労も重なりどんどん痩せ細っていきながらも辛抱しておる——という噂話にてござりまする」
「松波様に嫁がれた嫁御は——『北町小町』であったか……」
其の通り名は、武家の住む八丁堀は北町組屋敷を通り抜けて町家まで鳴り響くほどであったゆえ、小伝馬町の与岐も耳にしていた。
鈴木春信の浮世絵から飛び出てきたかのごとく可憐で愛らしい風情を漂わせている女人で、まさに巷で飛ぶように売れている「清水の舞台より飛ぶ美人」そのものだと云う。
はじめは「北町奉行所小町」と呼ばれていたが長いため、いつしか「北町小町」となった。
「されば、その嫁御を『いびり倒』した『姑』と云うのは……」
与岐はとても二の句を継げなかった。
なぜなら、進藤家より松波家へ嫁入った、千賀や芙美の伯母にあたる人であったからだ。あの頃与岐をさんざん苦しめたあの姑の——娘である。
「此度わたくしめを妻としてお迎えなされまするのは……松波様に嫁された志鶴様の兄上で佐久間 帯刀様と云うお方にてござりまする」
「——なんと、芙美が「北町小町」の兄に嫁がせられるのか……」
与岐はあまりのことに眩暈がしてよろめいた。
「母上っ」
あわてて芙美が駆け寄る。
「いくら御奉行様の下知とは云え、さような家に嫁入らせるとは……あまりにも惨うござる……此れではまるで芙美が北町へ『仕返し』されに参るも同然ではござらんか」
北町の佐久間家にとっては、南町の松波家によって我が娘にされたことを今度は芙美に対して行う絶好の機会であった。
「すでに北町から南町へは志鶴様が嫁がれましてござりまする。
お次はわたくしが南町から北町へ嫁がねば——武士の道理に反しまする」
「芙美……そなた、たった一人きりで北町へ赴くのは……怖うはないのかえ」
与岐はおずおずと尋ねた。
「母上、芙美は武家の女にてござりまするぞ」
芙美はくっと唇を引き結んだ。さりとて、その目には込み上げてくるものが光り、その声は明らかに震えていた。
与岐は娘に向き直った。そして、声を落として告げる。
「もし……もしも、嫁入った先でどうしても辛抱できねえってなったときにはさ、そんな家なんてとっととおん出てさ……
——うちに駆け込んできな」
いきなり「町家言葉」になった母を、芙美は目を白黒させて見つめた。
「わっちはさ、町家に移り住んでからは女房たちに頼まれて渋る亭主をなだめすかして去り状を書かせる『おなごの公事師』って生業をやってんだ。おかげで今じゃあ『小伝馬町の駆け込み寺』って呼ばれてんのよ。
可愛い娘が離縁したいって云うんならさ、一肌も二肌もぬぐってんだよ」
「は……母上っ」
芙美は身を乗り出して母にしがみついた。与岐も娘を抱き止める。
「御祖母様からは……北町に嫁ぐからには南町の恥とならぬよう、きつう云われ……」
しかも「北町の不浄役人なんかの家に嫁がされるのが千賀ではなくて芙美でよかった」とまで云われていた。
「母上っ、母上っ、芙美は……本当は……怖うございまする……怖うございまする……」
次の刹那、芙美は火がついたかのごとく泣き声をあげ始めた。堪えに堪えた涙があふれて、何筋もその頬をつたっていく。
与岐は赤子のように泣き止まぬ芙美の背中をいつまでもいつまでも摩り続けた。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
与岐は、その日もまた重い足取りで我が仕舞屋に帰ってきた。
引き受けている頼まれごとがなかなか進まず、気疲れもひとしおであった。
門口の見える処まで来て、人影が見えた。
——また、だれか来ておるな……
54
あなたにおすすめの小説
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
『大人の恋の歩き方』
設楽理沙
現代文学
初回連載2018年3月1日~2018年6月29日
―――――――
予定外に家に帰ると同棲している相手が見知らぬ女性(おんな)と
合体しているところを見てしまい~の、web上で"Help Meィィ~"と
号泣する主人公。そんな彼女を混乱の中から助け出してくれたのは
☆---誰ぁれ?----★ そして 主人公を翻弄したCoolな同棲相手の
予想外に波乱万丈なその後は? *☆*――*☆*――*☆*――*☆*
☆.。.:*Have Fun!.。.:*☆
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる