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序章
嵐の前の静けさ
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ばちり、と指先が痺れる感覚がして、頭の中に映像が勢いよくなだれ込む。「見よう」とせずともそれは鮮明に見えてしまうからいつもは頭を空っぽにし「見ない」ように意識するのだが、今日は存外うっかりしていた。
何が見えるかはその時次第。
今見えているのは、夫婦の口論だった。内容は些細なことのようだったが、口論の挙句、椅子にかかったベージュのコートを乱雑に掴み、夫が家を飛び出した。ドアがばたんと閉まる、映像はそこで途絶えた。
「…あの…?」
うっかり「見て」しまったせいで、指を触れ合わせたまま挙動を止めてしまっていたらしい。男性の不審そうな問いかけに気づき、オリアナは慌ててその指とブーケから手を離した。
薔薇を基調とした小さなブーケは、映像の中の女性にとても似合うなと思った。
「奥様にお似合いですよ、このブーケ」
その言葉に、男性は柔らかくはにかむ。映像で見かけた時のものとは打って変わって穏やかな表情だ。オリアナはベージュのコートを纏い去ってゆく背中を、温かい気持ちで送った。
ふう、と一息つくと、タイミングを合わせたかのように、大聖堂の鐘が街に響き渡る。そろそろ閉店だ、そう思い大きく息を吐きだしたタイミングで、
「今の男性は、知り合い?」
突然の背後からの声に、オリアナは吐いた息をハイスピードで吸い込む羽目になった。
「―っえ?」
振り返ると、見たことのない長身の男が立っていた。
「…だから、知り合い?」
オリアナを驚かせたその男は、まるで友達か何かのように当たり前の顔をして問いかけてくる。突然のことに言葉を発せないでいると、男はその長い身体を屈め、オリアナの顔を覗き込むように見つめてきた。
「…っ、な、なんですかあなた」
思わず顔を逸らす。いや、別に今は顔を見られて困ることはないのだが、一瞬かち合った綺麗なブルーの瞳が、なんだか嫌な予感でざわざわさせるのだ。
大きく横を向いて逸らしたのにも関わらず、男は無遠慮にズイズイ顔を寄せてくる。こうなると、オリアナも後ずさりながら距離をとるしかない。
「ちょっと教えてくれればそれでいいから。さっきのベージュコートの男性は、知り合い?」
なぜそんなことを訊くのか全くわからないが、答えないとこの攻防は終わりそうにない。顔を背けたまま、オリアナはとりあえず答えを返した。
「いえ、初めて来られたお客様ですけど、何か…!?」
目の端にチラチラ見える金髪が、風に大きくなびいた。店先に置いていたデイジーの花びらが風に揺られてちぎれ飛ぶ。
突風にあおられたのか、オリアナの身体も急激に傾いた。
「きゃ、」
後ずさりのせいで身体の重心は後ろにかかっている。
――倒れる、――
このあと起こるだろう背中への衝撃に、ぎゅっと目を瞑った。
が、痛みは一向にやってこない。
そればかりか、背中にはレンガ敷の冷たい感触ではなく、温もりがある。
目を開けると、先程逸らしたはずのブルーの瞳が、そこにはあった。
「ふぅ、危なかった…」
背中に回る彼の腕に力がこもる。
「…あっ、ありがとうございます…!」
オリアナは青く透き通った瞳に一瞬見惚れてしまうも、慌てて腕から抜け出した。
「……」
また距離を取り直しオリアナは男に対峙したが、男は何か考え込む様子で彼女の顔をまじまじと見つめている。
「……」
「…あ…あの?」
「…ふぅん、なるほど」
何事か納得したように、顎に手を当てウンウン頷く。
「よくは解らないが、とりあえずそういうことか」
だ、大丈夫かこの人?
「…えっと?」
「ああ、ごめん。ケガがないなら良かったよ」
訝し気な目で見られていることにようやく気付いたのか、今更取り繕うように笑顔を見せてくる。それはそれは、美しい微笑みだった。
「じゃあ、『オリアナさん』、…いずれ、また」
謎の男はそう言って踵を返すと、優雅な足取りで大通りの人ごみに消えていった。
「…なんで、名前…、あ、そっか」
振り返るとそこには手書きの小さな看板。『Oriana Negozio di Fiori(Oriana’s Flower Shop)』と書いてあった。
もう一度大通りに目を向けたが、もうその後ろ姿は見えない。
「なんだったの、一体」
溜息をついたところで、ふと、オリアナは先程の出来事の違和感に気づく。そういえば、何の心の準備もしないまま触れてしまったが、何も「見え」なかった。オリアナ自身、心を閉ざすのが知らず上手くなっていたのか、それとも彼のガードが堅かったのか。
謎の質問といい少し引っかかるが、まあもう会うこともないだろうと思い気を取り直す。
「さて、店じまい。雨降りそうだわ」
風はだんだんと強くなり、黒い雲も空に広がり出している。
オリアナは急いで店先の花を片付け始めた。
――あれ、そういえば。
『いずれ、また』って言ってなかった…?
デイジーのバケツを抱えたオリアナの肩に、ひとつめの雨粒が空から落ちた。
今夜は嵐になりそうだ。
何が見えるかはその時次第。
今見えているのは、夫婦の口論だった。内容は些細なことのようだったが、口論の挙句、椅子にかかったベージュのコートを乱雑に掴み、夫が家を飛び出した。ドアがばたんと閉まる、映像はそこで途絶えた。
「…あの…?」
うっかり「見て」しまったせいで、指を触れ合わせたまま挙動を止めてしまっていたらしい。男性の不審そうな問いかけに気づき、オリアナは慌ててその指とブーケから手を離した。
薔薇を基調とした小さなブーケは、映像の中の女性にとても似合うなと思った。
「奥様にお似合いですよ、このブーケ」
その言葉に、男性は柔らかくはにかむ。映像で見かけた時のものとは打って変わって穏やかな表情だ。オリアナはベージュのコートを纏い去ってゆく背中を、温かい気持ちで送った。
ふう、と一息つくと、タイミングを合わせたかのように、大聖堂の鐘が街に響き渡る。そろそろ閉店だ、そう思い大きく息を吐きだしたタイミングで、
「今の男性は、知り合い?」
突然の背後からの声に、オリアナは吐いた息をハイスピードで吸い込む羽目になった。
「―っえ?」
振り返ると、見たことのない長身の男が立っていた。
「…だから、知り合い?」
オリアナを驚かせたその男は、まるで友達か何かのように当たり前の顔をして問いかけてくる。突然のことに言葉を発せないでいると、男はその長い身体を屈め、オリアナの顔を覗き込むように見つめてきた。
「…っ、な、なんですかあなた」
思わず顔を逸らす。いや、別に今は顔を見られて困ることはないのだが、一瞬かち合った綺麗なブルーの瞳が、なんだか嫌な予感でざわざわさせるのだ。
大きく横を向いて逸らしたのにも関わらず、男は無遠慮にズイズイ顔を寄せてくる。こうなると、オリアナも後ずさりながら距離をとるしかない。
「ちょっと教えてくれればそれでいいから。さっきのベージュコートの男性は、知り合い?」
なぜそんなことを訊くのか全くわからないが、答えないとこの攻防は終わりそうにない。顔を背けたまま、オリアナはとりあえず答えを返した。
「いえ、初めて来られたお客様ですけど、何か…!?」
目の端にチラチラ見える金髪が、風に大きくなびいた。店先に置いていたデイジーの花びらが風に揺られてちぎれ飛ぶ。
突風にあおられたのか、オリアナの身体も急激に傾いた。
「きゃ、」
後ずさりのせいで身体の重心は後ろにかかっている。
――倒れる、――
このあと起こるだろう背中への衝撃に、ぎゅっと目を瞑った。
が、痛みは一向にやってこない。
そればかりか、背中にはレンガ敷の冷たい感触ではなく、温もりがある。
目を開けると、先程逸らしたはずのブルーの瞳が、そこにはあった。
「ふぅ、危なかった…」
背中に回る彼の腕に力がこもる。
「…あっ、ありがとうございます…!」
オリアナは青く透き通った瞳に一瞬見惚れてしまうも、慌てて腕から抜け出した。
「……」
また距離を取り直しオリアナは男に対峙したが、男は何か考え込む様子で彼女の顔をまじまじと見つめている。
「……」
「…あ…あの?」
「…ふぅん、なるほど」
何事か納得したように、顎に手を当てウンウン頷く。
「よくは解らないが、とりあえずそういうことか」
だ、大丈夫かこの人?
「…えっと?」
「ああ、ごめん。ケガがないなら良かったよ」
訝し気な目で見られていることにようやく気付いたのか、今更取り繕うように笑顔を見せてくる。それはそれは、美しい微笑みだった。
「じゃあ、『オリアナさん』、…いずれ、また」
謎の男はそう言って踵を返すと、優雅な足取りで大通りの人ごみに消えていった。
「…なんで、名前…、あ、そっか」
振り返るとそこには手書きの小さな看板。『Oriana Negozio di Fiori(Oriana’s Flower Shop)』と書いてあった。
もう一度大通りに目を向けたが、もうその後ろ姿は見えない。
「なんだったの、一体」
溜息をついたところで、ふと、オリアナは先程の出来事の違和感に気づく。そういえば、何の心の準備もしないまま触れてしまったが、何も「見え」なかった。オリアナ自身、心を閉ざすのが知らず上手くなっていたのか、それとも彼のガードが堅かったのか。
謎の質問といい少し引っかかるが、まあもう会うこともないだろうと思い気を取り直す。
「さて、店じまい。雨降りそうだわ」
風はだんだんと強くなり、黒い雲も空に広がり出している。
オリアナは急いで店先の花を片付け始めた。
――あれ、そういえば。
『いずれ、また』って言ってなかった…?
デイジーのバケツを抱えたオリアナの肩に、ひとつめの雨粒が空から落ちた。
今夜は嵐になりそうだ。
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