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32 Side 蒼樹 02話
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シャワーを浴びて用意を済ませると、一度翠葉の部屋へ立ち寄った。
「寝てるよ」
小さな声で唯が教えてくれる。
天蓋の中には寝ているはずなのに、肩で息をしているように見える翠葉がいた。
「じゃ、行ってくる」
部屋を出てドアを閉める。その行動にも慣れはしたけど、未だに違和感がある。
あれほど部屋のドアを閉められることを嫌がっていたのに……。
閉めたドアを見つつ、玄関へ続く廊下を歩いた。玄関を開けると、家の前に先輩の車が停まったところだった。
玄関のドアにはドアストッパーを噛ませて階段を下りる。車から出てきた先輩はいつもと変わらないように見えたけど、見えただけだった。
「翠葉ちゃんはっ!?」
肩を掴まれて尋ねられる。
「今、寝てます」
「そうか……」
「すみません、お手数をかけて……。本当なら俺たちが病院へ連れて行くなり、強制的にでも入院させなくちゃいけないんですけど……」
「いや、全然迷惑だなんて思ってないから」
「……翠葉はまだ先輩のことを好きだと思います。もしかしたら先輩の言葉なら聞いてくれるかもしれない。でも――」
今の翠葉は普通じゃない。
「……でも?」
先輩は訝しげに訊いてくる。
「なんて言ったらいいか――」
言葉にならない。
「俺や唯、栞さんですら容易に近寄れる状態じゃないんです。ことごとく拒絶される」
「……拒絶?」
「ものを食べられる状態じゃないのはわかってるんです。それでも何か口にしてほしくて、それを強要しようとすると閉め出される」
もう苦笑しかできない。情けなさすぎる――
「栞ちゃんでも……?」
「栞さんはちょっと別かもしれません。栞さん自身が身を引いた感じです。無理に近寄ると危ない気がするって……。看護師の勘だって言ってました」
「湊ちゃんは……?」
「湊さんは入っていきますよ。話しかけもする。説得をしようと一番がんばってくれているのは湊さんです……。俺たちにはあまり入院の話はするなって言ってくれて、その話は一手に湊さんが引き受けてくれていました。たぶん、今後の家族関係を考えてくれてのことだとは思うんですけど……」
それでも――
「その湊さんですら、最近はお手上げなんです。部屋に入っても存在自体を無視されるって言ってました」
「……なんだかすごいことになってるな」
先輩は無理に笑みを作った。
きっと信じられないのだろう。でも、あの翠葉を目の当たりにすれば理解してもらえると思う。
その前に、前置きはしたほうがいい――
「先輩も、少しでも違和感を覚えたらそれ以上は近づかないほうがいいです」
「わかった……」
玄関のドアは俺が開けた。ドアチャイムが鳴らないように開けることにも慣れてしまった。
車に乗り込み助手席のシートを直す。ここのところ、助手席のシートは倒したままになっていた。
助手席を見ては桃華を思い出す。
「最近、連絡できてないな……」
桃華から連絡がくることはあまりない。時々メールが来るくらい。
高校生にしては結構ドライな感じ。……ドライというか、これはきっと桃華の気遣いなのだろう。
先日、佐野くんと一緒に家の前まできたとき、あのときにどれだけひどい状況なのか、それを察したのだ。
桃華は年にそぐわないほど気が回る。
――桃華の声が聞きたい。会いたい……。
そのとき、携帯が震えた。
メールではなく電話……。
ディスプレイに表示された名前に呆然として、慌てて通話ボタンを押す。
「桃華っ!?」
『……蒼樹さん、どうかしました?』
あれ……?
「電話をかけてきたのは桃華だけど……」
『えぇ、そうなんですけど。なんかすごい勢いで電話に出たので』
「あ……悪い。桃華の声が聞きたくて、会いたいって思ってたら桃華から電話がかかってきたからびっくりしてつい……」
『あら、以心伝心ですか? 嬉しいですね」
携帯越しに愛しい声が聞こえる。
「これから少し会えないかな……。今はまだ幸倉で、これからマンションに向かうんだけど……」
『はい、大丈夫です。三十分くらいですかね?』
クスクスと笑いがながらの返事。
「たぶん、そのくらい……あ、でも、会う時間はそんなになくて――」
瞬時に悩んだ。
「桃華……マンションに母親がいるんだ。それで……もし良かったら、一緒に来てもらえないかな」
『えぇ……一度お会いしたことがありますからかまいませんけど』
「そうなの?」
会ったことがあるというのは初耳。
『保健室で藤宮司と一緒に挨拶程度ですが、お会いしてます』
「そっか……」
『でも、おば様に私たちのことはお話されてるんですか?』
「いや、まだ……。ちょっとそれどころじゃなくて」
『わかりました。ではそのようにしましょう』
「……あのさ、もしかしたらものすごく精神状態が悪いかもしれなくて、こっちに連れて戻れるかもわからないんだ。今、ひとりでいるのかもわからなくて……」
『おば様、ご飯は召し上がられていますか?』
「それもわからない……」
『わかりました。何か消化のいいものを作れるように材料を買っておきます。マンションのエントランスで待ってます』
「いや、迎えに行くから家にいて? 買出しは一緒に行こう」
『わかりました。じゃ、気をつけて運転してきてくださいね』
「……桃華、ありがとう」
『いえ、ではまたあとで』
そう言うと通話が切れた。
ガサガサに乾燥してしまった心が、一瞬にして潤った気がした。
「……桃華を好きになって良かった」
車のエンジンをかけ、カーポートから出る。
道はさほど混んでおらず、安全運転での走行にも関わらず、二十分ほどで桃華の家に着いた。
携帯で着いたことを告げると、五分ほどして通用門から桃華が出てくる。
「お待たせしました」
「そんなことないよ。こっちこそ急に悪い……」
「いいえ……。少しでも役に立てるなら嬉しいです。それに、不謹慎ですが、会えて嬉しいです」
はにかみながら言われて、急に思い立つ。キスがしたい、と……。
「桃華……キス、したことある?」
「なっ、ないですっっっ」
いつになく慌てる彼女がかわいかった。
「……嫌、かな」
彼女の目を見ると、一瞬見開いた目が一気に細まった。
「嫌なわけないじゃないですか」
とても嬉しそうに、恥ずかしそうに笑った。
自分のシートベルトを外し、すぐに彼女の唇に自分のそれを重ねた。
優しく……優しく、重ねるだけのキス。それで十分だった。
そのまま桃華を抱きしめると、
「蒼樹さん……。ファーストキスの相手が蒼樹さんで嬉しい……」
消え入りそうな声が耳元に届いた。
「俺も……。ここに桃華がいてくれてすごく嬉しい……」
つい、抱きしめる腕に力が入る。すると、彼女の腕が背中に回された。
背中をさすられたことに意表をつかれる。
「ずっとつらそうだったから……。何かできないかと考えていたんです」
「え……」
「あら、自覚なしですか?」
桃華はクスクスと笑って話を続ける。
「大学のカフェで会うとき、いつもすごく疲れた顔をしていたから……」
反論の余地なし……。俺、なんて情けない男なんだろう。
「何も話してくれないし、訊いていいのかもわからなかったし、頼ってくれたら嬉しいけど、何せ私は年下ですからね……。男の人のプライドもあるのかな、って本当に色々考えてしまって……」
「……頼ってほしい……?」
腕を緩めて桃華の顔を覗き込むと、
「それはもちろん」
当然といった顔をする。
「別に弱みを握るというわけじゃないですよ?」
桃華はどこかいたずらっぽく笑みを浮かべる。
「好きな人には頼ってもらえたら嬉しいと思いませんか? それは男女問わず、年齢問わず」
そっか……そういうことだったのか。
「そうなのかもしれない……」
翠葉も同じだったのかもしれない。いつも自分ばかりが助けられていて、自分は何も返せていないっていうのはそういうことだったのか? 自分が頼られることはないから……?
頼られる対象に自分がなることはないと思ってるから、いつだって人の手を借りるたびに引け目を感じていたのだろうか。
俺たちは、少しでも翠葉の負担にならないように、とただそれだけを考えてきたけど、それがいけなかったのか……?
「蒼樹さん?」
「あ、ごめん……。少し、翠葉のことを勘違いしてたのがわかった気がして……」
車を発進させると、母さんのことを少しずつ話した。
数年前――翠葉の体調のことで気を病み、精神科にかかるほどの鬱状態だったことを。
気丈に振舞っていても、実はそんなに強い人間ではないこと。翠葉のことでは家族の中で一番ダメージを受ける人であること。
翠葉の負担を増やしたくないから現場に戻した。それは嘘じゃない。けれどもうひとつ……。
母さん自身の精神状態を維持させるためにも、翠葉に付きっ切りになるのは良くないと思ったから。それは父さんも同意見だった。
うちは色んな意味で家族事情が入り組んでいると思う。
病人を抱えている家の特殊な事情を。
何を基準に「普通」というのかはわからない。でも、普通の家――みんなが健康であり、病人がいたとしても病名や原因がはっきりとわかっている家。そういった家の人たちには理解してもらえない、そういう事情がうちにはある。
いつか順を追って桃華に話したい。桃華にはわかってもらいたいと思うから――
「寝てるよ」
小さな声で唯が教えてくれる。
天蓋の中には寝ているはずなのに、肩で息をしているように見える翠葉がいた。
「じゃ、行ってくる」
部屋を出てドアを閉める。その行動にも慣れはしたけど、未だに違和感がある。
あれほど部屋のドアを閉められることを嫌がっていたのに……。
閉めたドアを見つつ、玄関へ続く廊下を歩いた。玄関を開けると、家の前に先輩の車が停まったところだった。
玄関のドアにはドアストッパーを噛ませて階段を下りる。車から出てきた先輩はいつもと変わらないように見えたけど、見えただけだった。
「翠葉ちゃんはっ!?」
肩を掴まれて尋ねられる。
「今、寝てます」
「そうか……」
「すみません、お手数をかけて……。本当なら俺たちが病院へ連れて行くなり、強制的にでも入院させなくちゃいけないんですけど……」
「いや、全然迷惑だなんて思ってないから」
「……翠葉はまだ先輩のことを好きだと思います。もしかしたら先輩の言葉なら聞いてくれるかもしれない。でも――」
今の翠葉は普通じゃない。
「……でも?」
先輩は訝しげに訊いてくる。
「なんて言ったらいいか――」
言葉にならない。
「俺や唯、栞さんですら容易に近寄れる状態じゃないんです。ことごとく拒絶される」
「……拒絶?」
「ものを食べられる状態じゃないのはわかってるんです。それでも何か口にしてほしくて、それを強要しようとすると閉め出される」
もう苦笑しかできない。情けなさすぎる――
「栞ちゃんでも……?」
「栞さんはちょっと別かもしれません。栞さん自身が身を引いた感じです。無理に近寄ると危ない気がするって……。看護師の勘だって言ってました」
「湊ちゃんは……?」
「湊さんは入っていきますよ。話しかけもする。説得をしようと一番がんばってくれているのは湊さんです……。俺たちにはあまり入院の話はするなって言ってくれて、その話は一手に湊さんが引き受けてくれていました。たぶん、今後の家族関係を考えてくれてのことだとは思うんですけど……」
それでも――
「その湊さんですら、最近はお手上げなんです。部屋に入っても存在自体を無視されるって言ってました」
「……なんだかすごいことになってるな」
先輩は無理に笑みを作った。
きっと信じられないのだろう。でも、あの翠葉を目の当たりにすれば理解してもらえると思う。
その前に、前置きはしたほうがいい――
「先輩も、少しでも違和感を覚えたらそれ以上は近づかないほうがいいです」
「わかった……」
玄関のドアは俺が開けた。ドアチャイムが鳴らないように開けることにも慣れてしまった。
車に乗り込み助手席のシートを直す。ここのところ、助手席のシートは倒したままになっていた。
助手席を見ては桃華を思い出す。
「最近、連絡できてないな……」
桃華から連絡がくることはあまりない。時々メールが来るくらい。
高校生にしては結構ドライな感じ。……ドライというか、これはきっと桃華の気遣いなのだろう。
先日、佐野くんと一緒に家の前まできたとき、あのときにどれだけひどい状況なのか、それを察したのだ。
桃華は年にそぐわないほど気が回る。
――桃華の声が聞きたい。会いたい……。
そのとき、携帯が震えた。
メールではなく電話……。
ディスプレイに表示された名前に呆然として、慌てて通話ボタンを押す。
「桃華っ!?」
『……蒼樹さん、どうかしました?』
あれ……?
「電話をかけてきたのは桃華だけど……」
『えぇ、そうなんですけど。なんかすごい勢いで電話に出たので』
「あ……悪い。桃華の声が聞きたくて、会いたいって思ってたら桃華から電話がかかってきたからびっくりしてつい……」
『あら、以心伝心ですか? 嬉しいですね」
携帯越しに愛しい声が聞こえる。
「これから少し会えないかな……。今はまだ幸倉で、これからマンションに向かうんだけど……」
『はい、大丈夫です。三十分くらいですかね?』
クスクスと笑いがながらの返事。
「たぶん、そのくらい……あ、でも、会う時間はそんなになくて――」
瞬時に悩んだ。
「桃華……マンションに母親がいるんだ。それで……もし良かったら、一緒に来てもらえないかな」
『えぇ……一度お会いしたことがありますからかまいませんけど』
「そうなの?」
会ったことがあるというのは初耳。
『保健室で藤宮司と一緒に挨拶程度ですが、お会いしてます』
「そっか……」
『でも、おば様に私たちのことはお話されてるんですか?』
「いや、まだ……。ちょっとそれどころじゃなくて」
『わかりました。ではそのようにしましょう』
「……あのさ、もしかしたらものすごく精神状態が悪いかもしれなくて、こっちに連れて戻れるかもわからないんだ。今、ひとりでいるのかもわからなくて……」
『おば様、ご飯は召し上がられていますか?』
「それもわからない……」
『わかりました。何か消化のいいものを作れるように材料を買っておきます。マンションのエントランスで待ってます』
「いや、迎えに行くから家にいて? 買出しは一緒に行こう」
『わかりました。じゃ、気をつけて運転してきてくださいね』
「……桃華、ありがとう」
『いえ、ではまたあとで』
そう言うと通話が切れた。
ガサガサに乾燥してしまった心が、一瞬にして潤った気がした。
「……桃華を好きになって良かった」
車のエンジンをかけ、カーポートから出る。
道はさほど混んでおらず、安全運転での走行にも関わらず、二十分ほどで桃華の家に着いた。
携帯で着いたことを告げると、五分ほどして通用門から桃華が出てくる。
「お待たせしました」
「そんなことないよ。こっちこそ急に悪い……」
「いいえ……。少しでも役に立てるなら嬉しいです。それに、不謹慎ですが、会えて嬉しいです」
はにかみながら言われて、急に思い立つ。キスがしたい、と……。
「桃華……キス、したことある?」
「なっ、ないですっっっ」
いつになく慌てる彼女がかわいかった。
「……嫌、かな」
彼女の目を見ると、一瞬見開いた目が一気に細まった。
「嫌なわけないじゃないですか」
とても嬉しそうに、恥ずかしそうに笑った。
自分のシートベルトを外し、すぐに彼女の唇に自分のそれを重ねた。
優しく……優しく、重ねるだけのキス。それで十分だった。
そのまま桃華を抱きしめると、
「蒼樹さん……。ファーストキスの相手が蒼樹さんで嬉しい……」
消え入りそうな声が耳元に届いた。
「俺も……。ここに桃華がいてくれてすごく嬉しい……」
つい、抱きしめる腕に力が入る。すると、彼女の腕が背中に回された。
背中をさすられたことに意表をつかれる。
「ずっとつらそうだったから……。何かできないかと考えていたんです」
「え……」
「あら、自覚なしですか?」
桃華はクスクスと笑って話を続ける。
「大学のカフェで会うとき、いつもすごく疲れた顔をしていたから……」
反論の余地なし……。俺、なんて情けない男なんだろう。
「何も話してくれないし、訊いていいのかもわからなかったし、頼ってくれたら嬉しいけど、何せ私は年下ですからね……。男の人のプライドもあるのかな、って本当に色々考えてしまって……」
「……頼ってほしい……?」
腕を緩めて桃華の顔を覗き込むと、
「それはもちろん」
当然といった顔をする。
「別に弱みを握るというわけじゃないですよ?」
桃華はどこかいたずらっぽく笑みを浮かべる。
「好きな人には頼ってもらえたら嬉しいと思いませんか? それは男女問わず、年齢問わず」
そっか……そういうことだったのか。
「そうなのかもしれない……」
翠葉も同じだったのかもしれない。いつも自分ばかりが助けられていて、自分は何も返せていないっていうのはそういうことだったのか? 自分が頼られることはないから……?
頼られる対象に自分がなることはないと思ってるから、いつだって人の手を借りるたびに引け目を感じていたのだろうか。
俺たちは、少しでも翠葉の負担にならないように、とただそれだけを考えてきたけど、それがいけなかったのか……?
「蒼樹さん?」
「あ、ごめん……。少し、翠葉のことを勘違いしてたのがわかった気がして……」
車を発進させると、母さんのことを少しずつ話した。
数年前――翠葉の体調のことで気を病み、精神科にかかるほどの鬱状態だったことを。
気丈に振舞っていても、実はそんなに強い人間ではないこと。翠葉のことでは家族の中で一番ダメージを受ける人であること。
翠葉の負担を増やしたくないから現場に戻した。それは嘘じゃない。けれどもうひとつ……。
母さん自身の精神状態を維持させるためにも、翠葉に付きっ切りになるのは良くないと思ったから。それは父さんも同意見だった。
うちは色んな意味で家族事情が入り組んでいると思う。
病人を抱えている家の特殊な事情を。
何を基準に「普通」というのかはわからない。でも、普通の家――みんなが健康であり、病人がいたとしても病名や原因がはっきりとわかっている家。そういった家の人たちには理解してもらえない、そういう事情がうちにはある。
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