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November
芸大祭 Side 慧 03話
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どうやら、彼女は同じ音楽教室の友達とふたりで学祭に来ていたらしい。
その友達は、弓弦が声楽科の先生と引き合わせたらしく、現在面談中なのだとか……。
そして弓弦は、その間に俺たちを引き合わせようとちょっと前から画策していたのだという。
「それにしてもおまえ――」
「それっ」
言葉を遮られ、何を指摘されたのか……。
「は?」
「名前っ」
「御園生翠葉だろ?」
「じゃなくてっ、『おまえ』はいやっ。それから、フルネームで呼ばれるのもちょっと……」
「お、おう……」
確かに、さっきから「おまえ」か「御園生翠葉」しか口にしていない気はする。
でも、じゃぁなんて呼べばいいんだよ……。
そう思う俺の傍らで、弓弦はクスクスと笑っている。
「御園生さんの意外なこだわりが判明……。それに慧くんが圧されるなんて」
うるせーやい。俺だってかわいい子には弱いんだ。
……「御園生さん」は、なんかかたっくるしいよな。じゃぁ、「御園生」……?
うーん……手っ取り早く名前呼びで距離を縮めたい気がしなくもない……。
馴れ馴れしいって引かれるかな? ……いや、いっとけ俺っ!
「翠葉、あのコンクールのあとはどうしてたんだよ」
思い切って口にしてみたものの、呼びなれない名前を口にするのはなんだか気恥ずかしい。
落ち着け落ち着け……。単なる名前じゃねえか。単なる名前っ!
女友達の何人かは下の名前で呼ぶ仲だ。そう珍しいことでもない。
でも、呼びなれないうえにきれいすぎる名前を口にするのはひどく新鮮で、どうしてか恥ずかしかった。
しかも、名前を呼んだら嬉しそうに笑うから、心臓鷲づかみにされるわけで……。
俺、ブンブン振り回されっぱなしなんだけどっ!
ドキドキ絶好調で彼女に意識を戻すと、笑顔は引っ込み不思議そうな面持ちでこちらを見ていた。
「どうしてって、何が……ですか?」
「ピアノっ! それ以外にないだろっ?」
やばっ――平常心を装えず、口調が強くなってしまった。
また怯えさせてしまっただろうか。
ちょっといやなドキドキを感じつつ、目つきに注意して彼女を見る。と、彼女はまあるく目を見開いてまじまじと俺の顔を見ていた。
その数秒後、はっとした様子で表情を改める。
「川崎先生のところをやめてからは、割と好きに弾かせてくれる先生のもとで習っていました。最初にコンクールには出たくないって話したのでコンクールの話は一切出なかったし、ひたすらに好きな曲をマスターするためだけに練習してきた感じで……」
いったい何をどう進めてきたらあんなに技術が落ちるんだろう……。
新たなる疑問をぶつけると、翠葉は指折り数え始めた。
それはごく一般的な教本の進み方だけど、バッハの進行速度が遅いところを見ると、翠葉の苦手分野はそこなのかもしれない。
それにしても、
「基本に忠実に進んできてるのにどうしてあんなに劣化してんだよ。おまえ、間違いなく小五のころのほうがうまかったぞ」
この言葉には間を空けずに返答があった。
「さっき、病欠で留年したって話したでしょう?」
「あ? あぁ……」
「あのとき、入院していたからほとんどピアノに触れていないの。三月に入院して十月に退院してからは、高校受験のための勉強を始めたから、やっぱりピアノを弾く時間はとれなくて……」
まじで……?
「そのあとは?」
「そのあとは……高校の勉強についていくのに必死で、毎日ピアノを弾くことはできなくて……」
えっと……勉強ってそんなに大変? 俺、未だかつて、ピアノの練習時間以上に勉強したことってねーんだけど……。そもそも、勉強なんて適当にやって平均点とれてればよくね? それよりピアノのほうが大事じゃね?
そんな俺の疑問には弓弦が答えてくれた。
「彼女、藤宮高校の生徒なんですよ」
まじかっ! 藤宮じゃ大変だよなぁ……。この辺屈指の進学校だし、テストの平均点は七十点を越えることも珍しくないって話を聞いたことがある。
さらに口を開いた弓弦はこんな情報を追加した。
「で、この二ヶ月は学校のイベント準備でレッスンを休んでいたしだいです」
ぅおおおいっっっ!
「だからかっ! そりゃ、二ヶ月も間が開けば指だって動かなくならぁっ! おまえ、本当に音大受験する気あんのっ!? 弓弦、どうにかなんのかよ、これっ」
「はぁ……まぁ、がんばりますけどね。いや、がんばってもらいますけど……。御園生さん、覚悟なさってくださいね?」
「はい……」
翠葉は肩身狭そうに小さな声で返事した。
「ですが、さすがは川崎先生に三歳から習っていただけのことはあるんですよね。基礎はしっかりしているし勘もいい。吸収も早い。だいたいのことは言ったその場で直せるし、遅くとも翌週までにはものにしてくる。ですが、特筆すべきは色彩豊かな音色と表現力でしょうか」
「へぇ……。でも、音色と表現力だけじゃ技術面はカバーできねーよ?」
弓弦に、「それ以上は言わないように」と視線を送られ口を噤む。と、
「協力は惜しみませんのでがんばりましょうね」
「はい……」
翠葉は華奢な身体をさらに小さく縮こめていた。
反省……。
「ところで、極度のあがり症は治ったのかよ」
話を変えるべく新たな話題を振ると、
「えぇと……治ったわけではないです。今でも人前で弾くのや評価される場で弾くのは苦手です。でも、前に教えてもらったおまじないがあるので……」
そっと添えられた笑みに心臓が飛び跳ねる。
やっべ、嬉しい。顔、熱いかも……。
もはや、おまじないを実践してくれていることが嬉しいのか、笑顔を向けられたのが嬉しいのかわからないレベル。
「あぁ、あのときも効果覿面だったしな。むしろ、教えなきゃよかったぜ」
目いっぱいの強がりで口にすると、
「まさか慧くんがそのおまじないを御園生さんに教えていたとは思わなかったので、さっき御園生さんから聞いてびっくりしました。響子が喜んでいるでしょうね」
確かに。
このおまじないを作り俺に教えてくれたのは響子だから。きっと今ごろ天国で、「私のおかげよ!」とかなんとか言っている違いない。さらには、今の俺を見て突っ込みたい放題突っ込んでゲラゲラ笑い転げていそうだ。
片手で口元を隠し翠葉に視線を戻すと、翠葉は眉をひそめ悲愴そうな表情になっていた。
「……翠葉? どうしたんだよ、急に深刻そうな顔して」
翠葉が顔を上げると目に涙が溜まっていた。
「えっ? あっ、なんでもないですっ――」
なんでもないってその顔で言われても……。
「御園生さん……?」
「あ、いえっ、本当になんでもなくて――」
「いや、なんでもなかったら泣かないだろ?」
頭で考えるより先、心配で席を立っていた。
「御園生さん、体調悪いですか? さっきの熱、どうなりました?」
熱……? こいつ、熱あったのっ!?
翠葉はテーブルに置いてあった携帯を手に取り、じっとディスプレイを見つめる。
何、そこに体温でも表示されるわけ? そんなバカな――
半信半疑でディスプレイを覗き込むと、そこには体温らしき数値と意味不明な数字が並んでいた。
翠葉はそれらを見て無言を保っている。
たとえばそこに表示されている数字が体温だったとしても、三十七度五分でこんな深刻そうな表情をする必要があるだろうか。
ない、よな……?
だとしたら、もっと違う何か――何が……?
翠葉が沈黙する寸前にした会話といえば――
「――もしかして、響子の話?」
下から翠葉の顔を覗き込むと、翠葉はわかりやすく動揺した。
上半身の揺れに伴い、目に溜まった涙が零れる寸前。
あ、零れた……。
大粒の涙がひとつふたつみっつ。頬を伝うことなく、彼女の膝にポタポタと落下した。
泣いてしまったことに慌てた翠葉は、シフォン生地の上ではじけた涙にさらに動揺する。
原因は響子で間違いないっぽいけど――
「弓弦、響子の話ってどこまでしたの?」
そもそも、こいつなんで響子のこと知ってたんだろう?
「どこまでも何も、御園生さんが三歳のころにピアノの手ほどきをしたのは自分と響子って話だけだけど……」
「なんだよそれ。俺の知らない話なんだけど?」
っていうか、そうならそうと教えろよっっっ!
「あぁ、言ってなかったからね。でも、引き合わせたら話そうとは思ってたんだよ?」
「や、別にかわまないんだけどさ、じゃ、響子が亡くなった話まではしてなかったんだ?」
「進んで話すようなことでもないし……」
それもそうだな……。
でも、これは俺たちが悪いような気がする。
響子が亡くなったのは不可抗力でも、今翠葉がこんなにも動揺して涙を零しているのは俺と弓弦の会話が原因だ。
「悪い……。俺たちにとってはもうずいぶんと前の話なんだけど、人の死って結構な衝撃だよな。事、おまえみたいなタイプはガッツリダメージを受ける」
従兄妹たちにするように、うっかり頭に手を置いてしまった。引っ込めるに引っ込められず、きれいなカーブを描く頭に沿って撫でてやる。
えぇと……なんで小学生の従兄妹と頭の大きさがおんなじなんだろ……。
そんなどうでもいいことを疑問に思っていると、翠葉は潤んだ目のまま、きょとんとした顔で見返してきた。
これは、「どんな人間?」と尋ねられてるのかな。
「感性豊かな人間」
言って、無理やり口角を引き上げる。
「にしてもおまえ、耳ざといよなぁ……。普通、あんな会話聞き流すだろ? ってか、聞き流せよ」
「だって、違和感があって……」
「ずいぶんいいセンサーお持ちなこって……。まぁさ、中途半端に知るくらいならなんで亡くなったのかくらい知っておいたら?」
翠葉は戸惑うままに視線を彷徨わせていた。すると弓弦が申し訳なさそうに頭を下げた。
「配慮が足りなくて申し訳ありません」
「いえっ、あのっ――」
顔を上げた弓弦はにこりと笑顔を作り直し、
「慧くんが言うことも一理あるので、少しだけ姉の話をさせてください。実は、とっても元気な人だったのですが、ある日突然白血病になりまして、骨髄移植もしたのですが、八年前、あのコンクールの翌日に亡くなりました」
おいおい、ずいぶん簡単な説明だな。ま、このくらいサラッと話すくらいがちょうどいいのかもしれないけど。
しかし、翠葉はさらなる衝撃を受けたように身体を震わせる。
俺は頭を撫でていた手を背中へ移し、力の入った背をさすった。
手のひらに肩甲骨が触れ、見かけ以上に華奢な身体つきに驚く。
病気で留年するくらいには身体が弱いのかもしれないし、それがゆえ「人の死」というものに敏感に反応してしまうのかも……。
「そんなわけで、あの年のコンクールに僕は出ていないんです。その後も通夜だ告別式だなんやかやとバタバタしていて、コンクールの結果も把握しておらず、慧くんが二位入賞だったと知ったのは二ヶ月ほど経ってからのことでした」
弓弦は空気を換えるべく窓辺へ向かい、分厚い窓を開け放った。
「慧くん、飲み物はコーヒーでいいですか?」
「砂糖三つにミルク多めっ!」
「今日は蓼科さんがいるので違わず淹れてくれますよ。それから御園生さん、チョコレートはお好きでしょうか?」
翠葉は首を傾げる。
「ほら、チョコレートは好きかって」
「あっ、大好きです」
慌てて答える彼女を弓弦は笑い、
「では、美味しいチョコレートを持ってきてもらうので、それまでに泣き止んでくださいね」
そう言うと、弓弦はデスクの上にある電話に手を伸ばした。
その友達は、弓弦が声楽科の先生と引き合わせたらしく、現在面談中なのだとか……。
そして弓弦は、その間に俺たちを引き合わせようとちょっと前から画策していたのだという。
「それにしてもおまえ――」
「それっ」
言葉を遮られ、何を指摘されたのか……。
「は?」
「名前っ」
「御園生翠葉だろ?」
「じゃなくてっ、『おまえ』はいやっ。それから、フルネームで呼ばれるのもちょっと……」
「お、おう……」
確かに、さっきから「おまえ」か「御園生翠葉」しか口にしていない気はする。
でも、じゃぁなんて呼べばいいんだよ……。
そう思う俺の傍らで、弓弦はクスクスと笑っている。
「御園生さんの意外なこだわりが判明……。それに慧くんが圧されるなんて」
うるせーやい。俺だってかわいい子には弱いんだ。
……「御園生さん」は、なんかかたっくるしいよな。じゃぁ、「御園生」……?
うーん……手っ取り早く名前呼びで距離を縮めたい気がしなくもない……。
馴れ馴れしいって引かれるかな? ……いや、いっとけ俺っ!
「翠葉、あのコンクールのあとはどうしてたんだよ」
思い切って口にしてみたものの、呼びなれない名前を口にするのはなんだか気恥ずかしい。
落ち着け落ち着け……。単なる名前じゃねえか。単なる名前っ!
女友達の何人かは下の名前で呼ぶ仲だ。そう珍しいことでもない。
でも、呼びなれないうえにきれいすぎる名前を口にするのはひどく新鮮で、どうしてか恥ずかしかった。
しかも、名前を呼んだら嬉しそうに笑うから、心臓鷲づかみにされるわけで……。
俺、ブンブン振り回されっぱなしなんだけどっ!
ドキドキ絶好調で彼女に意識を戻すと、笑顔は引っ込み不思議そうな面持ちでこちらを見ていた。
「どうしてって、何が……ですか?」
「ピアノっ! それ以外にないだろっ?」
やばっ――平常心を装えず、口調が強くなってしまった。
また怯えさせてしまっただろうか。
ちょっといやなドキドキを感じつつ、目つきに注意して彼女を見る。と、彼女はまあるく目を見開いてまじまじと俺の顔を見ていた。
その数秒後、はっとした様子で表情を改める。
「川崎先生のところをやめてからは、割と好きに弾かせてくれる先生のもとで習っていました。最初にコンクールには出たくないって話したのでコンクールの話は一切出なかったし、ひたすらに好きな曲をマスターするためだけに練習してきた感じで……」
いったい何をどう進めてきたらあんなに技術が落ちるんだろう……。
新たなる疑問をぶつけると、翠葉は指折り数え始めた。
それはごく一般的な教本の進み方だけど、バッハの進行速度が遅いところを見ると、翠葉の苦手分野はそこなのかもしれない。
それにしても、
「基本に忠実に進んできてるのにどうしてあんなに劣化してんだよ。おまえ、間違いなく小五のころのほうがうまかったぞ」
この言葉には間を空けずに返答があった。
「さっき、病欠で留年したって話したでしょう?」
「あ? あぁ……」
「あのとき、入院していたからほとんどピアノに触れていないの。三月に入院して十月に退院してからは、高校受験のための勉強を始めたから、やっぱりピアノを弾く時間はとれなくて……」
まじで……?
「そのあとは?」
「そのあとは……高校の勉強についていくのに必死で、毎日ピアノを弾くことはできなくて……」
えっと……勉強ってそんなに大変? 俺、未だかつて、ピアノの練習時間以上に勉強したことってねーんだけど……。そもそも、勉強なんて適当にやって平均点とれてればよくね? それよりピアノのほうが大事じゃね?
そんな俺の疑問には弓弦が答えてくれた。
「彼女、藤宮高校の生徒なんですよ」
まじかっ! 藤宮じゃ大変だよなぁ……。この辺屈指の進学校だし、テストの平均点は七十点を越えることも珍しくないって話を聞いたことがある。
さらに口を開いた弓弦はこんな情報を追加した。
「で、この二ヶ月は学校のイベント準備でレッスンを休んでいたしだいです」
ぅおおおいっっっ!
「だからかっ! そりゃ、二ヶ月も間が開けば指だって動かなくならぁっ! おまえ、本当に音大受験する気あんのっ!? 弓弦、どうにかなんのかよ、これっ」
「はぁ……まぁ、がんばりますけどね。いや、がんばってもらいますけど……。御園生さん、覚悟なさってくださいね?」
「はい……」
翠葉は肩身狭そうに小さな声で返事した。
「ですが、さすがは川崎先生に三歳から習っていただけのことはあるんですよね。基礎はしっかりしているし勘もいい。吸収も早い。だいたいのことは言ったその場で直せるし、遅くとも翌週までにはものにしてくる。ですが、特筆すべきは色彩豊かな音色と表現力でしょうか」
「へぇ……。でも、音色と表現力だけじゃ技術面はカバーできねーよ?」
弓弦に、「それ以上は言わないように」と視線を送られ口を噤む。と、
「協力は惜しみませんのでがんばりましょうね」
「はい……」
翠葉は華奢な身体をさらに小さく縮こめていた。
反省……。
「ところで、極度のあがり症は治ったのかよ」
話を変えるべく新たな話題を振ると、
「えぇと……治ったわけではないです。今でも人前で弾くのや評価される場で弾くのは苦手です。でも、前に教えてもらったおまじないがあるので……」
そっと添えられた笑みに心臓が飛び跳ねる。
やっべ、嬉しい。顔、熱いかも……。
もはや、おまじないを実践してくれていることが嬉しいのか、笑顔を向けられたのが嬉しいのかわからないレベル。
「あぁ、あのときも効果覿面だったしな。むしろ、教えなきゃよかったぜ」
目いっぱいの強がりで口にすると、
「まさか慧くんがそのおまじないを御園生さんに教えていたとは思わなかったので、さっき御園生さんから聞いてびっくりしました。響子が喜んでいるでしょうね」
確かに。
このおまじないを作り俺に教えてくれたのは響子だから。きっと今ごろ天国で、「私のおかげよ!」とかなんとか言っている違いない。さらには、今の俺を見て突っ込みたい放題突っ込んでゲラゲラ笑い転げていそうだ。
片手で口元を隠し翠葉に視線を戻すと、翠葉は眉をひそめ悲愴そうな表情になっていた。
「……翠葉? どうしたんだよ、急に深刻そうな顔して」
翠葉が顔を上げると目に涙が溜まっていた。
「えっ? あっ、なんでもないですっ――」
なんでもないってその顔で言われても……。
「御園生さん……?」
「あ、いえっ、本当になんでもなくて――」
「いや、なんでもなかったら泣かないだろ?」
頭で考えるより先、心配で席を立っていた。
「御園生さん、体調悪いですか? さっきの熱、どうなりました?」
熱……? こいつ、熱あったのっ!?
翠葉はテーブルに置いてあった携帯を手に取り、じっとディスプレイを見つめる。
何、そこに体温でも表示されるわけ? そんなバカな――
半信半疑でディスプレイを覗き込むと、そこには体温らしき数値と意味不明な数字が並んでいた。
翠葉はそれらを見て無言を保っている。
たとえばそこに表示されている数字が体温だったとしても、三十七度五分でこんな深刻そうな表情をする必要があるだろうか。
ない、よな……?
だとしたら、もっと違う何か――何が……?
翠葉が沈黙する寸前にした会話といえば――
「――もしかして、響子の話?」
下から翠葉の顔を覗き込むと、翠葉はわかりやすく動揺した。
上半身の揺れに伴い、目に溜まった涙が零れる寸前。
あ、零れた……。
大粒の涙がひとつふたつみっつ。頬を伝うことなく、彼女の膝にポタポタと落下した。
泣いてしまったことに慌てた翠葉は、シフォン生地の上ではじけた涙にさらに動揺する。
原因は響子で間違いないっぽいけど――
「弓弦、響子の話ってどこまでしたの?」
そもそも、こいつなんで響子のこと知ってたんだろう?
「どこまでも何も、御園生さんが三歳のころにピアノの手ほどきをしたのは自分と響子って話だけだけど……」
「なんだよそれ。俺の知らない話なんだけど?」
っていうか、そうならそうと教えろよっっっ!
「あぁ、言ってなかったからね。でも、引き合わせたら話そうとは思ってたんだよ?」
「や、別にかわまないんだけどさ、じゃ、響子が亡くなった話まではしてなかったんだ?」
「進んで話すようなことでもないし……」
それもそうだな……。
でも、これは俺たちが悪いような気がする。
響子が亡くなったのは不可抗力でも、今翠葉がこんなにも動揺して涙を零しているのは俺と弓弦の会話が原因だ。
「悪い……。俺たちにとってはもうずいぶんと前の話なんだけど、人の死って結構な衝撃だよな。事、おまえみたいなタイプはガッツリダメージを受ける」
従兄妹たちにするように、うっかり頭に手を置いてしまった。引っ込めるに引っ込められず、きれいなカーブを描く頭に沿って撫でてやる。
えぇと……なんで小学生の従兄妹と頭の大きさがおんなじなんだろ……。
そんなどうでもいいことを疑問に思っていると、翠葉は潤んだ目のまま、きょとんとした顔で見返してきた。
これは、「どんな人間?」と尋ねられてるのかな。
「感性豊かな人間」
言って、無理やり口角を引き上げる。
「にしてもおまえ、耳ざといよなぁ……。普通、あんな会話聞き流すだろ? ってか、聞き流せよ」
「だって、違和感があって……」
「ずいぶんいいセンサーお持ちなこって……。まぁさ、中途半端に知るくらいならなんで亡くなったのかくらい知っておいたら?」
翠葉は戸惑うままに視線を彷徨わせていた。すると弓弦が申し訳なさそうに頭を下げた。
「配慮が足りなくて申し訳ありません」
「いえっ、あのっ――」
顔を上げた弓弦はにこりと笑顔を作り直し、
「慧くんが言うことも一理あるので、少しだけ姉の話をさせてください。実は、とっても元気な人だったのですが、ある日突然白血病になりまして、骨髄移植もしたのですが、八年前、あのコンクールの翌日に亡くなりました」
おいおい、ずいぶん簡単な説明だな。ま、このくらいサラッと話すくらいがちょうどいいのかもしれないけど。
しかし、翠葉はさらなる衝撃を受けたように身体を震わせる。
俺は頭を撫でていた手を背中へ移し、力の入った背をさすった。
手のひらに肩甲骨が触れ、見かけ以上に華奢な身体つきに驚く。
病気で留年するくらいには身体が弱いのかもしれないし、それがゆえ「人の死」というものに敏感に反応してしまうのかも……。
「そんなわけで、あの年のコンクールに僕は出ていないんです。その後も通夜だ告別式だなんやかやとバタバタしていて、コンクールの結果も把握しておらず、慧くんが二位入賞だったと知ったのは二ヶ月ほど経ってからのことでした」
弓弦は空気を換えるべく窓辺へ向かい、分厚い窓を開け放った。
「慧くん、飲み物はコーヒーでいいですか?」
「砂糖三つにミルク多めっ!」
「今日は蓼科さんがいるので違わず淹れてくれますよ。それから御園生さん、チョコレートはお好きでしょうか?」
翠葉は首を傾げる。
「ほら、チョコレートは好きかって」
「あっ、大好きです」
慌てて答える彼女を弓弦は笑い、
「では、美味しいチョコレートを持ってきてもらうので、それまでに泣き止んでくださいね」
そう言うと、弓弦はデスクの上にある電話に手を伸ばした。
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