203 / 1,060
Side View Story 05
19~22 Side 司 01話
しおりを挟む
時計を見ればすでに四時十五分を回っていた。
問題なく連れ出せたとして、校内放送が聞こえるか聞こえないかのギリギリの距離かもしれない。
急いで階段を下り昇降口へ向かう。と、翠の声が聞こえてきた。
視線を先にやると、頭を抱えている翠と漣が一緒にいる。
翠と漣が知り合い……? クラスは違うはずだし、翠が守備範囲を広げたとも思えない。考えられるとしたら、漣が翠に目をつけたってところか……。
「翠、何してる? 漣も」
俺が発した言葉に顔を上げ、
「あっ! サザナミくんだっ」
翠がフルリアクションで口にした。
「あーーー、もうっ。司先輩なんで言っちゃうかなぁっ!? この人、俺の名前全然覚えてくれないんですよねっ」
こちらを振り返る漣はひどく悔しそうな顔をしていた。
状況は理解できかねるが、別に理解する必要もない。
靴に履き替え、
「もう行けるの?」
「はい、大丈夫です」
翠は笑顔で答える。
ただの返事。されど返事。
警戒されてない感じが嬉しいと思った。
「えっ!? 何? ふたり付き合ってるんですかっ!?」
「違うよ」
「えっ、じゃぁ何っ!? なんなのっ!?」
漣の問いかけに即答した翠は、「なんだろう?」という顔をして首を傾げる。
「今日は俺に付き合ってもらう約束してるだけ」
翠の代わりに返事をしたものの、漣はここぞとばかりに質問を投げかけてくる。
「それって俺が申し込んでもOKってこと!?」
「や、それは……」
詰め寄られた翠は一歩下がって困惑した顔をしていた。
……これくらい自分で断われ。嫌なら嫌だとはっきり言えばいいだけのことだ。
そうは思いつつも時間の都合上助け舟を出さずにはいられない。
「俺は翠に貸しがあってそれを返してもらうだけだ」
「……俺も結構ないかな? ほら、何度言われても名前覚えられなくてごめんなさいデートとか」
知ってはいたが、ぞんがいしつこい……。
「それは翠が悪いんじゃなくて、印象が薄い漣の問題だろ。第一、俺は一発で覚えてもらってる」
「うわっ、それ自慢ですか!? 俺だって学年ではそこそこモテんのに」
「つまり、翠の範疇外ってことじゃないの?」
漣はそこで口を噤んだ。
桜並木を歩きながら、
「あぁいうの、困るなら困るでちゃんと断わったほうがいいと思うけど?」
忠告をすると、意外な答えが返ってきた。
「えと……実はすでに一度断わっているのですが――」
……秋兄に漣――なんで面倒な人間ばかりに好かれるんだか……。
「なるほど、懲りないやつって話か。しつこいようならなんとかするけど?」
秋兄はともかく、漣くらいなら蹴散らせる。
なんとなしに言っただけだった。なのに、翠は大きく目を見開き俺を凝視している。
「何?」
「なんか優しいです」
「……何度も言うけど、俺そんなに冷血漢でも心が氷でできてるわけでもないから」
「それはわかってるつもりなんですけど……。なんだか先輩が優しいと調子狂っちゃう」
ずいぶんな言われようだ。
「……俺、翠には優しいほうだと思うけど?」
言うと、心底驚いたような顔をするからどうしてやろうかと思う。
「翠には優しい」――その言葉の意味を考えたりはしないのだろうか。
願わくば、少しくらいは考えてほしい……。
高校門を出て時間を確認すると、四時二十五分だった。あと五分もあれば公道に出る。ここまでくれば放送は聞こえないだろう。そして、四時三十五分のバスにも間に合うはずだ。
これで俺の任務は完了。
「先輩はなんの用事なんですか?」
「オーダーしていたものを取りに行く。それだけ」
「何を?」
「行けばわかる」
ケチ、と言わんばかりの顔をされても、言えるか……。
プレゼントを渡すことに抵抗はない。でも、プレゼントを取りに行くという現時点でプレゼントの話をするのには抵抗がある。この差は何か――
考えていると、隣から脈絡もない言葉を投げられた。
「先輩、写真撮ってもいいですか?」
「……却下。それ、海斗絡みか何かだろ?」
「当たり……。どうしてわかったんですか?」
「海斗の考えそうなことだから」
「……え?」
全然わからないって顔。
「翠はわからなくていい」
そうは答えたものの、少しくらい頭を使って考えろ、と思う自分もいた。
窓際に座りたいと言った翠は嬉しそうに外を眺めている。
一昨日、翠と一緒に歩いて初めて気づかされたことがあった。
ゆっくり歩くと風を感じることができるのだと……。
ほかにも空がどうとか道端のタンポポがどうとか、桜吹雪の中にいられるとか、そんなようなことを嬉しそうに話していた。
今は……? 今は窓の外の何を見てそんなに嬉しそうな顔をしている?
もしできるなら、翠の感覚で風景を見てみたいと思う。
何がどう翠の目に映っているのか、自分でも見てみたい、感じてみたい。
きっと、俺が見ている世界とは違うものを見ている気がするから。
駅に着くと、まずは翠の用事を済ませることにした。場所的にも一番遠い楽器店から行くのがいいだろう。
そのあとは姉さんに頼まれてるコーヒー豆の買出しと、最後にデパート。
時間が時間ということもあり、改札階に上がるエスカレーターは程よく混んでいた。
翠の用事はスペア弦を買うことだったか……。
ハープと言われて頭に浮かぶのは、翠の家で見たフロアハープではなく、昨日、抱きしめるようにして弾いていた小さなハープ。
状況が状況だったからかもしれないが、その記憶のほうが鮮烈だった。
「ハープ、昨日弾いてた曲の曲名は?」
「え……?」
「昨日、繰り返し同じようなフレーズ弾いてたけど……」
原曲があるなら聞いてみたいと思った。けれど、翠から返ってきた答えは、
「……ごめんなさい。私、あまりそのときのこと覚えてなくて……」
そうだった……。
今朝、翠は何事もなかったかのように栞さんの家から出てきたのだ。弾いている記憶など無に等しいのかもしれない。
「……大丈夫なの?」
雅さんの言葉にショックを受けたからあんな状態に陥ったのではないのか――
じっと翠を見つめるも、翠は要領を得ない顔をしていた。
「いや、なんでもない」
本人の意識下にないのなら俺が傷を抉る真似はしないほうがいい。
視線を前方へ移すと、
「なんか、司先輩らしくないですね」
投げられた言葉に自身のセンサーが反応した。
「俺らしいって?」
「うーん……俺様?」
そんなことを言うのはこの口か……。
「いはいえふ(痛いです)」
思わず隣を歩く翠の両頬をつまんでいた。
「魔が差した」と言葉を吐く人間を侮蔑の目で見てきたけれど、ほんの少し気持ちがわかったような気がする。
「俺、そんなに傲慢なつもりはないけど?」
その言葉に翠はクスリ、と笑う。
「そういう物言いのほうが先輩らしくて好き」
最後の二文字に全身が反応しそうになる。けれども言った本人は気にも留めていない。
「だから性質が悪いんだ……」
「え?」
訊き返されたけど、何を答えるつもりもなかった。
「好き」なんて、サラッと言ってくれるな――
楽器店に着いた途端、翠は勝手知ったる……というように歩きだした。
真っ直ぐスペア弦の売り場に向かうと、いくつかの袋を手に取り、その隣にあった書棚に目を移す。視線を固定してから十秒後、くるりと振り返り、
「少し楽譜を見てもいいですか?」
「かまわない」
翠が手に取ったスコアはモーツァルト。ハープのスコアではなくピアノ譜。
ピアノといえば、初等部のころに習わされていた。が、やめてからは一度もピアノには向かっていない。
以前、翠の家に行ったとき、本棚にはショパンの曲集ばかりが並んでいた。
それを見て、母さんと好きな作曲家が同じだと思った記憶がある。
母さんがショパンを好きになったきっかけは、静さんの生みの親、静香さんの影響だと聞いていた。その静香さんも今は亡き人。俺は会ったことすらない。
栞さんは後妻の柊子さんと怜さんの間に生まれた子で、静さんとは腹違いの兄妹になる。
栞さんが生まれたときには静さんがすでに十五歳だったこともあり、十五歳も差があればうまくいかないなんてこともなかったようだ。
怜さんは藤倉に住んでいたものの、柊子さんが地元の方が落ち着くという理由から、幸倉に住まいを移した。
今では翠の家とは目と鼻の先、という距離に実家があるらしい。
ふと翠に意識を戻すと、スペア弦とピース売りのスコアを購入していた。
楽譜のタイトルは、ラフマニノフ嬰ハ短調プレリュード。それはいったいどんな曲なのだろう。
楽器店を出ると、西日が眩しかった。
外はまだ明るく陽射しも強い。六月とあって、あたりが暗くなるまでにはまだ時間があるようだ。
駅までの道を歩きながら、
「ピアノとハープ、どっちが好きなの?」
隣を歩く翠の顔色を気にしつつ尋ねると、
「んー……長くやっているのはピアノです。ピアノは三歳から、ハープは小学五年生のときから。どちらも好きですけど、表現しやすいのはピアノかな? 長く弾いてきた分勝手度合いが違うみたいで」
気温がそれなりに高い割に、翠は汗ひとつかいていなかった。
体温調節はできているのだろうか……。
そんなことを考えながら、以前御園生さんが話していた情報を引き出す。
「ピアノはベーゼンドルファーが好き?」
「なんで……って蒼兄しかいないですよね」
ようやく情報の一切が実の兄から漏れていることに気づいたようだ。
「当たり。うちの学校にベーゼンドルファーがあるって知った途端、あの人の目輝きだしたから」
「でも私、その話は蒼兄から聞いてなかったんです。オリエンテーションでミュージックホールを回ったときに先生の説明で知りました」
「近いうちに弾かせてもらえるよう手配する」
「え!? 本当ですか!?」
翠は歩みを止めて俺を見上げた。その目の輝きぶりが異様すぎる。
「食いつき良好すぎないか?」
「だってっ、ベーゼンドルファーですよっ!?」
翠にとってはそれくらい思い入れのあるピアノなのだろう。
「……それ、また貸しになったりしますか?」
急に仕草が小動物っぽくなる。
「さぁ、どうかな」
笑みを添えて答えてみると、それでも弾きたそうにもじもじとしていた。
ピアノはすでに手配済み。万事問題なしというメールがさっき茜先輩から届いた。
翠も、まさかピアノとの対面が明日だとは思っていないだろう。
ピアノを前にしたらどんな反応が見られるだろうか。
駅前まで戻り、コーヒー豆を買うついでに休憩を取ることにした。
具合が悪そうには見えない。けど、具合が悪くなってからでは遅い。それなら、適度に水分補給くらいはさせたほうがいい。
翠はルイボスティーをオーダーし、俺はアメリカン。
席は店内と屋外の間くらいの場所。
ここならエアコンが利きすぎて冷えることもないだろうし、外気をまともに食らうこともない。
コーヒーを一口飲み、カップをソーサーに戻す。と、翠が笑った。
「何を笑ってる?」
「先輩、いつもコーヒーを飲むときに少しだけ表情が優しくなるんです。それを見れると得した気分になれるの」
穏やかに笑って嬉しそうに話すから謎が深まる。
どうしてそんなことで得した気分になれるんだか……。
「ずいぶん安上がりだな」
それが正直な感想だった。
コーヒーを飲む間、とくに会話らしい会話はなく、翠は道を行く人を見て楽しそうにしていた。俺はそんな翠を観察していただけ。
翠はいつもカップを両手で持つ。まるで大切なものを包み込むように、掬い上げるように。
そんな仕草は「優しさ」や「慈しみ」なんて言葉を連想させる。
その華奢な手を外側から包みたい。でも、翠が求めるのは俺の手ではなく、秋兄の手なのだろう。
けれど、翠は秋兄の手を拒む……。その手に包まれることを選ばない。
そうして華奢な手を震わせるのだろうか。そして、自分の兄へと逃げ込むのだろうか。
わかることといえば、決して自分のもとに逃げ込んでくることはないということくらい――
問題なく連れ出せたとして、校内放送が聞こえるか聞こえないかのギリギリの距離かもしれない。
急いで階段を下り昇降口へ向かう。と、翠の声が聞こえてきた。
視線を先にやると、頭を抱えている翠と漣が一緒にいる。
翠と漣が知り合い……? クラスは違うはずだし、翠が守備範囲を広げたとも思えない。考えられるとしたら、漣が翠に目をつけたってところか……。
「翠、何してる? 漣も」
俺が発した言葉に顔を上げ、
「あっ! サザナミくんだっ」
翠がフルリアクションで口にした。
「あーーー、もうっ。司先輩なんで言っちゃうかなぁっ!? この人、俺の名前全然覚えてくれないんですよねっ」
こちらを振り返る漣はひどく悔しそうな顔をしていた。
状況は理解できかねるが、別に理解する必要もない。
靴に履き替え、
「もう行けるの?」
「はい、大丈夫です」
翠は笑顔で答える。
ただの返事。されど返事。
警戒されてない感じが嬉しいと思った。
「えっ!? 何? ふたり付き合ってるんですかっ!?」
「違うよ」
「えっ、じゃぁ何っ!? なんなのっ!?」
漣の問いかけに即答した翠は、「なんだろう?」という顔をして首を傾げる。
「今日は俺に付き合ってもらう約束してるだけ」
翠の代わりに返事をしたものの、漣はここぞとばかりに質問を投げかけてくる。
「それって俺が申し込んでもOKってこと!?」
「や、それは……」
詰め寄られた翠は一歩下がって困惑した顔をしていた。
……これくらい自分で断われ。嫌なら嫌だとはっきり言えばいいだけのことだ。
そうは思いつつも時間の都合上助け舟を出さずにはいられない。
「俺は翠に貸しがあってそれを返してもらうだけだ」
「……俺も結構ないかな? ほら、何度言われても名前覚えられなくてごめんなさいデートとか」
知ってはいたが、ぞんがいしつこい……。
「それは翠が悪いんじゃなくて、印象が薄い漣の問題だろ。第一、俺は一発で覚えてもらってる」
「うわっ、それ自慢ですか!? 俺だって学年ではそこそこモテんのに」
「つまり、翠の範疇外ってことじゃないの?」
漣はそこで口を噤んだ。
桜並木を歩きながら、
「あぁいうの、困るなら困るでちゃんと断わったほうがいいと思うけど?」
忠告をすると、意外な答えが返ってきた。
「えと……実はすでに一度断わっているのですが――」
……秋兄に漣――なんで面倒な人間ばかりに好かれるんだか……。
「なるほど、懲りないやつって話か。しつこいようならなんとかするけど?」
秋兄はともかく、漣くらいなら蹴散らせる。
なんとなしに言っただけだった。なのに、翠は大きく目を見開き俺を凝視している。
「何?」
「なんか優しいです」
「……何度も言うけど、俺そんなに冷血漢でも心が氷でできてるわけでもないから」
「それはわかってるつもりなんですけど……。なんだか先輩が優しいと調子狂っちゃう」
ずいぶんな言われようだ。
「……俺、翠には優しいほうだと思うけど?」
言うと、心底驚いたような顔をするからどうしてやろうかと思う。
「翠には優しい」――その言葉の意味を考えたりはしないのだろうか。
願わくば、少しくらいは考えてほしい……。
高校門を出て時間を確認すると、四時二十五分だった。あと五分もあれば公道に出る。ここまでくれば放送は聞こえないだろう。そして、四時三十五分のバスにも間に合うはずだ。
これで俺の任務は完了。
「先輩はなんの用事なんですか?」
「オーダーしていたものを取りに行く。それだけ」
「何を?」
「行けばわかる」
ケチ、と言わんばかりの顔をされても、言えるか……。
プレゼントを渡すことに抵抗はない。でも、プレゼントを取りに行くという現時点でプレゼントの話をするのには抵抗がある。この差は何か――
考えていると、隣から脈絡もない言葉を投げられた。
「先輩、写真撮ってもいいですか?」
「……却下。それ、海斗絡みか何かだろ?」
「当たり……。どうしてわかったんですか?」
「海斗の考えそうなことだから」
「……え?」
全然わからないって顔。
「翠はわからなくていい」
そうは答えたものの、少しくらい頭を使って考えろ、と思う自分もいた。
窓際に座りたいと言った翠は嬉しそうに外を眺めている。
一昨日、翠と一緒に歩いて初めて気づかされたことがあった。
ゆっくり歩くと風を感じることができるのだと……。
ほかにも空がどうとか道端のタンポポがどうとか、桜吹雪の中にいられるとか、そんなようなことを嬉しそうに話していた。
今は……? 今は窓の外の何を見てそんなに嬉しそうな顔をしている?
もしできるなら、翠の感覚で風景を見てみたいと思う。
何がどう翠の目に映っているのか、自分でも見てみたい、感じてみたい。
きっと、俺が見ている世界とは違うものを見ている気がするから。
駅に着くと、まずは翠の用事を済ませることにした。場所的にも一番遠い楽器店から行くのがいいだろう。
そのあとは姉さんに頼まれてるコーヒー豆の買出しと、最後にデパート。
時間が時間ということもあり、改札階に上がるエスカレーターは程よく混んでいた。
翠の用事はスペア弦を買うことだったか……。
ハープと言われて頭に浮かぶのは、翠の家で見たフロアハープではなく、昨日、抱きしめるようにして弾いていた小さなハープ。
状況が状況だったからかもしれないが、その記憶のほうが鮮烈だった。
「ハープ、昨日弾いてた曲の曲名は?」
「え……?」
「昨日、繰り返し同じようなフレーズ弾いてたけど……」
原曲があるなら聞いてみたいと思った。けれど、翠から返ってきた答えは、
「……ごめんなさい。私、あまりそのときのこと覚えてなくて……」
そうだった……。
今朝、翠は何事もなかったかのように栞さんの家から出てきたのだ。弾いている記憶など無に等しいのかもしれない。
「……大丈夫なの?」
雅さんの言葉にショックを受けたからあんな状態に陥ったのではないのか――
じっと翠を見つめるも、翠は要領を得ない顔をしていた。
「いや、なんでもない」
本人の意識下にないのなら俺が傷を抉る真似はしないほうがいい。
視線を前方へ移すと、
「なんか、司先輩らしくないですね」
投げられた言葉に自身のセンサーが反応した。
「俺らしいって?」
「うーん……俺様?」
そんなことを言うのはこの口か……。
「いはいえふ(痛いです)」
思わず隣を歩く翠の両頬をつまんでいた。
「魔が差した」と言葉を吐く人間を侮蔑の目で見てきたけれど、ほんの少し気持ちがわかったような気がする。
「俺、そんなに傲慢なつもりはないけど?」
その言葉に翠はクスリ、と笑う。
「そういう物言いのほうが先輩らしくて好き」
最後の二文字に全身が反応しそうになる。けれども言った本人は気にも留めていない。
「だから性質が悪いんだ……」
「え?」
訊き返されたけど、何を答えるつもりもなかった。
「好き」なんて、サラッと言ってくれるな――
楽器店に着いた途端、翠は勝手知ったる……というように歩きだした。
真っ直ぐスペア弦の売り場に向かうと、いくつかの袋を手に取り、その隣にあった書棚に目を移す。視線を固定してから十秒後、くるりと振り返り、
「少し楽譜を見てもいいですか?」
「かまわない」
翠が手に取ったスコアはモーツァルト。ハープのスコアではなくピアノ譜。
ピアノといえば、初等部のころに習わされていた。が、やめてからは一度もピアノには向かっていない。
以前、翠の家に行ったとき、本棚にはショパンの曲集ばかりが並んでいた。
それを見て、母さんと好きな作曲家が同じだと思った記憶がある。
母さんがショパンを好きになったきっかけは、静さんの生みの親、静香さんの影響だと聞いていた。その静香さんも今は亡き人。俺は会ったことすらない。
栞さんは後妻の柊子さんと怜さんの間に生まれた子で、静さんとは腹違いの兄妹になる。
栞さんが生まれたときには静さんがすでに十五歳だったこともあり、十五歳も差があればうまくいかないなんてこともなかったようだ。
怜さんは藤倉に住んでいたものの、柊子さんが地元の方が落ち着くという理由から、幸倉に住まいを移した。
今では翠の家とは目と鼻の先、という距離に実家があるらしい。
ふと翠に意識を戻すと、スペア弦とピース売りのスコアを購入していた。
楽譜のタイトルは、ラフマニノフ嬰ハ短調プレリュード。それはいったいどんな曲なのだろう。
楽器店を出ると、西日が眩しかった。
外はまだ明るく陽射しも強い。六月とあって、あたりが暗くなるまでにはまだ時間があるようだ。
駅までの道を歩きながら、
「ピアノとハープ、どっちが好きなの?」
隣を歩く翠の顔色を気にしつつ尋ねると、
「んー……長くやっているのはピアノです。ピアノは三歳から、ハープは小学五年生のときから。どちらも好きですけど、表現しやすいのはピアノかな? 長く弾いてきた分勝手度合いが違うみたいで」
気温がそれなりに高い割に、翠は汗ひとつかいていなかった。
体温調節はできているのだろうか……。
そんなことを考えながら、以前御園生さんが話していた情報を引き出す。
「ピアノはベーゼンドルファーが好き?」
「なんで……って蒼兄しかいないですよね」
ようやく情報の一切が実の兄から漏れていることに気づいたようだ。
「当たり。うちの学校にベーゼンドルファーがあるって知った途端、あの人の目輝きだしたから」
「でも私、その話は蒼兄から聞いてなかったんです。オリエンテーションでミュージックホールを回ったときに先生の説明で知りました」
「近いうちに弾かせてもらえるよう手配する」
「え!? 本当ですか!?」
翠は歩みを止めて俺を見上げた。その目の輝きぶりが異様すぎる。
「食いつき良好すぎないか?」
「だってっ、ベーゼンドルファーですよっ!?」
翠にとってはそれくらい思い入れのあるピアノなのだろう。
「……それ、また貸しになったりしますか?」
急に仕草が小動物っぽくなる。
「さぁ、どうかな」
笑みを添えて答えてみると、それでも弾きたそうにもじもじとしていた。
ピアノはすでに手配済み。万事問題なしというメールがさっき茜先輩から届いた。
翠も、まさかピアノとの対面が明日だとは思っていないだろう。
ピアノを前にしたらどんな反応が見られるだろうか。
駅前まで戻り、コーヒー豆を買うついでに休憩を取ることにした。
具合が悪そうには見えない。けど、具合が悪くなってからでは遅い。それなら、適度に水分補給くらいはさせたほうがいい。
翠はルイボスティーをオーダーし、俺はアメリカン。
席は店内と屋外の間くらいの場所。
ここならエアコンが利きすぎて冷えることもないだろうし、外気をまともに食らうこともない。
コーヒーを一口飲み、カップをソーサーに戻す。と、翠が笑った。
「何を笑ってる?」
「先輩、いつもコーヒーを飲むときに少しだけ表情が優しくなるんです。それを見れると得した気分になれるの」
穏やかに笑って嬉しそうに話すから謎が深まる。
どうしてそんなことで得した気分になれるんだか……。
「ずいぶん安上がりだな」
それが正直な感想だった。
コーヒーを飲む間、とくに会話らしい会話はなく、翠は道を行く人を見て楽しそうにしていた。俺はそんな翠を観察していただけ。
翠はいつもカップを両手で持つ。まるで大切なものを包み込むように、掬い上げるように。
そんな仕草は「優しさ」や「慈しみ」なんて言葉を連想させる。
その華奢な手を外側から包みたい。でも、翠が求めるのは俺の手ではなく、秋兄の手なのだろう。
けれど、翠は秋兄の手を拒む……。その手に包まれることを選ばない。
そうして華奢な手を震わせるのだろうか。そして、自分の兄へと逃げ込むのだろうか。
わかることといえば、決して自分のもとに逃げ込んでくることはないということくらい――
5
あなたにおすすめの小説
光のもとで2
葉野りるは
青春
一年の療養を経て高校へ入学した翠葉は「高校一年」という濃厚な時間を過ごし、
新たな気持ちで新学期を迎える。
好きな人と両思いにはなれたけれど、だからといって順風満帆にいくわけではないみたい。
少し環境が変わっただけで会う機会は減ってしまったし、気持ちがすれ違うことも多々。
それでも、同じ時間を過ごし共に歩めることに感謝を……。
この世界には当たり前のことなどひとつもなく、あるのは光のような奇跡だけだから。
何か問題が起きたとしても、一つひとつ乗り越えて行きたい――
(10万文字を一冊として、文庫本10冊ほどの長さです)
キャバ嬢(ハイスペック)との同棲が、僕の高校生活を色々と変えていく。
たかなしポン太
青春
僕のアパートの前で、巨乳美人のお姉さんが倒れていた。
助けたそのお姉さんは一流大卒だが内定取り消しとなり、就職浪人中のキャバ嬢だった。
でもまさかそのお姉さんと、同棲することになるとは…。
「今日のパンツってどんなんだっけ? ああ、これか。」
「ちょっと、確認しなくていいですから!」
「これ、可愛いでしょ? 色違いでピンクもあるんだけどね。綿なんだけど生地がサラサラで、この上の部分のリボンが」
「もういいです! いいですから、パンツの説明は!」
天然高学歴キャバ嬢と、心優しいDT高校生。
異色の2人が繰り広げる、水色パンツから始まる日常系ラブコメディー!
※小説家になろうとカクヨムにも同時掲載中です。
※本作品はフィクションであり、実在の人物や団体、製品とは一切関係ありません。
みんなの女神サマは最強ヤンキーに甘く壊される
けるたん
青春
「ほんと胸がニセモノで良かったな。貧乳バンザイ!」
「離して洋子! じゃなきゃあのバカの頭をかち割れないっ!」
「お、落ちついてメイちゃんっ!? そんなバットで殴ったら死んじゃう!? オオカミくんが死んじゃうよ!?」
県立森実高校には2人の美の「女神」がいる。
頭脳明晰、容姿端麗、誰に対しても優しい聖女のような性格に、誰もが憧れる生徒会長と、天は二物を与えずという言葉に真正面から喧嘩を売って完膚なきまでに完勝している完全無敵の双子姉妹。
その名も『古羊姉妹』
本来であれば彼女の視界にすら入らないはずの少年Bである大神士狼のようなロマンティックゲス野郎とは、縁もゆかりもない女の子のはずだった。
――士狼が彼女たちを不審者から助ける、その日までは。
そして『その日』は突然やってきた。
ある日、夜遊びで帰りが遅くなった士狼が急いで家へ帰ろうとすると、古羊姉妹がナイフを持った不審者に襲われている場面に遭遇したのだ。
助け出そうと駆け出すも、古羊姉妹の妹君である『古羊洋子』は助けることに成功したが、姉君であり『古羊芽衣』は不審者に胸元をザックリ斬りつけられてしまう。
何とか不審者を撃退し、急いで応急処置をしようと士狼は芽衣の身体を抱き上げた……その時だった!
――彼女の胸元から冗談みたいにバカデカい胸パッドが転げ落ちたのは。
そう、彼女は嘘で塗り固められた虚乳(きょにゅう)の持ち主だったのだ!
意識を取り戻した芽衣(Aカップ)は【乙女の秘密】を知られたことに発狂し、士狼を亡き者にするべく、その場で士狼に襲い掛かる。
士狼は洋子の協力もあり、何とか逃げることには成功するが翌日、芽衣の策略にハマり生徒会に強制入部させられる事に。
こうして古羊芽衣の無理難題を解決する大神士狼の受難の日々が始まった。
が、この時の古羊姉妹はまだ知らなかったのだ。
彼の蜂蜜のように甘い優しさが自分たち姉妹をどんどん狂わせていくことに。
※【カクヨム】にて編掲載中。【ネオページ】にて序盤のみお試し掲載中。【Nolaノベル】【Tales】にて完全版を公開中。
イラスト担当:さんさん
静かに過ごしたい冬馬君が学園のマドンナに好かれてしまった件について
おとら@ 書籍発売中
青春
この物語は、とある理由から目立ちたくないぼっちの少年の成長物語である
そんなある日、少年は不良に絡まれている女子を助けてしまったが……。
なんと、彼女は学園のマドンナだった……!
こうして平穏に過ごしたい少年の生活は一変することになる。
彼女を避けていたが、度々遭遇してしまう。
そんな中、少年は次第に彼女に惹かれていく……。
そして助けられた少女もまた……。
二人の青春、そして成長物語をご覧ください。
※中盤から甘々にご注意を。
※性描写ありは保険です。
他サイトにも掲載しております。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
学校一の美人から恋人にならないと迷惑系Vtuberになると脅された。俺を切り捨てた幼馴染を確実に見返せるけど……迷惑系Vtuberて何それ?
宇多田真紀
青春
学校一の美人、姫川菜乃。
栗色でゆるふわな髪に整った目鼻立ち、声質は少し強いのに優し気な雰囲気の女子だ。
その彼女に脅された。
「恋人にならないと、迷惑系Vtuberになるわよ?」
今日は、大好きな幼馴染みから彼氏ができたと知らされて、心底落ち込んでいた。
でもこれで、確実に幼馴染みを見返すことができる!
しかしだ。迷惑系Vtuberってなんだ??
訳が分からない……。それ、俺困るの?
幼馴染が家出したので、僕と同居生活することになったのだが。
四乃森ゆいな
青春
とある事情で一人暮らしをしている僕──和泉湊はある日、幼馴染でクラスメイト、更には『女神様』と崇められている美少女、真城美桜を拾うことに……?
どうやら何か事情があるらしく、頑なに喋ろうとしない美桜。普段は無愛想で、人との距離感が異常に遠い彼女だが、何故か僕にだけは世話焼きになり……挙句には、
「私と同棲してください!」
「要求が増えてますよ!」
意味のわからない同棲宣言をされてしまう。
とりあえず同居するという形で、居候することになった美桜は、家事から僕の宿題を見たりと、高校生らしい生活をしていくこととなる。
中学生の頃から疎遠気味だったために、空いていた互いの時間が徐々に埋まっていき、お互いに知らない自分を曝け出していく中──女神様は何でもない『日常』を、僕の隣で歩んでいく。
無愛想だけど僕にだけ本性をみせる女神様 × ワケあり陰キャぼっちの幼馴染が送る、半同棲な同居生活ラブコメ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる