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壱の巻「心意気」
其の参 〜弐〜
しおりを挟む男は着流しに黒羽織、腰には長刀・短刀の二本差し、さらに裏白の紺足袋に雪駄履きの姿だった。
——この男……同心じゃねぇかよ。
奉行所の「御用聞き」として動く与太の「雇い主」である杉山も、平生はかような出立ちだった。
そのとき、かちり、と音がした。
——お、おい……
男が、腰に差した太刀の柄に右手を掛けながら、左手の親指で刀の鍔を浮かせた音だった。
——ま、まさか……「切り捨て御免」じゃねぇだろな……
与太の背筋にまた一筋、つーっと冷や汗が流れる。
町家や百姓などを一太刀できる「切り捨て御免」は、いくら武家といえども正当な理由なしには滅多なことでは抜けぬ、まさに「伝家の宝刀」ではある。
無闇矢鱈に使おうものなら、町家相手なら「打ちこわし」、百姓相手なら「一揆」と云う「仕返し」が待っている。さすれば、切り捨てた武家は「腹」を差し出して「事」を収めざるを得なくなる。
……とは云え——武家に赦されていることに違いはない。
「す、すいやせん、お武家の旦那。おいらは、ちょいと松波様んことに野暮用があって、今帰る処でやんす。決して怪しい者では……」
与太は声を励まし早口で告げた。
「おまえは……」
武家の男が問うた。
「町火消し伝馬町・は組に属す、鳶の与太で間違いないな」
いきなり名指しされ、与太は目を見開いた。どうやら、目の前の武家の男は与太のことを狙ってやってきたようだ。
もしかしたら、ずっと跡をつけてきたのかもしれない。それに気づかなかったと云うことは……相手はかなりの「手練れ」なのだろう。
相対した今もまったく隙がなく、与太が逃げ出すそぶりを見せようとものなら、それこそ即座に叩っ斬られそうだ。
——しくじったな……
与太は心の中で舌打ちした。
されども、いつまでもかようなままではいられない。
「へぇ、いかにもおいらは与太でさ。そいで旦那、藪から棒に一体おいらに何のご用でござんす」
肚を決めた与太は、男に対して真正面に向き直った。
大小の刀——二本差しの武家の男には到底敵わぬであろうが、一応餓鬼の頃より町家の道場で剣術の稽古はしてきた。
懐にはいつも、我が身を守るための匕首を忍ばせている。文字どおり、懐刀だ。
「おまえは……『南町』の御用聞きもやっておるそうだな」
鳶や火消しと同様、奉行所の下っ引きをやっていることは別段隠していることではない。大っぴらにしているわけではないだけであって、尋ねられれば正直に身を明かす。
ゆえに、与太はこくりと肯いた。
「某は『北町』の同心で島村と申す」
——やっぱり、同心ってか。
北町奉行所の同心であらば、南町奉行所の御用聞きであってもまだまだしがない下っ引きのおのれが、その顔を知るはずがない。
——じゃあ、なんで……『北町』の同心の旦那が、おいらなんかを付け狙うってんだい。
みるみるうちに与太の顔が訝しげになる。
一昔前と違い、今では互いに行き来もするようになり、ずいぶんと風通しが良くなったとは云うものの……相変わらず南北の奉行所は「捕物」を巡って鎬を削る仲であることに変わりはない。
「与太、おまえの評判は『北町』の御用聞きの連中から聞いておる」
確かに与太は、北町の息のかかった岡っ引き・下っ引き連中にも愛想良く入っていって世間話ができる。
実は——さように見せかけておいて、向こうが掴んだ「手掛かり」を探っているのだが。
「なぁ、与太よ。おまえ——『北町』の方の御用聞きもやってみぬか」
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