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Chapter 7
⑩
しおりを挟むいつの間にか、麻琴と礼子が呑んでいた奥まったテーブル席に、壮年の男性の姿があった。
年相応のグレイヘアではあるが、ジムのパーソナルトレーナーのメニューによって鍛えられているすらりと高いその体躯には、細身のイタリアンスーツがよく似合っていた。
まるでシルクのような肌触りのスーツは、ナポリを本拠地とするキー◯ンのものだ。ぴったりと身体のラインに沿った縫製であるが、実はオーダーメイドではない。
何事も即断即決する彼には、何ヶ月も先にしか手に入らないものなんて、とても待ってはいられないのだ。
ただ「既製服」といえど「世界で一番高価な既製服」と呼ばれるその額は、デパートで誂えるオーダーメイドよりずっと値が張るが……
「さ、鮫島社長……⁉︎」
先刻まで艶っぽく輝いていた礼子の頬が、みるみるうちに色を失っていった。
「お邪魔だったかな?接待の会食を早々と切り上げてきたんだ。私にも翔君から、ドイツ産の貴腐ワインが入荷したっていうラインが届いていたからね。礼子のスケジュールだと、今夜あたりこの店に来てるかな、と思って」
突然、目の前に現れたのは、(株)Jubileeの代表取締役社長・鮫島 崇士だった。
「君、なかなか興味深い話をしていたね」
麻琴に向かってそう言いながらニヤリと笑った鮫島は、革張りのソファに座る礼子の隣に腰を下ろした。デンマークの巨匠アルネ・ヤコ◯センがデザインした名作スワンソファである。
なのに礼子の顔を見ると、気まずさのあまり急に座り心地が悪くなったようだ。
「は…はぁ……どうも、ありがとうございます」
対面で、同じくアルネ・ヤコ◯センの代表作エッグチェアに座る麻琴は、そう応じるしかない。
「鮫島さま、いらっしゃいませ。いつものをお持ちしましたが、ビールもご用意いたしましょうか?」
杉山が鮫島の前にセットしながら尋ねる。
「いや、私は接待でしこたま呑まされたから、今日はもうこれでいいよ。……それより、きみたちはもう食事は済ませた?」
「わたしは先刻、翔くんにつくってもらったのをいただいたわ」
鮫島に訊かれて礼子がそう答えると、
「サラダだけでいい、っておっしゃるので、上質なたんぱく質であれば大丈夫ですよ、と申し上げてイベリコ豚をつかったものにしました」
杉山が「告げ口」した。
「ダメじゃないか。私のパーソナルトレーナーからも、礼子はちょっとがんばりすぎてるので気をつけるように言われてるんだよ?」
「だって、この歳になると、代謝が悪くなってどうしても体重が増えちゃうんだもん」
礼子が、不貞腐れたちいさな女の子の顔になる。
すると、鮫島は感に耐えかねたように目を細めて礼子を引き寄せ、その艶やかなブルージュの髪にちゅっ、とキスをした。
そして、彼女を腕の中に収めたまま、
「君はもう済ませた?もし、まだなら……」
麻琴にも気を遣ってくれた。
——うっわー、この男、卑怯なまでに年季の入った「やさしさ」の持ち主じゃないの⁉︎ 道理で、何人も「人生の伴侶」が現れるはずだわ。
「あ、お気遣いなく。ここに来る前に軽く済ませてきましたので」
麻琴は、どうしても引き攣ってしまいそうになる笑顔を必死で解した。
「……では、渡辺さま、鮫島さまと久城さまのお相手、よろしくお願いします」
杉山が、心の底から申し訳なさそうにして下がって行った。
——あぁ、杉山くん、わたしを置いてかないでよー!
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