光のもとで2

葉野りるは

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November

芸大祭 Side 慧 01話

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 午後一番で最近の集大成というべき演奏を終え、心地よい疲労を感じながらソファに身を投げ出していると、胸元でメールの受信を知らせる音が鳴った。
 スマホを取り出すことすら億劫なんだけど……。
 でも、俺の知り合いでメールを送ってくるのなんてひとりしかいないし、その人物は用もなくメールを送ってくるような人間じゃない。
 俺は唸りながらスマホを取り出しメールを開く。と、そこにはひどく短い奇妙な文章が表示されていた。
「スマホ見て何ボーっとしてんの?」
 ヴァイオリンの調弦をしていた春に尋ねられ、ディスプレイをそちらへ向ける。
「待ち人来る、ってなんだと思う?」
「さぁ……ってか、弓弦さんからじゃん」
「そうなんだけど、意味わかんなくてさ」
「っつかおまえ、頭働いてる? 目が死んだ魚なんだけど」
 それはひどい言われようだ。
 けど、春が言うのも強ち間違ってはおらず、頭が働いているとは言いがたかった。
「弓弦さんって冗談言ったりいたずらするタイプじゃないだろ? 文面どおり、誰かが来てるのかもよ?」
 少し離れたところで弓のメンテナンスをしていた真冬に言われ、確かに、と思う。
「ん~……俺、ちょっと弓弦んとこ行ってくるわ」
「えっ、今っ!? 俺らの演奏聴いてってくんねーのっ!?」
「わりっ、なんか今行かなくちゃいけない気がする」
 そう言って、俺は学内にある仙波楽器出張所へと向かった。

 先月オープンしたばかりの建物に入り、ショップに立っている女性、蓼科さんに声をかける。
「蓼科さん、こんちは。弓弦いる?」
「弓弦さんなら十五分ほどで戻るとおっしゃってたわ」
「えっ? 俺、弓弦からメールもらって来たんだけど……」
「聞いてる。第一応接室へ通すように言付かってるわ」
「ふーん……。そこ、誰かいたりする?」
「えぇ、とてもかわいらしいお客様がいらっしゃるはずよ」
 かわいらしい客……?
 ますますもって意味不明なんだけど……。
「俺の知ってる人?」
「さぁ、どうかしら」
「じゃ、蓼科さんは? 知ってる人?」
「いいえ。今日初めて見る子だったわ。とりあえず、行ってみたら?」
「そうする」

 楽しみのわくわくと、緊張のドキドキを感じながら三階へ上がる。と、廊下の先からピアノの音が聞こえてきた。
 三階には応接室が三部屋あるが、ピアノが置かれているのは一部屋のみ。
 つまり、第一応接室にいる「かわいらしい客人」が弾いているのだろう。
「これ、きらきら星変奏曲……?」
 なんで左手だけなんだろ……。
 疑問に思いつつ、演奏に耳を傾ける。
「……響子?」
 ――いやいやいや、あいつこんな下手くそじゃねーし、そもそも生きてねーし。
 そこまで考えて、過去に一度、響子とそっくりな音を奏でた人間を思い出す。
 いやまさか、あいつだってこんなたどたどしい演奏をするやつじゃなかったし。でも、だとしたら誰が……?
 半信半疑で誘われるようにドアを開ける。と、見覚えある髪の長い女がピアノの前に座っていた。
 マジかよ――
「おまえっ、ミソノウスイハっ!? ……ピアノ、続けてたのか?」
 彼女はひどくびっくりした様子で俺を見ていた。
 ようやく口を開いたかと思えば、
「あの……どちら様、ですか?」
 八年前と変わらない、鈴を転がしたような涼やかな声で言葉を紡ぐ。
「あっ、わりっ――俺、倉敷慧。小学生のころ、この大学主催のコンクールで会ったの覚えてねえ?」
「――っ!?」
 女は身を引くほどに驚いて見せた。
 これは覚えてもらえてるってことでいいのだろうか。
 彼女の目をじっと見ていると、
「ピアノさんに、こんにちは……?」
 自信なさげに小さな声で尋ねられた。
「それっ!」
 あのとき教えたことを覚えていてくれたことが嬉しくて、思わず声が弾む。
 すると、彼女はピアノの向こうに見えなくなった。
 すなわち、身を引きすぎて椅子から落っこちた。
「おいおい、大丈夫かよ。驚きすぎじゃね? いや、俺も驚いちゃいるんだけど……」
 立ち上がるのに手を貸そうと差し出したが、彼女はその手を見つめるのみ。
 早く手ぇ出せよ。手、差しのべてる俺が恥ずかしいだろっ!?
 そう思って彼女の手を見ると、肌色のテープがきっちりと貼られていた。
「げ……右手怪我してんのっ!? だから左手のみだったのかっ!」
 合点がいくと同時、右手の下に見えた脚が仰々しい様だった。
「はっ!? なんだよその脚っ。まるで事故にでも遭ったような風体だな」
 これじゃ手は乗せらんないか……。
 俺は出した手で右腕を掴み、引き上げるように力を加えた。
 ふらふらと立ち上がった彼女に、
「ひとまず、あっちに移動しようぜ」
 俺は手を貸したまま、ソファの方へと促す。
 応接セットで向かい合わせに座ったものの、彼女は非常に落ち着かない様子でテーブルのあたりに視線を彷徨わせ、視線が合う気配は微塵もない。
 ……にしてもかわいいな、おい。
 小学生のころもめっちゃくちゃかわいかったけど、そのまんま大きくなりやがって……。
 かわいい子を見て赤面しそうになるとか、あのコンクール以来なんだけど……。
 あのとき、ステージを目前に、すっごくかわいい子が隣に座っていることに気取られていた俺は、程なくしてその子が震えていることに気づいたんだ。
 手をきつく握り締め肩は竦みあがっており、歯の根が合わないほどガチガチに緊張していた。
 さらには緊張から聴覚が麻痺しているのか、名前を呼ばれても反応せず。
「名前、呼ばれたよ?」
 俺の声も届かなかった。そこで俺は、トントンと肩を叩いて声をかけなおしたんだ。
「大丈夫? 順番だよ」
 俯いていた顔がこちらを向き、潤んだ瞳に釘付けになる。
 真っ白な肌に色素の薄い長い髪、白いふわっふわのドレス姿は「妖精」を連想させたし、それ以上に真っ赤に充血した目が兎を彷彿とさせた。
「緊張してんの?」
 女の子はコクリと頷く。
「じゃ、いいおまじないを教えてやるよ」
「おまじない……?」
「そう、おまじない。鍵盤の前はどこも変わらない。必ず黒い鍵盤と白い鍵盤があるだろ? 怖くない。ピアノの前に座ったら、『ピアノさん、こんにちは』って挨拶をするんだ。そしたら、どんなピアノも仲良くしてくれる」
「ピアノさんに、こんにちは……?」
「うん。絶対に大丈夫だから」
「四十二番、御園生翠葉さん?」
 今度の呼び出しには気づいたようで、女の子は楚々として立ち上がり、ステージへと歩いていった。
 おまじないが利くといいんだけど……。
 見ない顔だし、コンクール自体が初めてなのかもしれない。
 小さいころからコンクールというコンクールに出尽くしてきた自分には少しの余裕があって、そのわずかな余裕を人の心配に割いていた。
 しかし、演奏が聴こえてきて耳を疑う。
 ……おいおいおい、今の今までがっちがちに緊張してた子の演奏が、これ……?
 まるで危うげなく、芯のある音を奏でていく。恐ろしいほど感情豊かに、色彩豊かに。
 何よりも、よく知った人間の音にそっくりだった。
 響子の音に似てる……。音が極彩色。
「くっ、俺、敵に塩送ったかも」
 やっべ。これ、俺やばいんじゃねーの?
 余裕があったはずの自分が一気に崖っぷちに立たされた。
 でも、「怖い」という感情よりは「好奇心」のほうが勝っていて、コンクールが終わったらまた話しかけようとかそんなことを考えていたんだ。
 けど、コンクールが終わったときにその子はいなくて、最優秀賞を獲得したのは彼女だったのに、体調不良を理由に辞退したと告げられた。
 忘れもしない、コンクールで初めて二位入賞という事態に陥った小学六年生の冬――
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