見守る男、気付く女

星名雪子

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第一話 夫side

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一年前、俺は妻と別れた。

結婚して数十年。お互い仕事が忙しくてすれ違いが続き、時には喧嘩もしたが、夫婦二人三脚で仲良くやってきたつもりだった。しかし……あまりにも別れは突然だった。

どうしても納得できない。
受け入れられない。

そう思った俺はある行動に出た。

朝、家の前で待ち伏せをし、会社に向かう妻の後を追う。

日中は会社の近くに潜み、仕事をする妻の姿を窓の外からじっと見つめる。

そして夜は、仕事を終えて帰路に着く妻の後を追い、家で寛いでる彼女を見守るのだ。

妻は俺の姿に気づく様子は全くない。だが、俺は満足だった。愛する妻の姿をずっと見ていられるならそれでいい。こうして、気付かれることなく日々は過ぎていった。

五日目の日中のことだった。俺は会社近くの大きな木の影に隠れ、仕事をする妻を見守っていた。彼女は真剣な眼差しでパソコンに向かい、リズミカルにキーボードを叩いていた。電話が鳴り、彼女は受話器を取ると話し始めたが、近くにいた男に取り次いだ。

その時、妻が不意にこちらを見た。一瞬目が合った。驚きのあまり思わず心臓が飛び出そうになったが、彼女は何食わぬ顔でまたパソコンに向かった。

「気付かなかったのか……?いや、でも確かに今、目が合ったような……」

自分の行いがストーカーじみているということは分かっている。だから、もし妻に見つかったら大変なことになるだろう。

だが、目は合ったのに妻が何の反応も示さなかったことはとても残念だった。悲しかった。寂しかった。

こんな行為は決して許されるものではない。頭では分かっていても、俺は自分の気持ちをどうしても抑えることが出来なかった。

次の日、俺は我ながら大胆な行動に出た。家に忍び込むことにしたのだ。妻は俺と別れてからも引っ越しをすることなく同じ家に住み続けている。あの家は結婚して一年後に建てたものだ。ローンはとっくに返し終わり、だいぶ古くなったが俺達にとっては大切な家。だから俺はあの家のことを熟知している。

俺は妻の会社を離れ、すぐに家に戻った。家の中は俺がいた頃とあまり変わってはいなかったが、食器や歯ブラシなど俺の物がなくなって妻の物だけになっているのを目の当たりにすると少し悲しくなった。

「そうだよな……別れた旦那の私物なんていつまでも置いておかないよな……」

俺は微かな胸の痛みを感じながら家の中を彷徨った。

二階に上がり、寝室の扉を開けると見覚えのある大きなベッドが置いてあった。二つあった枕は一つになり、中央にぽつん、と置かれている。その脇には大きなクローゼットがある。そっと開けてみると、妻のお気に入りの洋服が所狭しと並んでいた。俺はその中に体を滑り込ませた。乾燥剤などの匂いに混じって微かに覚えのある香りが鼻を掠める。

「この香り……」

妻がいつもつけていた香水だ。

彼女が俺の隣を歩いているとき。
彼女の体を抱きしめたとき。

フワッと良い花の香りがした。ふと思い出して、また俺の胸が痛んだ。

夜になって妻が帰宅した。階段を登ってくる音がし、寝室の扉が開いた。

気づかれたら駄目だ。
だが、気づいてほしい。

そんな相反する感情に苛まれながらも俺はクローゼットの中で息を潜めた。

その時、クローゼットの扉が勢いよく開いた。妻は空のハンガーを手に取ると、コートを丁寧に掛け、また戻そうとした。俺は洋服の隙間から妻のことをじっと見つめた。すっかりシワは増えたが、美しさは変わらない。

一瞬、彼女と目が合った。だが、彼女は何の反応も示すことなくハンガーを戻すと、扉を閉めた。パチン、と音がして電気が消され、部屋の扉が閉まる音がした。

俺は長いため息を吐いた。

見つからなくて良かった。
という安堵の気持ち。
なぜ何の反応も示さないのか。
という納得できない気持ち。

俺の胸は押し潰されそうになった。苛々しながらクローゼットを出た俺は部屋の中をキョロキョロ見回すと、ベッドの下に潜り込んだ。暗くて埃っぽいが、わりと空間は広い。男の俺でも余裕だった。

数時間後、再び寝室の扉が開いた。妻が入って来たのだ。寝巻きに身を包み、長い黒髪を後ろで結っている。風呂から出たばかりなのか、ほんのりシャンプーの香りが漂っている。

妻はベッドに腰掛け、結っていた黒髪を静かに解いた。その時、手が滑ってヘアゴムが床に落ちた。それはもう少しでベッドの下に入ってしまう距離で、俺が少し手を出せば届くような位置だった。妻は落ちたヘアゴムを拾おうと屈み、何気なくベッドの下を覗き込んだ。

胸の鼓動が早くなる。
ヘアゴムを掴んだ彼女の動きが止まった。

「……」

目が合った。彼女は一瞬目を見開いた。だが、何事もなかったかのように再び体を起こした。直後、ベッドが軋む音と布団をめくる音がして、部屋の電気が消された。

「何でだよ……目合ったじゃないか……何で何も言わないんだよ」

俺は悶々とした気持ちを抱えたまま、ベッドの下で一夜を過ごした。

翌朝、休日だというのに妻は早く目覚めた。朝食を摂り、身支度をするとクローゼットから黒いシックなワンピースを取り出し、着替えると家を出て行った。

俺はそっと後を付けた。途中で花屋に寄り、花束を買った妻。しばらく歩いて辿り着いたのは墓地だった。

「墓地……一体誰の墓だ……?」

酷い胸騒ぎがする。
俺は胸を押さえながら妻の後を追った。

妻はある墓の前で立ち止まると、静かにしゃがみ込み、水をやり、花束を供えた。そして丁寧に手を合わせた。

「あれからもう一年……早いわね、あなた」

寂しそうに呟いた妻の顔を見て、俺はハッとした。慌てて飛び出し、墓石を覗き込んだその瞬間。

「別れたんじゃない。俺は死んだんだ……」

妻と結婚してから死ぬまでの記憶が走馬灯のように鮮明に蘇った。ショックのあまり俺は記憶を失っていたのだ。自分が死んだという記憶さえも。

墓石に刻まれた見覚えのある名前。
それは俺の名前だったのだ。
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