別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭

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再逢〈壱〉

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 門口の方を向いて立つ男は、無骨な袴姿の上に左腰には大小二本の刀を差していた。まさしく武家のなりである。
 そして、其の後ろ姿には見覚えがあった。

 びんをきつく結い上げた武家の男とふっくらと膨らませた町家の男とでは容易たやすく見分けはつこうが、武家同士ではせいぜい若い者が好む本多まげのごとく細く束ねる髷か否かの違いくらいしかないゆえ、後ろ姿なぞ皆同じに見える。
 されども、男のうなじの毛並みや首から肩への肉付き、さらには着物の奧えりのちょっとした抜き加減などから、与岐には見間違えようもなかった。

「——御武家様、何用にてござんすか。長らく町家暮らしのわっちにはとんと心当たりはござらんゆえ……何卒なにとぞお引き取りを」
 心底凍てついた声を、与岐は男のせなに放った。

 すると、懐手をして与岐の仕舞屋をあまねく眺めていた男が、すっと此方こちらに振り返った。

 さすれば、やはり——かつての夫、進藤 又十蔵であった。

「そなたには用はあらぬかもしれんが、当方にはござってな」
「お言葉でござんすが、わっちは町家に移ってこの方、御武家様との縁は切れて久しゅうござんす。今さら何を……」
 与岐は胡乱うろんげな目をして又十蔵を見据えた。
 今となっては町家の気風きっぷのよい云い回しとともに動きやすい小袖姿が板につき、武家の御新造(若妻)であった頃の面影はすっかり消え果てた。

「かような門口で話してござると、軒を連ねる町家では向こう三軒両隣が聞き耳を立てておるのではあるまいか。家の中に入れてござらぬか」
「云うに事欠いて、家に上げろとは——」
 与岐はあまりのことに絶句した。

「離縁後、そなたは町家で『おなごの公事くじ師』なるものをかたって生計くらしを立ててござると聞くが……」
 そこから先、又十蔵は声を潜めた。
「——先般、奉行所にある男より訴えがござってな。
 そなたは奉行所のゆるしを得ずして公事師なる生業なりわいをしておるのではあるまいかと」

 実家の兄に勧められて「おなごの公事師」になりはしたが、確かに与岐は奉行所から直々に認められた公事師ではなかった。そもそも、公事宿を通して奉行所と百姓たちとの間を取り持つ正式な公事師は男ばかりだ。

 ——もしや……奉行所からの下知(命令)によってお取調べに……

 真っ青になった与岐はあわてて仕舞屋の戸口に駆け寄って引き戸を引き開け、又十蔵を家の中へ入れた。


 ゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚


 又十蔵を座敷に案内あないすると、与岐は麦湯を差し出した。
「本日は公事宿へ行く用があって通いの下女はもう帰っちまったゆえ、かようなもんしか……」

 実のところ、家に上げるのは引き戸の内にある三和土たたきところまでにして、供するのも麦湯ではなくただの白湯にしてやろうかとも考えたが、奉行所からのお取調べでやってきたのであらば、子どもじみた当て擦りをして又十蔵の気を悪うさせるのは得策ではないと思いとどまった。

 さすれとも、進藤の家に嫁していた折には麦湯なぞ以ての外で、姑の指図で又十蔵が寝起きに使っていた座敷まで与岐が運んでいたのは、いつも馥郁とした香りの上茶であった。

 又十蔵は外で待っている間に喉が渇いていたのか、町家の者が普段遣いする大きめの湯呑みであったにもかかわらず、麦湯をくーっと一気に飲み干した。
 与岐は呆れ顔を隠しつつ、もう一杯注いでやる。

「——進藤様、わっちが手前勝手に『おなごの公事師』と名乗り始めたわけじゃござんせん。いつの間にやら、町家のもんからさような通り名で呼ばれるようになっちまっただけでござんす」
 向こうから問いただされる前に、与岐は自ら切り出した。

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