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再逢〈弐〉
しおりを挟む「さりとて、ひとたび奉行所に訴えが起こされたとあらば無碍にはできぬ」
又十蔵は四角四面な役人らしくきっぱりと告げた。
「——よもや、奉行所に訴えを起こされるなぞ……」
与岐の顔がみるみる強張っていく。先行き如何では、実家の本田の名に傷がつくやもしれぬ。
「なにぶん、此れまで聞き及んだことがあらぬ訴えにてござる。ゆえに、まず我ら例繰方に話が参った」
御奉行の御白州での御裁きを書き留める「例繰方」が、過去の判例に照らし合わせて与岐を御裁きにかけるかどうかを見極めることになったのだ。
「早速、御仕置裁許帳を紐解いてみたところ……今までに『おなごの公事師』なるものの類で罰せられた者は見当たらずじまいでござった」
「さようならば……」
与岐は、ほっと胸を撫で下ろした。
「されども、訴えを起こした者に幾度も云いきかせたとて一向に得心せんのだ」
又十蔵の面持ちは苦虫を噛み潰したごとくであった。
「さようにしつこく奉行所に訴えるってのは……いったい、何処のどいつでござんすか」
与岐は怒りに震えた。罰せられた者が見当たらぬと奉行所が云っているにもかかわらず、まだ執拗に喰い下がるとは——
「岡っ引きの辰吉でござる」
その刹那、今度は与岐の面持ちが苦虫を噛み潰したかのことくなる。
——まさか、奉行所にまで手を回すとは……
与岐がここのところ抱え込んでいて遅々として前に進まぬ「頼まれごと」云うのが、なんと其の辰吉から「去り状」をもぎ取ることだった。
あれはちょうど下の娘・芙美が北町の佐久間家へ嫁ぐことになって与岐の仕舞屋に参った日のことである。
その朝、辰吉の女房・おいねが離縁を望んでいきなり公事宿に駆け込んできたと云うので、与岐は呼び出された。あわてて出向いた公事宿では、まだ乳飲み子である甚八を背負ったおいねが、このまんま放っておくと橋の上から川の中へ身投げでもするのでないかと思うほど、思い詰めた目をしていた。
奉行所の吟味方同心の「手先」である岡っ引きや下っ引きは町家の衆である。
当然のことながら奉行所に雇われているはずもなく、しかもなにか厄介ごとが起きた折に都合よく呼び出されるだけで、しょっちゅう御用があるわけでもない。
ゆえに、給金は手足のごとくこき使われている貧乏所帯の同心からの心付け程度で、ほんの雀の涙であった。かばかりではとてもではないが暮らしを立てていけない。
幸いにも辰吉には親から引き継いだ「鳶」と云う家業があった。建物の足場を組む鳶は、雨の日は休みになるなど年がら年中あくせく働かなくていいのに身入りが良かった。
本来であらば、なにも岡っ引きなどせずとも親子三人じゅうぶん暮らせる稼ぎだ。
なのに——辰吉は鳶の仕事をそっちのけにして「岡っ引き」に夢中になり、せっかくの鳶の稼ぎですらおいねに渡さず、その銭は咎人を見つけ出すのに何かと物入りな岡っ引きの方へと回した。
そして、何よりおいねの愛想が尽きたのは、一人息子の甚八が熱を出して寝込んでいてもおいね一人に任せっきりであったことだ。
男の子が育てにくいことは同じ裏店(長屋)に住む女房連中から聞いて百も承知の二百も合点である。それでも荒い息を吐いて苦しがっている我が子を見守るしかできない、あの心細さをたった一人きりで背負わされているのには我慢がならなかった。
やがて、なまじっか亭主がいるゆえに苛々とさせられるのだと云うことに気づいた。初めから亭主がいなければかような思いもせぬであろうと……
ところが、家にはろくに寄りつきもせぬくせに、おいねがいざ離縁を切り出すと、辰吉は烈火のごとく怒って頑なに拒んだ。
挙げ句の果てには、どうしても離縁したければ甚八を置いて出て行けと云う始末だ。
「辰吉の女房の件で、そなたと辰吉に諍いがござることは奉行所も心得てござる。
実は辰吉と気心の知れた同心が仲立ちして肩入れする動きもござったが、今は町家住みといえどもそなたは与力の家の出でござる。同心の分際で好きにはさせぬ。
されど、そなたが奉行所の息のかかった手先である辰吉との間にいざこざがあるのは奉行所としても外聞が悪うござる。
ゆえに、御奉行様はなるべく表に出さずに秘めたままなんとか丸く収めるよう、与力である某に命ぜられたため此方へ参った次第にてござる」
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