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Book 8

「井筒櫻子の憂鬱」③

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 だけど、考えてみれば……

 わたしたちが勝手に原さんを「ストーカー犯」に見立てているわけで……
 本当にそうなのかは、まだわからない。
 もしかしたら、違うかもしれない。

 そもそも、わたしが受けている「ストーカー行為」っていうのも……
 気のせいだったかもしれないじゃないか?


「……櫻子さん」
 不意に、隣から低く押し殺した声が聞こえてきた。

「来ましたよ。気をしっかり持ってくださいね」
 真生ちゃんはスナイパーを通り越して、ヒットマンの鋭い目になっていた。

 だけど、わたしはそんな真生ちゃんのおかげで、自分に都合のよい「現実逃避」の世界から、はっと目が覚めてこの世界に戻ってこられた。


 原さんがつかつかとせわしなく、カウンターまで一直線に向かってきていた。

「……本館でウワサになってます。井筒さん、結婚するって本当ですか?」
 カウンターの前に立った原さんの顔は青ざめ、その唇は白くなっていた。

 わたしが口を開こうとしたそのとき、
「そうですよ。でも、櫻子さんは『結婚する』んじゃなくて……『結婚した』んです」
 真生ちゃんが間髪入れずに口を挟んだ。
 そして「櫻子さん、ほら、アレを」と目で促す。

 わたしは弾かれたように、左手をカウンターの上に置く。
 その薬指には、カル◯ィエのトリニティ・ウェディングが蛍光灯の青白い光にもかかわらず、きらきらと輝いていた。

 原さんの細い目が、めいっぱいに見開かれる。

「……相手は?」
 つぶやくように発したその言葉は震えていた。

「ここ二年ほど通われている、常連の利用者様ですよ」
 真生ちゃんが、きっぱりと言い放つ。
「これまでの本館のウワサでは、どんなふうに伝わっていたか知りませんけど、櫻子さんは別に『色目』を使っていたわけじゃなく、利用者様のある方と結婚を前提としたお付き合いをしていただけです」

 原さんが鋭い目で、わたしをじっと見つめる。
「だけど、この前二人っきりで会ったときには、そのような人がいるなんて話は、まったくなかったですよね?」

 ——そうだ、あのときは「葛城さん」も「シンちゃん」も影も形もなかったのだ。

「そ…それは……」
 わたしは口ごもった。


「……それは、当然でしょう?」

 突然、なめらかで落ち着いた声が聞こえてきた。
 その声の先をたどると、そこには——

「……シンちゃんっ!」
 すがるような声で、わたしはその名を呼んだ。

 シンちゃんが、ゆっくりと歩みを進めてカウンターまでやってくる。

 そして、端正に整ったその顔立ちを、まるでチョコレートがとろけるようにまろやかに崩しながら、わたしに向かって微笑んだ。

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