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Chapter 7
⑫
しおりを挟む自分より歳上のカップルが目の前でいちゃつく姿を見ていて、あと五秒ほどで確実に砂糖を吐く態勢に入っていた麻琴に、
「ちょっと、見ててごらん」
鮫島がバ◯ラの琥珀色の液体に、ガス抜きのモン◯ークスを注ぎだした。
モン◯ークスは、フランスではめずらしい軟水のミネラルウォーターだ。乳幼児にはエ◯アンなどの硬水を飲ませると腎臓に負担がかかるため、軟水が欠かせない。ペットボトルのラベルには、にっこり笑うお母さんと赤ちゃんの顔が描かれていた。
「……えっ?」
麻琴は思わず声をあげた。
グラスの中の琥珀色が——みるみるうちに乳白色に変わったからだ。
「もしかして……パステ◯スですか?」
麻琴が尋ねると、
「そうだよ。君、よく知ってるね」
いたずらが上手くいった少年のように鮫島が笑った。
パステ◯スは、プロヴァンスなど南フランスで愛飲されているアニス酒だ。水を注ぐと自然乳化して、白く濁るウーゾ現象を起こす性質がある。
「以前にピーター・メ◯ルの『南仏プロヴァンスの十二ヶ月』を読んだことがあるので」
ニューヨークの広告会社に勤務していたイギリス人の著者が、夫婦で南フランスに移り住んだ日々を綴ったエッセイなのだが、その中で彼が地元民の好むパステ◯スなる酒をしょっちゅう呑んでいるのだ。さらに彼は「ホテル パステ◯ス」という小説まで書いている。
「世界的なベストセラーになったときに、私も読んだよ。ああいう悠々自適な生活を送る話は、多忙な私にとってはハリー・ポ◯ターよりもファンタジーに感じるね。いつかは叶えてみたい夢の話さ」
そう言って微笑んだ鮫島の両目の端に、深いシワが刻まれた。
「パステ◯スはね、もともとはアブサンの代替品として呑まれるようになったんだよ」
アルコール度が七〇度のアブサンは中毒性に加え幻覚症状も出ることがあり、人体に悪影響を及ぼしまくるというので、同じスターアニスなどのハーブ類をつかったパステ◯スが呑まれるようになったという。
とはいえ、パステ◯スもなかなかのアルコール度数で、四〇度はある。
そしてアルコールが四五度以上あって、定められたスターアニスの量をクリアしたものは「パステ◯ス・ド・マルセイユ」と呼ばれる。
——うーん、カルピスみたいだけど、先刻、話題に出ていたものにも似てなくもないわね。
それがなにかは、この場では口が裂けても言えないけれども。
「……呑んでみるかい?」
鮫島がバ◯ラをすーっと麻琴の前に押す。
「ええぇっ⁉︎」
麻琴は素っ頓狂な声を出してしまった。
「やめておいた方がいいわよ?甘いけど、薬草みたいに青臭い味がするから」
鮫島の「愛のささやき」のおかげで、すっかりご機嫌になった礼子が、麻琴に助け船を出す。
「でも、彼女、ボ◯モアを呑んでるじゃないか。正◯丸の味よりは美味いと思うよ?」
鮫島が、麻琴のキープしているスコッチのボトルを見る。
「……いただきます」
酒好きとしては、一度は呑んでみたいと思っていたのだ。
——どうやら、あれのような喉に粘つくエグい苦味はないようだし……
麻琴はパステ◯スを一口、呑んだ。口の中にほのかな甘さを感じたとたん、カーッとミントのような味がいっぱいに広がった。
「なるほど……溶かした甘めの歯磨き粉を飲んでるみたいですね」
「君、おもしろい表現するね。私は、礼子みたいにツンデレな味がするパステ◯スが大好きなんだけどね」
鮫島が声をあげて笑った。
「それに……正直だ」
彼の周囲には、顔色を伺ってばかりの輩が数多くいた。
「ところで、初めてお会いすると思うんだけど……礼子とはどういうつながりなの?」
そういえば、麻琴は自己紹介をしていなかった。鮫島が有名人すぎて、自己紹介してもらう必要がなかったからうっかりしていた。
「あぁ……この人は、恭介の彼女よ。恭介が産業医を勤めるステーショナリーネットでプロダクトデザイナーをされている、渡辺 麻琴さんっておっしゃるの」
礼子は一片の迷いもない口調で、鮫島に「紹介」した。
「へぇ、そうなんだ……松波医師の……」
鮫島が改めて麻琴をじーっと見る。恭介とは面識があるらしい。
——えええぇっ⁉︎
「ち、ち、ち、違いますっ!」
麻琴はすぐさま全否定した。
「えっ、違うの?」
礼子がきょとんとした顔になる。
「でも……恭介はあなたのことが好きよ」
そして、麻琴の右手の小指に目を遣る。
「だって、あなたのそのピンキーリングには、恭介のあなたへの想いが、暑っ苦しいくらい込められているもの」
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