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番外編
初めての子育て Side 涼 01話
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休日の今日、俺は淹れたてのコーヒーを飲みながら、リビングの窓から庭の景色を眺めていた。
庭には妻が精魂こめて育てた花々、または草木がバランスよく配置されており、旬を迎える花たちが見事に咲き誇っている。
しかし、そこに彼女の姿はない。家の中にもない。つまりは不在――。
彼女は今日、「藤宮」とゆかりある家が主催する「茶会」へ出席している。
藤宮家の長女である彼女には、「金持ちの道楽」的会合に出席する「役目」があったが、妊娠発覚を機に、それらの一切を欠席してきたのだ。
この「余暇」はもう少し続くはずだったわけだが、それまで使ってきた「盾」が崩れ、今までの理由では欠席できなくなってしまった。
どういうことか調べてみたところ、実母や夫である自分に娘を預けられる状態になった、という情報が流出したらしく、突如として彼女のもとに招待状が届き始めたのだ。
招待状の中身は、どれもが茶会やパーティー、晩餐会への誘い。
そんなもの、どうとでも蹴散らすことはできたが、彼女はそれをよしとはしなかった。
いずれは復帰しなくてはいけないものであり、これは自分の役目だから、と。
そんなわけで、心構えもできていないうちにやってきた社会復帰一日目、それが今日だった。
茶会でどんなことが話題になるのか――。
「少し考えただけでもうんざりだ……」
彼女が妊娠したときや、長女の湊が産まれたという情報か出回ったときも、「ご懐妊のお祝いを」やら、「お子様ご誕生のお祝いをさせてください」だのなんだのと、自宅を訪問しようとする人間か多くいた。
それらひとつひとつ丁重にお引き取り願うことが自分にできる唯一の役割だったわけだが、そんな輩は「どこから湧いてくるのか」と思うほどに後を絶たず、げんなりしているところへ義父の鶴の一声が発せられ、その後一切の申し出がなくなり平和な日常を取り戻せた。
ため息交じりに、
「私ももう少し研鑽を積むなり経験を重ねねばならないようですね。こんなことでお義父さんのお手を煩わせるのは申し訳ないですし、お義父さんに『それまでの人間』と鼻で笑われるのも不本意ですので……」
自分の言葉を彼女はくすくすと笑ってから、眉毛をハの字にしてこう言った。
「なんだか、本当に面倒な家で申し訳ないです……。でも、あの方々とのお茶会は本当に苦手で……。だから、束の間の休息であれど、こんなに長期間お休みさせていただけるのはとても嬉しいです。そう思えば、湊ちゃんと涼さん、お父様には感謝しかありません。それに、あの父がこんなことで涼さんの評価を落とすとは思えません」
最後の一言は朗々と響き、自分が惚れ込んだ表情で見上げてくる。
色素の薄い彼女の瞳は透き通った琥珀のようで、澄み切った美しい目を細めては、桜色をした上品な口元に笑みを浮かべるのだ。
「どうしてそう言い切れるのですか?」
「私、家族以上に心を許し、お慕いするのは涼さんしかいませんもの」
「それは真白さんの考えや気持ちであり、お義父さんの判断には関係ないのでは……?」
彼女はクスリと声を立てて笑い、
「父は見込みある人間と判断しない限り、私との結婚を許したりはいたしません」
「……ですが、見込み違いということもあるでしょう?」
彼女はツボにはまったように笑いだした。
目尻に涙を滲ませ笑っている彼女は発作的な笑いが治まってから、
「涼さんは本当に規格外な方ですね」
「……意味がわかりかねるのですが」
「自分で言うのもおかしな話なのですが、私の父ですよ? 藤宮財閥会長、藤宮元ですよ? その父に向かって、『見誤る』とか、『見込み違いがあるかも』なんておっしゃる方、そうそういらっしゃらないんですからね?」
あぁ、そういう意味か……。
「規格外な人間」という言葉の意味に納得していると、
「涼さんは五月にある藤宮の茶会『藤の会』で、父から『お役目』任せられていますでしょう?」
「えぇ……」
あぁ、あのよくわからない面倒なやつ――と思っていると、彼女はにこりと笑って自分の腕に手を添えた。
「その時点で、涼さんは父の内側にいらっしゃるのです」
「うち、がわ……?」
「はい。『内側』です」
「『内側』とはどいう意味ですか?」
「そうですね……。わかりやすく言うなら『懐』、でしょうか? 父はほんの少しでも危険因子を内包する人間は自分の側には置きませんし、懐になど絶対に入れません。ですが涼さんは、『藤の会』で『お役目』を任せられています。つまり、すでに父の懐にいらっしゃる。そういう意味です」
藤宮が催す茶会やパーティーは多々あるものの、「藤の会」だけは催し方がほかのものとは根本的に異なる、と結婚してすぐに彼女から教えられた。
――「藤の会で使う茶道具は、代々使われ来たものを使用するのですが、それらは普段屋敷内にある『蔵』で保管されています。蔵で保管しているのは茶道具一式――茶碗、歴代の棗、茶筅、水差し、風炉用柄杓、茶釜。袱紗と扇子、懐紙は毎年会長が新しいものを用意するのですが、それらは各茶席の亭主に配布され、藤の会で亭主を務めた記念として贈られます。そのほか、劣化して使えなくなった茶筅も何もかもが、すべてきれいに保管されております。……そうですね、ちょっとした博物館のようなお部屋のことを『蔵』と呼んでいる感じです。茶碗は日常的に使われているものではなく、藤の会のためだけに作られたものを使用します。通常、濃茶には文様のない茶碗を、薄茶には文様のある茶碗を用意するのが一般的ですが、うちでは薄色から濃色のグラデーションが美しい茶碗を、濃茶薄茶のどちらにも使用します。そしてそれらが保管されている蔵の『入口』が父の私室――つまりはその時の会長の私室にあるため、私室にも蔵へも、会長が信用している人間しか立ち入ることを許されておりません。その時の会長によっては人出が足りないこともあるのですが、だからといって、住み込みの使用人を重用することはないそうです。そこに立ち入れるのは会長の側近か、会長と同じ部屋にいることを許されている警護班数名。次期会長のほか、副会長であったり、会長が個人的に気に入っている社員ということもありますね。そのほかですと、会長直系の親族だけは、会長が共に入ることを条件に、入室を許可されております。蔵には藤宮の家系図やご先祖様にまつわるものが保管されていて、藤姫神社で保管するには手に余るものなども、こちらに保管されています。そして、家系図に婚姻や離縁、出生を書き足すのも、故人へ印をつけるのも、この時のみと決まっているそうです」。
共に暮らすようになってから割とすぐ、「少しお時間をいただけますか?」と前置きをされ、ゆっくりと時間をかけて教えられたことを思い出す。
「すみません、失念しておりました……」
「涼さんにしては珍しいですね」
彼女は肩を揺らしてクスクスと笑う。
「涼さんのお役目は父の『側仕え』です。今までは、普段『側近』を務められている荒城さんのお役目でしたが、私が涼さんと結婚した際に、父はそのお役目を涼さんへ移しましたよね?」
「えぇ……。右も左もわからない中、突如『御触れ』のようなものが発令された感じで、その役目を受ける受けないの選択肢すらなかったことだけはよおく覚えております」
彼女は苦々しく笑いながら、
「……大変申し訳ないのですが、『藤の会』にまつわる『お役目』は、会長からの完全指名制で、指名された側に拒否権はないんです……。ですので、藤宮の親戚縁者はそれだけで理解します。私の夫となる方が、父の懐刀になる人間なのだ、と」
自分の理解がようやく追い付いたわけだが、そんな重要なポジションに就かせるのであれば、「あらかじめ話しておけ、狸じじー」と思う。
「ですから、涼さんはすでに父の内側にいて、今更評価が下がるどうのというフィールドにはいらっしゃらないのです。ご理解いただけましたか?」
そう言って満面の笑みで見上げてきた最愛の妻が、今日はいない。
「さて、身内しか知り得ないような情報を、いったいどんな人間が外へ漏らすのか……」
自分からしてみれば、「とんだ命知らずが」といったところだ。
使用人の誰かが金で買われているのか……。
だが、そんなことを見逃すような義父ではない。
最近本家のお手伝いさんが辞めただの、新しい人間が入ったという話は聞かない。そこからすると、情報を外へ漏らしたのは親族の誰か――。
「バカだな……」
親族とはいえ、あの義父が溺愛している娘にとって不利になることを口外する輩を見逃すわけがないのに。
必ずどこかで制裁を受けることになる。
こんなこと、外から入ってきたばかりの自分ですらわかるのに、なぜ親族がわからないのか……。
「頭に虫でもわいているのか……?」
不意に思い浮かんだ人間の頭に、リアルな虫がわいている様を想像し、咄嗟に庭の花へ視線を移す。と、意識は自然と彼女へ向いた。
きっと、数多のご婦人たちからご機嫌をとられ、彼女はそれらにつつがなく応対し、自分や娘、家族へ向けるそれとは異なる、少しぎこちない笑みを浮かべていることだろう。しかしその、「ぎこちなさ」に気付ける者はその場にはいない。
いるとしたら、彼女付の警護班筆頭、
「藤堂さんくらいなものだな――」
婚約してからというもの、彼女が赴くパーティーには何度となく同行してきたが、彼女が心からの笑顔を見せることはなく、エスコートの際に握った手は異常なまでに冷たくなっていた。
彼女の手はいつだって冷たい。しかし、それを上回る冷たさだったのだ。なのに、手のひらにかく汗は尋常ではなく――。
それを気にしてのことだろう。
あらかじめ用意していたらしき小さ目のハンカチを手と手の間に挟もうとするから、
「その必要はないでしょう? 私はあなたの夫になる人間ですよ?」
そう言ってハンカチを取り上げると、彼女と数秒目が合い、ほのかではあるものの、「温度」を感じることができた気がした。
けれどそれも束の間――。
初めて出席するパーティーで自分が彼女をフォローするのは無謀に等しく、これは早期に彼女が出席するパーティーや会合、茶会へ参加されるご婦人方の顔と名前、職業、性格等を網羅する必要があると感じた。
彼女のもとへ挨拶にくる人間のデータを片っ端から頭に入れていると、彼女の異変に気付く。
少し前までは毅然と顔を上げ、会場にいる人間の把握に努め、対面する相手と視線を合わせて話をしていたのに対し、今は見てわかる程度には伏し目がち。なのに表情は常に穏やかな笑みを湛えている。
容姿や肌の色からフランス人形を彷彿とさせたが、人形どうこう以前に人のぬくもりを感じることができない「何か」だった。
完璧に感情を押し殺している様子に危機感を覚え、
「真白さん?」
静かに名前を呼ぶと、はっとした様子で隣に立つ自分を見上げては、「ごめんなさい」と唇が言葉を象る。
今にも泣き出しそうな、涙が零れるのを必死で堪えている様を見て、すぐに会場を出ようと思った。
ホテルの一室をとれればいいが、この際ロビーでもスタッフルームでもかまわない。とにかく休ませなければ――。
そう思うのに、出入口へ向かう際にも人は構わず声をかけてくる。
イラつきを抑えながら振り返ると、そこには藤堂さんが立っていた。そして、その後ろでは別の警護班の人間が声をかけてきた人間の対応に当たっている。
「芹沢様、場外まで誘導いたしますので、会場をお出になるまでは真白様を抱え上げないように」
「っ……!?」
「お気持ちはお察しいたします。ですが、真白様はまだご自分のお力で立っておられます。ご自分で歩こうとなさっておられます。そういったがんばりは、あなたの行動ひとつで水の泡になります」
返答は要らないとでも言うように、彼は自分たちの前を歩き始めた。そして、自分にしか聞えない声量で、
「ホテルの上階に一室押さえてあります。そちらで真白様を休ませて差し上げてください。真白様が普段から服用なさっているお薬は、すべてその部屋にご用意しております」
「結構。自分は彼女の主治医でもありますので、そのあたりは心得ております」
彼は浅く頷き、人の間を縫うようにして進み、速やかに自分たちを会場の外へ案内してみせた。
庭には妻が精魂こめて育てた花々、または草木がバランスよく配置されており、旬を迎える花たちが見事に咲き誇っている。
しかし、そこに彼女の姿はない。家の中にもない。つまりは不在――。
彼女は今日、「藤宮」とゆかりある家が主催する「茶会」へ出席している。
藤宮家の長女である彼女には、「金持ちの道楽」的会合に出席する「役目」があったが、妊娠発覚を機に、それらの一切を欠席してきたのだ。
この「余暇」はもう少し続くはずだったわけだが、それまで使ってきた「盾」が崩れ、今までの理由では欠席できなくなってしまった。
どういうことか調べてみたところ、実母や夫である自分に娘を預けられる状態になった、という情報が流出したらしく、突如として彼女のもとに招待状が届き始めたのだ。
招待状の中身は、どれもが茶会やパーティー、晩餐会への誘い。
そんなもの、どうとでも蹴散らすことはできたが、彼女はそれをよしとはしなかった。
いずれは復帰しなくてはいけないものであり、これは自分の役目だから、と。
そんなわけで、心構えもできていないうちにやってきた社会復帰一日目、それが今日だった。
茶会でどんなことが話題になるのか――。
「少し考えただけでもうんざりだ……」
彼女が妊娠したときや、長女の湊が産まれたという情報か出回ったときも、「ご懐妊のお祝いを」やら、「お子様ご誕生のお祝いをさせてください」だのなんだのと、自宅を訪問しようとする人間か多くいた。
それらひとつひとつ丁重にお引き取り願うことが自分にできる唯一の役割だったわけだが、そんな輩は「どこから湧いてくるのか」と思うほどに後を絶たず、げんなりしているところへ義父の鶴の一声が発せられ、その後一切の申し出がなくなり平和な日常を取り戻せた。
ため息交じりに、
「私ももう少し研鑽を積むなり経験を重ねねばならないようですね。こんなことでお義父さんのお手を煩わせるのは申し訳ないですし、お義父さんに『それまでの人間』と鼻で笑われるのも不本意ですので……」
自分の言葉を彼女はくすくすと笑ってから、眉毛をハの字にしてこう言った。
「なんだか、本当に面倒な家で申し訳ないです……。でも、あの方々とのお茶会は本当に苦手で……。だから、束の間の休息であれど、こんなに長期間お休みさせていただけるのはとても嬉しいです。そう思えば、湊ちゃんと涼さん、お父様には感謝しかありません。それに、あの父がこんなことで涼さんの評価を落とすとは思えません」
最後の一言は朗々と響き、自分が惚れ込んだ表情で見上げてくる。
色素の薄い彼女の瞳は透き通った琥珀のようで、澄み切った美しい目を細めては、桜色をした上品な口元に笑みを浮かべるのだ。
「どうしてそう言い切れるのですか?」
「私、家族以上に心を許し、お慕いするのは涼さんしかいませんもの」
「それは真白さんの考えや気持ちであり、お義父さんの判断には関係ないのでは……?」
彼女はクスリと声を立てて笑い、
「父は見込みある人間と判断しない限り、私との結婚を許したりはいたしません」
「……ですが、見込み違いということもあるでしょう?」
彼女はツボにはまったように笑いだした。
目尻に涙を滲ませ笑っている彼女は発作的な笑いが治まってから、
「涼さんは本当に規格外な方ですね」
「……意味がわかりかねるのですが」
「自分で言うのもおかしな話なのですが、私の父ですよ? 藤宮財閥会長、藤宮元ですよ? その父に向かって、『見誤る』とか、『見込み違いがあるかも』なんておっしゃる方、そうそういらっしゃらないんですからね?」
あぁ、そういう意味か……。
「規格外な人間」という言葉の意味に納得していると、
「涼さんは五月にある藤宮の茶会『藤の会』で、父から『お役目』任せられていますでしょう?」
「えぇ……」
あぁ、あのよくわからない面倒なやつ――と思っていると、彼女はにこりと笑って自分の腕に手を添えた。
「その時点で、涼さんは父の内側にいらっしゃるのです」
「うち、がわ……?」
「はい。『内側』です」
「『内側』とはどいう意味ですか?」
「そうですね……。わかりやすく言うなら『懐』、でしょうか? 父はほんの少しでも危険因子を内包する人間は自分の側には置きませんし、懐になど絶対に入れません。ですが涼さんは、『藤の会』で『お役目』を任せられています。つまり、すでに父の懐にいらっしゃる。そういう意味です」
藤宮が催す茶会やパーティーは多々あるものの、「藤の会」だけは催し方がほかのものとは根本的に異なる、と結婚してすぐに彼女から教えられた。
――「藤の会で使う茶道具は、代々使われ来たものを使用するのですが、それらは普段屋敷内にある『蔵』で保管されています。蔵で保管しているのは茶道具一式――茶碗、歴代の棗、茶筅、水差し、風炉用柄杓、茶釜。袱紗と扇子、懐紙は毎年会長が新しいものを用意するのですが、それらは各茶席の亭主に配布され、藤の会で亭主を務めた記念として贈られます。そのほか、劣化して使えなくなった茶筅も何もかもが、すべてきれいに保管されております。……そうですね、ちょっとした博物館のようなお部屋のことを『蔵』と呼んでいる感じです。茶碗は日常的に使われているものではなく、藤の会のためだけに作られたものを使用します。通常、濃茶には文様のない茶碗を、薄茶には文様のある茶碗を用意するのが一般的ですが、うちでは薄色から濃色のグラデーションが美しい茶碗を、濃茶薄茶のどちらにも使用します。そしてそれらが保管されている蔵の『入口』が父の私室――つまりはその時の会長の私室にあるため、私室にも蔵へも、会長が信用している人間しか立ち入ることを許されておりません。その時の会長によっては人出が足りないこともあるのですが、だからといって、住み込みの使用人を重用することはないそうです。そこに立ち入れるのは会長の側近か、会長と同じ部屋にいることを許されている警護班数名。次期会長のほか、副会長であったり、会長が個人的に気に入っている社員ということもありますね。そのほかですと、会長直系の親族だけは、会長が共に入ることを条件に、入室を許可されております。蔵には藤宮の家系図やご先祖様にまつわるものが保管されていて、藤姫神社で保管するには手に余るものなども、こちらに保管されています。そして、家系図に婚姻や離縁、出生を書き足すのも、故人へ印をつけるのも、この時のみと決まっているそうです」。
共に暮らすようになってから割とすぐ、「少しお時間をいただけますか?」と前置きをされ、ゆっくりと時間をかけて教えられたことを思い出す。
「すみません、失念しておりました……」
「涼さんにしては珍しいですね」
彼女は肩を揺らしてクスクスと笑う。
「涼さんのお役目は父の『側仕え』です。今までは、普段『側近』を務められている荒城さんのお役目でしたが、私が涼さんと結婚した際に、父はそのお役目を涼さんへ移しましたよね?」
「えぇ……。右も左もわからない中、突如『御触れ』のようなものが発令された感じで、その役目を受ける受けないの選択肢すらなかったことだけはよおく覚えております」
彼女は苦々しく笑いながら、
「……大変申し訳ないのですが、『藤の会』にまつわる『お役目』は、会長からの完全指名制で、指名された側に拒否権はないんです……。ですので、藤宮の親戚縁者はそれだけで理解します。私の夫となる方が、父の懐刀になる人間なのだ、と」
自分の理解がようやく追い付いたわけだが、そんな重要なポジションに就かせるのであれば、「あらかじめ話しておけ、狸じじー」と思う。
「ですから、涼さんはすでに父の内側にいて、今更評価が下がるどうのというフィールドにはいらっしゃらないのです。ご理解いただけましたか?」
そう言って満面の笑みで見上げてきた最愛の妻が、今日はいない。
「さて、身内しか知り得ないような情報を、いったいどんな人間が外へ漏らすのか……」
自分からしてみれば、「とんだ命知らずが」といったところだ。
使用人の誰かが金で買われているのか……。
だが、そんなことを見逃すような義父ではない。
最近本家のお手伝いさんが辞めただの、新しい人間が入ったという話は聞かない。そこからすると、情報を外へ漏らしたのは親族の誰か――。
「バカだな……」
親族とはいえ、あの義父が溺愛している娘にとって不利になることを口外する輩を見逃すわけがないのに。
必ずどこかで制裁を受けることになる。
こんなこと、外から入ってきたばかりの自分ですらわかるのに、なぜ親族がわからないのか……。
「頭に虫でもわいているのか……?」
不意に思い浮かんだ人間の頭に、リアルな虫がわいている様を想像し、咄嗟に庭の花へ視線を移す。と、意識は自然と彼女へ向いた。
きっと、数多のご婦人たちからご機嫌をとられ、彼女はそれらにつつがなく応対し、自分や娘、家族へ向けるそれとは異なる、少しぎこちない笑みを浮かべていることだろう。しかしその、「ぎこちなさ」に気付ける者はその場にはいない。
いるとしたら、彼女付の警護班筆頭、
「藤堂さんくらいなものだな――」
婚約してからというもの、彼女が赴くパーティーには何度となく同行してきたが、彼女が心からの笑顔を見せることはなく、エスコートの際に握った手は異常なまでに冷たくなっていた。
彼女の手はいつだって冷たい。しかし、それを上回る冷たさだったのだ。なのに、手のひらにかく汗は尋常ではなく――。
それを気にしてのことだろう。
あらかじめ用意していたらしき小さ目のハンカチを手と手の間に挟もうとするから、
「その必要はないでしょう? 私はあなたの夫になる人間ですよ?」
そう言ってハンカチを取り上げると、彼女と数秒目が合い、ほのかではあるものの、「温度」を感じることができた気がした。
けれどそれも束の間――。
初めて出席するパーティーで自分が彼女をフォローするのは無謀に等しく、これは早期に彼女が出席するパーティーや会合、茶会へ参加されるご婦人方の顔と名前、職業、性格等を網羅する必要があると感じた。
彼女のもとへ挨拶にくる人間のデータを片っ端から頭に入れていると、彼女の異変に気付く。
少し前までは毅然と顔を上げ、会場にいる人間の把握に努め、対面する相手と視線を合わせて話をしていたのに対し、今は見てわかる程度には伏し目がち。なのに表情は常に穏やかな笑みを湛えている。
容姿や肌の色からフランス人形を彷彿とさせたが、人形どうこう以前に人のぬくもりを感じることができない「何か」だった。
完璧に感情を押し殺している様子に危機感を覚え、
「真白さん?」
静かに名前を呼ぶと、はっとした様子で隣に立つ自分を見上げては、「ごめんなさい」と唇が言葉を象る。
今にも泣き出しそうな、涙が零れるのを必死で堪えている様を見て、すぐに会場を出ようと思った。
ホテルの一室をとれればいいが、この際ロビーでもスタッフルームでもかまわない。とにかく休ませなければ――。
そう思うのに、出入口へ向かう際にも人は構わず声をかけてくる。
イラつきを抑えながら振り返ると、そこには藤堂さんが立っていた。そして、その後ろでは別の警護班の人間が声をかけてきた人間の対応に当たっている。
「芹沢様、場外まで誘導いたしますので、会場をお出になるまでは真白様を抱え上げないように」
「っ……!?」
「お気持ちはお察しいたします。ですが、真白様はまだご自分のお力で立っておられます。ご自分で歩こうとなさっておられます。そういったがんばりは、あなたの行動ひとつで水の泡になります」
返答は要らないとでも言うように、彼は自分たちの前を歩き始めた。そして、自分にしか聞えない声量で、
「ホテルの上階に一室押さえてあります。そちらで真白様を休ませて差し上げてください。真白様が普段から服用なさっているお薬は、すべてその部屋にご用意しております」
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