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October
紫苑祭二日目 Side 司 07話
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翠が落ち着いたころ、テンポの速いワルツが始まった。
「これの次、スローワルツが流れるけどどうする?」
翠は少し考え、
「踊りたい。だって、せっかくダンスを踊れるようになったんだもの。でも――」
人の視線を集める場所、そして、ペナルティーを負った人間から見える場所では踊りたくない、か。
「踊るだけならフロアへ出る必要はないだろ? ここでだって十分に踊れる。でも、足は?」
「痛い……。でも、痛い思いをしたのだから、やっぱり踊りたい」
「本当、負けず嫌いにもほどがある。今無理しなくても、ダンスが踊りたいならいつだって付き合うのに」
翠はうかがうように俺の顔を見て、
「ちゃんと正装してくれる?」
「そこ重要?」
「私にとっては……」
「……翠もドレスを着るなら考えなくはない」
すると、翠は嬉しそうにはにかんだ。
泣いたあとの笑顔はどこか幼く見え、小さいころの翠の写真を見てみたくなる。
でも、そんなことを申し出ようものなら同等の対価を求められるだろうな……。
俺が写る写真には海斗や秋兄、姉さんや兄さん、栞さんが写るものが多い。そんな写真を見れば、翠の関心は俺以外へも向く。
そこ一点が面白くなく思えるが、いつか一緒にアルバムを見ながらお茶を飲むのも悪くないかもしれない。
翠はゆっくりと立ち上がり、ドレスの裾を整えると先ほどと同じように丁寧に礼をした。それに返礼して翠の手を取ると、
「この曲、たぶんピアノで弾ける。そのくらいには何度も聴いたよね?」
話題を変えようとしているのがうかがえて、俺は話を合わせることにした。
翠は危うげなくステップを踏みダンスを踊る。
さっき足を引き摺っていたのが嘘のように。
ダンスが終われば何を却下するものもなくなる。そしたら、翠は足を見せてくれるだろうか。
もし見せてくれなかったとしても、制服へ着替えれば必然と見られるか……。
チークタイムになり翠を腕に閉じ込めると、とても控えめに伝ってくる熱が身にしみる。それはまるで、幸せがしみこむような感覚。
柔らかな体温を貪欲に欲すると、腕に力をこめるだけに留まらず、裸で抱き合いたいと思うわけで……。
翠は今、何を思っているだろう。何を感じているだろう。
相手の体温をこんなにも意識するのは俺だけなのか――
そっと翠の表情をうかがい見ると、翠は嬉しそうに表情を緩めていた。
その様は、ダンスというよりは音楽を楽しんでいるように見える。
「この曲、好きなの?」
「……どうして?」
「顔が嬉しそう」
「この曲が好きというよりは、このアーティストが好きなのかな……。湊先生の披露宴で、ファーストワルツに流れた曲もスティーヴィーワンダーの曲だったでしょう?」
「覚えてない」
翠はクスリと笑い、
「あの曲は好きで覚えていたのだけど、この曲は、曲名まで覚えてないの」
そんなカミングアウトに今度は俺が笑みを零す。
「じゃ、あとで曲名を調べよう」
「ツカサも好き?」
「悪くない」
「やり直し」
「……割と好き」
和やかな会話に穏やかな笑顔。
守りたいものはそれほど多くも大きくもないはずなのに、守りきれていない現実が歯がゆくてたまらない。
何をどうすれば翠を守ることができたのか、怪我をさせずに済んだのか――
そんなことを考えている反面、心を預けるように身を預けてもらえることが嬉しくて、このままずっと抱いていたいという気持ちばかりが募っていく。と、
「ツカサ、未来の私たちは今日の私たちをどんな気持ちで振り返るのかな?」
翠も去年の後夜祭を思い出していたのだろうか。
「さぁ……未来のことなんてわからない。でも――」
翠と視線を合わせ、
「俺は間違いなく翠の隣にいる」
もうひとつ言い切れることがあるとすれば、未来の自分が今日を振り返ったとしても、色褪せることなく翠の笑顔を思い出すことができる。そして、不甲斐ない自分と翠の泣き顔も漏れなく思い出すことになるだろう。
「そうだったらいいな」
再度頬を胸に寄せられ、
「……翠」
「ん?」
「キスしても?」
学校だからだめと言われるだろうか。
懇願するように翠を見ていると、翠はゆっくりと俺を見上げた。
まるでキスを乞うような表情に、
「それ、いいように受け取るけど?」
翠は小さく頷き、俺はそっと翠の唇に自分のそれを重ねた。
少し冷たい翠の唇と、熱を帯びた自分の唇が溶け合うような感覚に酔いしれる。
一年前の今日、キスは想いを伝えるための術だった。気持ちの通わない一方的すぎる行為だった。
きっと、「想いを伝えるための術」というのは今も変わっていない。でも、それがきちんと翠に伝わっているのかはわからなくて――
愛しいと思うこの想いは、言葉にしないと伝わらないものだろうか。俺はいつまでここに立ち止まったままなのか――
躓いたまま先に進めない自分は翠とさして変わらない気がした。
しっとりとした雰囲気をもう少し味わっていたかったが、表では打ち上げへ移行すべく皆がバタバタと移動を始めている。それを気にする翠もそわそわし始めていた。
翠と共にフロアへ出れば、生徒会からのアナウンスが入ったところだった。
「ツカサ、私たちも生徒会メンバーなのに何もお仕事してない」
慌てる翠に、
「基本、姫と王子は免除される仕組み」
「そうなの?」
「そう」
嘘だけど……。
でも、怪我をしている翠を動かそうなどと誰も思ってはいないだろう。
「それに、この行事をもって俺たち三年は生徒会を引退する。次代への引継ぎも含めているから、今生徒会を取り仕切っているのは簾条だと思うけど?」
「そうなのね……」
どこかぼーっとしている翠を教室へ送っていこうと思っているところに携帯が鳴り始めた。
……青木から、か。
「はい」
『あ、藤宮くん。謝罪の場が決まったわ。図書室前。人気もないしちょうどいいでしょ?』
「わかった」
翠は緊張の眼差しで俺の顔を見ていた。
「青木が図書室前の廊下で待ってるって」
「……わかった。行ってくる」
そう言って、翠は俺に背を向けた。
まさか、
「ひとりで?」
「うん、ひとりで行く」
翠は俺を見ることなく答え、フロアを突っ切るべく歩き出した。
無事に階段へ着いた翠の後ろ姿を見ていると、携帯が鳴り出す。
相手は朝陽。
「はい」
『司、背中に哀愁漂ってるよ』
どこにいるのかと辺りを見回すと、観覧席からこちらを見ている朝陽が目に付いた。
『翠葉ちゃん、これから謝罪受けに行くんだろ? 付き添わなくて良かったの?』
「ひとりで行くって」
『そういうとこ、彼女らしいね。でもあれは、結構足が痛いんじゃないかな?』
視線を翠へ戻すと、階段を上がる様はとてもゆっくりで、ドレスだから、というよりは、身体のどこかを庇って歩いているように見えなくもない。
「このあとは歩かせるつもりはない」
『うん、そうしてあげな。こっちのことは任せてくれていいから、見えない場所で待機しててあげたら?』
「あぁ……」
着替えを済ませて中央階段を上がると、五分と経たずに翠が図書棟から出てきた。一緒にいる男は風紀委員だろう。
「あぁ、俺必要なさげだね。先輩がいるなら先輩が運んでくれるでしょ。先、打ち上げ行ってる!」
そう言うと、風紀委員は走り去っていった。
俺は先ほどの仕返し、と言うがごとく、問答無用で翠を抱き上げる。と、
「ゆっくりだったら歩けるのに……」
文句じみた物言いに、
「まだ怪我の程度も見せてもらってない。それに、さっきよりは痛そうな顔をしてる」
それでもまだ何か言うか?
そんな目で翠を見ると、翠は苦笑を漏らし俺の首へ腕を回した。
心配だからこその行動ではあったが、今日何度目かの翠の動作に、俺は間違いなく心を満たされていた。
着替えが終わって出てきた翠を見て驚く。
テーピングされた右足はだいぶ腫れていた。
こんな足でダンスを踊っていたのか? 階段の上り下りをしていたのか?
無理をしたからここまで腫れてしまったのか、もとからこの状態だったのか。
わかることといえば、こんな足でダンスを踊っていいわけがなかったことくらい。
「……聞いてないんだけど」
「え、何、が……?」
「足の怪我、そんなにひどいものだったとは聞いてないんだけど? しかも、右手首も怪我してたなんて初耳だけど?」
どんなに笑顔を作ろうとしても無理がある。顔中が引きつる感覚を自覚しながら、
「停学措置ですら軽いだろっ!?」
翠に怒鳴っても意味はない。わかっていても怒りを抑えきれなかった。
今すぐにでも確定処分を取り下げ、当初の処分を下してほしいと思う。しかし翠は、
「もう謝罪は受けたしこの話は終わりにしようっ?」
「謝罪を受けたら怪我が治るとでも?」
「まさか……」
「この先しばらく右足を庇う生活になるだろうし、いつもなら二十分かからない距離を三十分近くかけて登校する羽目になることが、翠にとってはそんなに軽いことなのか?」
翠はびっくりした表情で押し黙る。
第一、
「その手でピアノ弾けるの? その手で毎日板書できるの?」
翠は言葉に詰まっていたが、何度か呼吸することで体勢を立て直し、
「大丈夫。ゆっくり行動することや、前もって行動するのは割と得意だから。板書が間に合わなければ友達に見せてもらうなりコピーしてもらうなりする。ピアノは――先生に診てもらってから考える」
「俺は納得できない」
「……ツカサは関係ないでしょう?」
「っ……――翠が突き落とされた理由に俺が絡んでいたはずだけど?」
「そうだけど――でも、直接ツカサが絡んでいるわけじゃない。私は、私に嫉妬した人に突き落とされたの。実質被害を被ったのも当事者なのも私だよ? ツカサが許す許さないって話じゃないでしょう?」
翠の言っていることは正論だ。だけど――
「翠は俺と同じ立場でも同じことが言えるの?」
大切な人を傷つけられて、自分だって少なからず絡んでいるのに、そう言えるのか?
「……わからない。でも、私はこれ以上この件を引っ張りたくない。……私のために怒ってくれてありがとう。でも、これ以上はもういい。もう、やだ。この話、やだ……」
翠はさっきのように悲愴そうな面持ちで、唇を震わせている。
どうして俺たちがこんな言い合いをする羽目になるのか。どうして翠が泣く羽目になるのか。どうして――
「ツカサ、お願い……。もう、終わりにしたい。これ以上考えたくない」
そう言った翠は俺の手を取り、力いっぱい握り締めていた拳を解いていく。
親指人差し指中指、薬指小指、すべて開いたら両手で手のひら全体をほぐし、左手が終われば右……。そうして両の手が解れると、
「打ち上げ、桜林館で合同なのでしょう? 行こう? 団長がいなかったら黒組の人たちがっかりするよ?」
必死に俺を宥め、違うほうへ違うほうへと意識を逸らそうとする様がいじらしかった。
これ以上翠と言い合いしたくないのと、これ以上泣かせたくない、これ以上嫌な思いをさせたくない。それらを優先することで自分の怒りを落ち着ける。と、ふとしたことに気づいた。
手が、熱い……?
翠の手が珍しく熱を持っていた。
いつもなら冷たいと感じる手が熱い……。
「翠、携帯見せて」
「え?」
あまりにも反応が遅いから、翠が肩にかけているショルダーから携帯を奪う。と、
「手が熱いと思ったら発熱してるし……」
「嘘……」
翠は身を乗り出すようにディスプレイを覗き込む。
「ほら」
「三十七度五分――」
翠は言って呆然としていた。そして、
「去年よりは低いね」
おい……。
「インフルエンザを発症して入院した去年と比べるとかどんな神経?」
「それもそうね……。今回は純粋に疲れかな?」
首を傾げる翠に、
「倦怠感は?」
「少し……。でも、身体を動かすのがひどく億劫という感じではない」
「……打撲や捻挫からでも発熱することがある」
「そうなの……?」
「明日の藤山はやめておこう」
「えっ!? それは嫌っ。紅葉は見たいっ」
「わがまま」
「わかってる」
真顔で認めるな……。
「打ち上げは途中で抜けよう。今日は兄さんが家にいるから」
「え? それなら湊先生に診てもらえば――」
「さっき姉さんに連絡入れたらほかの生徒に付き添って病院行ってるって」
「そうなのね……」
「兄さんにはもう連絡入れたから、兄さんに診てもらって明日動いてもいいか判断を仰ぐ。それでいい?」
「はい……」
「じゃ、おとなしく運ばれて」
今度は何を言うでもなくすんなり抱えられてくれた。そして、自然な動作で首に腕を回してもらえたことが嬉しくて、嬉しすぎて、キスをせずにはいられなかった。
「もう……今日だけだからね?」
ちょっとむっとした言い方が相変わらずかわいくて、
「ならもう一度だけ……」
ほんの少し逃げ腰の翠の唇を捕まえ、一度目より強く吸い付いた。
「これの次、スローワルツが流れるけどどうする?」
翠は少し考え、
「踊りたい。だって、せっかくダンスを踊れるようになったんだもの。でも――」
人の視線を集める場所、そして、ペナルティーを負った人間から見える場所では踊りたくない、か。
「踊るだけならフロアへ出る必要はないだろ? ここでだって十分に踊れる。でも、足は?」
「痛い……。でも、痛い思いをしたのだから、やっぱり踊りたい」
「本当、負けず嫌いにもほどがある。今無理しなくても、ダンスが踊りたいならいつだって付き合うのに」
翠はうかがうように俺の顔を見て、
「ちゃんと正装してくれる?」
「そこ重要?」
「私にとっては……」
「……翠もドレスを着るなら考えなくはない」
すると、翠は嬉しそうにはにかんだ。
泣いたあとの笑顔はどこか幼く見え、小さいころの翠の写真を見てみたくなる。
でも、そんなことを申し出ようものなら同等の対価を求められるだろうな……。
俺が写る写真には海斗や秋兄、姉さんや兄さん、栞さんが写るものが多い。そんな写真を見れば、翠の関心は俺以外へも向く。
そこ一点が面白くなく思えるが、いつか一緒にアルバムを見ながらお茶を飲むのも悪くないかもしれない。
翠はゆっくりと立ち上がり、ドレスの裾を整えると先ほどと同じように丁寧に礼をした。それに返礼して翠の手を取ると、
「この曲、たぶんピアノで弾ける。そのくらいには何度も聴いたよね?」
話題を変えようとしているのがうかがえて、俺は話を合わせることにした。
翠は危うげなくステップを踏みダンスを踊る。
さっき足を引き摺っていたのが嘘のように。
ダンスが終われば何を却下するものもなくなる。そしたら、翠は足を見せてくれるだろうか。
もし見せてくれなかったとしても、制服へ着替えれば必然と見られるか……。
チークタイムになり翠を腕に閉じ込めると、とても控えめに伝ってくる熱が身にしみる。それはまるで、幸せがしみこむような感覚。
柔らかな体温を貪欲に欲すると、腕に力をこめるだけに留まらず、裸で抱き合いたいと思うわけで……。
翠は今、何を思っているだろう。何を感じているだろう。
相手の体温をこんなにも意識するのは俺だけなのか――
そっと翠の表情をうかがい見ると、翠は嬉しそうに表情を緩めていた。
その様は、ダンスというよりは音楽を楽しんでいるように見える。
「この曲、好きなの?」
「……どうして?」
「顔が嬉しそう」
「この曲が好きというよりは、このアーティストが好きなのかな……。湊先生の披露宴で、ファーストワルツに流れた曲もスティーヴィーワンダーの曲だったでしょう?」
「覚えてない」
翠はクスリと笑い、
「あの曲は好きで覚えていたのだけど、この曲は、曲名まで覚えてないの」
そんなカミングアウトに今度は俺が笑みを零す。
「じゃ、あとで曲名を調べよう」
「ツカサも好き?」
「悪くない」
「やり直し」
「……割と好き」
和やかな会話に穏やかな笑顔。
守りたいものはそれほど多くも大きくもないはずなのに、守りきれていない現実が歯がゆくてたまらない。
何をどうすれば翠を守ることができたのか、怪我をさせずに済んだのか――
そんなことを考えている反面、心を預けるように身を預けてもらえることが嬉しくて、このままずっと抱いていたいという気持ちばかりが募っていく。と、
「ツカサ、未来の私たちは今日の私たちをどんな気持ちで振り返るのかな?」
翠も去年の後夜祭を思い出していたのだろうか。
「さぁ……未来のことなんてわからない。でも――」
翠と視線を合わせ、
「俺は間違いなく翠の隣にいる」
もうひとつ言い切れることがあるとすれば、未来の自分が今日を振り返ったとしても、色褪せることなく翠の笑顔を思い出すことができる。そして、不甲斐ない自分と翠の泣き顔も漏れなく思い出すことになるだろう。
「そうだったらいいな」
再度頬を胸に寄せられ、
「……翠」
「ん?」
「キスしても?」
学校だからだめと言われるだろうか。
懇願するように翠を見ていると、翠はゆっくりと俺を見上げた。
まるでキスを乞うような表情に、
「それ、いいように受け取るけど?」
翠は小さく頷き、俺はそっと翠の唇に自分のそれを重ねた。
少し冷たい翠の唇と、熱を帯びた自分の唇が溶け合うような感覚に酔いしれる。
一年前の今日、キスは想いを伝えるための術だった。気持ちの通わない一方的すぎる行為だった。
きっと、「想いを伝えるための術」というのは今も変わっていない。でも、それがきちんと翠に伝わっているのかはわからなくて――
愛しいと思うこの想いは、言葉にしないと伝わらないものだろうか。俺はいつまでここに立ち止まったままなのか――
躓いたまま先に進めない自分は翠とさして変わらない気がした。
しっとりとした雰囲気をもう少し味わっていたかったが、表では打ち上げへ移行すべく皆がバタバタと移動を始めている。それを気にする翠もそわそわし始めていた。
翠と共にフロアへ出れば、生徒会からのアナウンスが入ったところだった。
「ツカサ、私たちも生徒会メンバーなのに何もお仕事してない」
慌てる翠に、
「基本、姫と王子は免除される仕組み」
「そうなの?」
「そう」
嘘だけど……。
でも、怪我をしている翠を動かそうなどと誰も思ってはいないだろう。
「それに、この行事をもって俺たち三年は生徒会を引退する。次代への引継ぎも含めているから、今生徒会を取り仕切っているのは簾条だと思うけど?」
「そうなのね……」
どこかぼーっとしている翠を教室へ送っていこうと思っているところに携帯が鳴り始めた。
……青木から、か。
「はい」
『あ、藤宮くん。謝罪の場が決まったわ。図書室前。人気もないしちょうどいいでしょ?』
「わかった」
翠は緊張の眼差しで俺の顔を見ていた。
「青木が図書室前の廊下で待ってるって」
「……わかった。行ってくる」
そう言って、翠は俺に背を向けた。
まさか、
「ひとりで?」
「うん、ひとりで行く」
翠は俺を見ることなく答え、フロアを突っ切るべく歩き出した。
無事に階段へ着いた翠の後ろ姿を見ていると、携帯が鳴り出す。
相手は朝陽。
「はい」
『司、背中に哀愁漂ってるよ』
どこにいるのかと辺りを見回すと、観覧席からこちらを見ている朝陽が目に付いた。
『翠葉ちゃん、これから謝罪受けに行くんだろ? 付き添わなくて良かったの?』
「ひとりで行くって」
『そういうとこ、彼女らしいね。でもあれは、結構足が痛いんじゃないかな?』
視線を翠へ戻すと、階段を上がる様はとてもゆっくりで、ドレスだから、というよりは、身体のどこかを庇って歩いているように見えなくもない。
「このあとは歩かせるつもりはない」
『うん、そうしてあげな。こっちのことは任せてくれていいから、見えない場所で待機しててあげたら?』
「あぁ……」
着替えを済ませて中央階段を上がると、五分と経たずに翠が図書棟から出てきた。一緒にいる男は風紀委員だろう。
「あぁ、俺必要なさげだね。先輩がいるなら先輩が運んでくれるでしょ。先、打ち上げ行ってる!」
そう言うと、風紀委員は走り去っていった。
俺は先ほどの仕返し、と言うがごとく、問答無用で翠を抱き上げる。と、
「ゆっくりだったら歩けるのに……」
文句じみた物言いに、
「まだ怪我の程度も見せてもらってない。それに、さっきよりは痛そうな顔をしてる」
それでもまだ何か言うか?
そんな目で翠を見ると、翠は苦笑を漏らし俺の首へ腕を回した。
心配だからこその行動ではあったが、今日何度目かの翠の動作に、俺は間違いなく心を満たされていた。
着替えが終わって出てきた翠を見て驚く。
テーピングされた右足はだいぶ腫れていた。
こんな足でダンスを踊っていたのか? 階段の上り下りをしていたのか?
無理をしたからここまで腫れてしまったのか、もとからこの状態だったのか。
わかることといえば、こんな足でダンスを踊っていいわけがなかったことくらい。
「……聞いてないんだけど」
「え、何、が……?」
「足の怪我、そんなにひどいものだったとは聞いてないんだけど? しかも、右手首も怪我してたなんて初耳だけど?」
どんなに笑顔を作ろうとしても無理がある。顔中が引きつる感覚を自覚しながら、
「停学措置ですら軽いだろっ!?」
翠に怒鳴っても意味はない。わかっていても怒りを抑えきれなかった。
今すぐにでも確定処分を取り下げ、当初の処分を下してほしいと思う。しかし翠は、
「もう謝罪は受けたしこの話は終わりにしようっ?」
「謝罪を受けたら怪我が治るとでも?」
「まさか……」
「この先しばらく右足を庇う生活になるだろうし、いつもなら二十分かからない距離を三十分近くかけて登校する羽目になることが、翠にとってはそんなに軽いことなのか?」
翠はびっくりした表情で押し黙る。
第一、
「その手でピアノ弾けるの? その手で毎日板書できるの?」
翠は言葉に詰まっていたが、何度か呼吸することで体勢を立て直し、
「大丈夫。ゆっくり行動することや、前もって行動するのは割と得意だから。板書が間に合わなければ友達に見せてもらうなりコピーしてもらうなりする。ピアノは――先生に診てもらってから考える」
「俺は納得できない」
「……ツカサは関係ないでしょう?」
「っ……――翠が突き落とされた理由に俺が絡んでいたはずだけど?」
「そうだけど――でも、直接ツカサが絡んでいるわけじゃない。私は、私に嫉妬した人に突き落とされたの。実質被害を被ったのも当事者なのも私だよ? ツカサが許す許さないって話じゃないでしょう?」
翠の言っていることは正論だ。だけど――
「翠は俺と同じ立場でも同じことが言えるの?」
大切な人を傷つけられて、自分だって少なからず絡んでいるのに、そう言えるのか?
「……わからない。でも、私はこれ以上この件を引っ張りたくない。……私のために怒ってくれてありがとう。でも、これ以上はもういい。もう、やだ。この話、やだ……」
翠はさっきのように悲愴そうな面持ちで、唇を震わせている。
どうして俺たちがこんな言い合いをする羽目になるのか。どうして翠が泣く羽目になるのか。どうして――
「ツカサ、お願い……。もう、終わりにしたい。これ以上考えたくない」
そう言った翠は俺の手を取り、力いっぱい握り締めていた拳を解いていく。
親指人差し指中指、薬指小指、すべて開いたら両手で手のひら全体をほぐし、左手が終われば右……。そうして両の手が解れると、
「打ち上げ、桜林館で合同なのでしょう? 行こう? 団長がいなかったら黒組の人たちがっかりするよ?」
必死に俺を宥め、違うほうへ違うほうへと意識を逸らそうとする様がいじらしかった。
これ以上翠と言い合いしたくないのと、これ以上泣かせたくない、これ以上嫌な思いをさせたくない。それらを優先することで自分の怒りを落ち着ける。と、ふとしたことに気づいた。
手が、熱い……?
翠の手が珍しく熱を持っていた。
いつもなら冷たいと感じる手が熱い……。
「翠、携帯見せて」
「え?」
あまりにも反応が遅いから、翠が肩にかけているショルダーから携帯を奪う。と、
「手が熱いと思ったら発熱してるし……」
「嘘……」
翠は身を乗り出すようにディスプレイを覗き込む。
「ほら」
「三十七度五分――」
翠は言って呆然としていた。そして、
「去年よりは低いね」
おい……。
「インフルエンザを発症して入院した去年と比べるとかどんな神経?」
「それもそうね……。今回は純粋に疲れかな?」
首を傾げる翠に、
「倦怠感は?」
「少し……。でも、身体を動かすのがひどく億劫という感じではない」
「……打撲や捻挫からでも発熱することがある」
「そうなの……?」
「明日の藤山はやめておこう」
「えっ!? それは嫌っ。紅葉は見たいっ」
「わがまま」
「わかってる」
真顔で認めるな……。
「打ち上げは途中で抜けよう。今日は兄さんが家にいるから」
「え? それなら湊先生に診てもらえば――」
「さっき姉さんに連絡入れたらほかの生徒に付き添って病院行ってるって」
「そうなのね……」
「兄さんにはもう連絡入れたから、兄さんに診てもらって明日動いてもいいか判断を仰ぐ。それでいい?」
「はい……」
「じゃ、おとなしく運ばれて」
今度は何を言うでもなくすんなり抱えられてくれた。そして、自然な動作で首に腕を回してもらえたことが嬉しくて、嬉しすぎて、キスをせずにはいられなかった。
「もう……今日だけだからね?」
ちょっとむっとした言い方が相変わらずかわいくて、
「ならもう一度だけ……」
ほんの少し逃げ腰の翠の唇を捕まえ、一度目より強く吸い付いた。
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県立森実高校には2人の美の「女神」がいる。
頭脳明晰、容姿端麗、誰に対しても優しい聖女のような性格に、誰もが憧れる生徒会長と、天は二物を与えずという言葉に真正面から喧嘩を売って完膚なきまでに完勝している完全無敵の双子姉妹。
その名も『古羊姉妹』
本来であれば彼女の視界にすら入らないはずの少年Bである大神士狼のようなロマンティックゲス野郎とは、縁もゆかりもない女の子のはずだった。
――士狼が彼女たちを不審者から助ける、その日までは。
そして『その日』は突然やってきた。
ある日、夜遊びで帰りが遅くなった士狼が急いで家へ帰ろうとすると、古羊姉妹がナイフを持った不審者に襲われている場面に遭遇したのだ。
助け出そうと駆け出すも、古羊姉妹の妹君である『古羊洋子』は助けることに成功したが、姉君であり『古羊芽衣』は不審者に胸元をザックリ斬りつけられてしまう。
何とか不審者を撃退し、急いで応急処置をしようと士狼は芽衣の身体を抱き上げた……その時だった!
――彼女の胸元から冗談みたいにバカデカい胸パッドが転げ落ちたのは。
そう、彼女は嘘で塗り固められた虚乳(きょにゅう)の持ち主だったのだ!
意識を取り戻した芽衣(Aカップ)は【乙女の秘密】を知られたことに発狂し、士狼を亡き者にするべく、その場で士狼に襲い掛かる。
士狼は洋子の協力もあり、何とか逃げることには成功するが翌日、芽衣の策略にハマり生徒会に強制入部させられる事に。
こうして古羊芽衣の無理難題を解決する大神士狼の受難の日々が始まった。
が、この時の古羊姉妹はまだ知らなかったのだ。
彼の蜂蜜のように甘い優しさが自分たち姉妹をどんどん狂わせていくことに。
※【カクヨム】にて編掲載中。【ネオページ】にて序盤のみお試し掲載中。【Nolaノベル】【Tales】にて完全版を公開中。
イラスト担当:さんさん
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