遠い昔からの物語

佐倉 蘭

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第三部「いつか」

第六話

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   数日後の西日が差しかかる頃、彼は再度、廣子を訪ねてやってきた。
   折しく、彼女はまだ帰宅しておらず、またしてもわたし一人が留守番だった。

   だけど、今日は伯母がちょっとした用事で近所に行っているだけだったので、彼には奥の座敷に上がって待ってもらうことにした。
   井戸に吊るして冷やしてあったお茶を持って座敷へ入ると、彼はわたしが縫っていた慰問袋を取り上げて見ていた。

「もうそろそろ、伯母が戻る頃だと思いますので……」
   わたしは彼の前にお茶を差し出しながら云った。

   彼は慰問袋を横に置き、「ありがとう」と云ってそれを手に取って一口飲んだ。

   お茶を出したまではよかったが、この先どうしよう。大体、同じ年頃の男の人と話す機会なんて、尋常小学校を卒業して女学校に入学して以来、皆無だった。

   彼の方も緊張しているようだった。きっちりと膝をそろえて正座をしていた。勉強はできるのであろうが、神経質そうな顔立ちからは、少し冷ややかな印象を受けた。

   それにしても、座卓を挟んで向かい同士に座っている姿は、まるでお見合いではないか。
   開け放した縁側の軒先にかけられた風鈴が、折からの風に吹かれて、ちりん、と鳴った。
   その音がやけに大きく響いた。

「……どうぞ、足をお崩しになって」
   わたしはおずおずと勧めた。

   すると、彼は少しホッとしたように「では、失礼して……」と口の中でもごもごと云いながら、膝を緩め胡坐あぐらをかいた。

   そして、また沈黙になった。


「……あのう……東京は……空襲は……大丈夫ですかしら。父と母が、まだ残っておりますので」

   わたしは思い切って、気になっていたことを尋ねた。内地であっても軍事郵便が優先のため、父母からの葉書はなかなか届かなかった。

「僕は先週帰省したから、今週のことはわからないが……相変わらず空襲警報が鳴らない日はないけど、三月や五月のような、ものすごいのはありませんよ」
   彼は少し表情を緩めて答えた。

   彼もあの、三月と五月を体験しているのだ。
   なぜだか、急に、懐かしい人にあったような、妙な感慨を覚えた。

「だけど、こっちの人があんまりのんびりしているんで驚いた。東京では毎日、命がけで逃げ回ってるっていうのにね」
   彼は呆れたように苦笑した。

   わたしは大きく肯いた。わたしも同じことを思っていたからだ。

「東京に住まわれて長いんですの。こちらの訛りがまったくないから」
   わたしはお茶を差し替えながら尋ねた。

「まだ三年ほどですよ。廣島一中を出て、都立の工業専門学校へ進学して以来だから」
   彼はお茶を受け取りながら答えた。入学した時分は「都立」ではなく「府立」だったはずだ。

   一昨年、東京府が「行政ノ統一および簡素化」により東京都に変わり、戦時体制の強化という錦の御旗の下で東京市が廃止され、防空のための対策や生活必需品の配給などは三十五区のそれぞれが担当することになった。

   わたしもこの地に疎開するにあたって、区の役所で空襲による災証明書と疎開転出証明書を発行してもらっていた。
   罹災証明書があれば疎開先でも配給が受けられるとのことだったが、地元の者ですら深刻な食糧不足の折、疎開者に回ってくることはなかった。また、余処よそ者がその「権利」を主張することもはばかられた。

「きみは、まだ女学生ですか」
   今度は彼の方が訊いてきた。
「いいえ。去年の秋に、繰上くりあげ卒業しました」
   わたしたちの学年は、お国からの指示で、従来よりも半年早く卒業を迎えていた。

「でも、なんだか申し訳なくてよ。卒業したわたしたちが内地に残り、学業途中のあなた方が中断して入営し、外地に赴かなければならないなんて」
   わたしは目を伏せた。
「だが、きみたちは、こうして銃後を支えてくれているじゃありませんか」

   彼は、傍らにある慰問袋をまた手に取った。
「……これが、戦地に届くんだな」
   慰問袋へ目を落として、ぼそりとつぶやいた。

「僕も、もうじき、これを受け取る側になるのか」
   彼はなんとも云えない複雑な笑みを、うっすらと浮かべた。

「開戦した時分は、もっといろんなものを送れましたけれど、最近はなにぶん、物資が乏しくて」
   わたしも彼の手にある慰問袋を見つめた。
 

「……いや、最近の慰問袋は、なかなか工夫がなされているよ」
   彼は突然、今までの表情を一変させ、悪戯いたずらっ子の腕白坊主のような顔をした。

   それから、きょとんとしたわたしの目をじっと見て、
「これを受け取った兵隊は、きっと感激し、発奮して、金鵄きんし勲章をもらえる働きをするに違いない」
と、さも愉快そうに云った。

   彼のもう片方の手には「痴人の愛」があった。

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