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第3章 秋
「赤黄色の森の中で」 2話
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「おねえちゃん、ここどこ……? なんでおとうさんもおかあさんもいないの……?」
今にも泣き出しそうな顔で妹が私の腕に縋り付き、震える声で問いかける。あまりの絶望に私は途方に暮れ、妹に掛ける言葉も見つからなかった。
「……」
どうしてこんなことになったのか。私は小さな頭を必死に巡らせた。そうだ、私が妹と一緒になってはしゃいでしまったからだ。あまりに美しい紅葉に我を忘れてしまった。もう少し冷静にならなければいけなかったのだ。キタキツネに触ろうとした妹を制止した時のように。
「……」
「……」
暫くの間、私は何も言わずに黙ったままその場に立ち尽くしてた。空気を読んでいるのか妹もそれっきり何も声を掛けてくることはなく、ただ押し黙っていた。時折鳥や虫の声、風に木々が揺れる音が静かな森の中に響いた。はらはらと舞う微かな木の葉の音まで聞こえる。赤黄色に染まる静寂な深い森。その中にいるのは私と妹のたった二人だけ。このままこの森から出られなかったら……そう考えた瞬間、自身の体からさっと血の気が引いていくのが分かった。どうしよう、何とかしなければ。
「おねえちゃん! さっきからなんでずっとだまってるの⁈」
腕をぐいぐいと引っ張られた私はハッと我に返った。目に涙をいっぱい浮かべながら妹が必死に声を上げていた。
「ここどこ⁈ なんでおとうさんもおかあさんもいないの⁈ ねえなんで⁈」
取り乱した妹の姿を目の当たりにした私の脳裏に、一瞬ある映像が過った。それは、雪解け水の下から覗くふきのとうの姿だった。隣町の学校へと転勤していった知美先生がふきのとうを通して最後に教えてくれた「強い心」それを思い出した瞬間、私の心に微かな火が灯った。それはまだ小さなものだったが、その火の暖かさが私を勇気づけてくれた。私がしっかりしなければ。両親の元へ戻る為に。妹を守る為にも。
「私達、少し道に迷ってしまったみたいなの。でも大丈夫。そんなに遠くには来ていない筈だから」
「えっ⁈ みちにまよったって……じゃあ、まいごになっちゃったってこと⁈」
「うん、そう。でも絶対にに大丈夫だから。必ず、お父さんとお母さんに会えるからね」
私はそう言うと妹の手をぎゅっと握りながら、ニコリと笑った。不安な素振りを見せてはいけない。そう思ったからだ。
「……うん、わかった」
少し不安そうな表情を浮かべながらも妹は安堵したように返事をした。私と妹がはしゃいで道を外れたとしたら「もみじ」を歌っていた時だろう。1コーラスしか歌っていないので、実際そんなに遠くには来ていない筈だ。私は周りの景色をもう一度見回してみた。何か目印になりそうな看板や道標はないだろうか……しかし、それらしきものは何ひとつ見当たらない。これではどこへ進んで良いのか分からない。公園にすら辿り着かないかもしれない。一体どうすれば……懸命に頭を巡らせている内にふと思い出した。そういえば、最近読んだ本に、山の中で迷った少年達があえて山頂を目指し歩いて行ったところ、登山道に合流することができ、無事に生還したという話があった気がする。私は、これだ、と思い、手をぽんと叩いた。
「おねえちゃん……?」
何かを閃いてパッと顔を明るくしている私の事を不思議そうな顔をして見つめている妹に、私は張り切って言った。
「喜子ちゃん、山頂を目指そう」
「さんちょう……?」
「山のてっぺんの事だよ。下るんじゃなくて、高い所に行く事によって今自分がどこにいるのかが分かるし、他に人がいたら見つけてもらいやすいからだよ」
「でも……おとうさんとおかあさんはさっきのこうえんにいるんじゃ……」
妹の言う事はもっともだ。恐らく今頃両親は姿の見えない私と妹を懸命に探し回っている筈だ。公園の周辺にいないことが分かれば範囲を広げて捜索するなり、応援を呼ぶことも考えられる。それならば、公園を探すよりは少しでも人の目に付きやすい山頂を目指した方が懸命だろう。ただ、ひとつ心配なことがあった。どれだけ時間がかかるか分からないということだ。日が暮れてしまうかもしれない。私は腕時計に目をやった。時計の針は午後一時を指している。夏ならまだしも季節は秋。ぐずぐずしていると、あっという間に日が暮れてしまう。
「喜子ちゃん、私達は今、この山を探検しているの。ゴールに向かって数々の試練を乗り越えなきゃいけない。頑張れるかな?」
「うん、がんばる!」
私の予想通り、探検、という言葉に目を輝かせた妹は先程の不安そうな表情とは打って変わって好奇心に満ち溢れた笑みを浮かべていた。私は正直なところ、不安が全くない訳ではなかった。山頂を目指して辿り着くことができても、もしも誰にも会えずに日が暮れてしまったら……そう思うと私の心は恐怖と不安で一杯になった。こんな時、知美先生がいてくれたなら。脳裏に知美先生の優しくて自信に満ち溢れた笑顔が浮かぶ。そして、雪解け水の下から覗く健気なふきのとうの姿も。
『大丈夫、蓮子ちゃんは必ず強くなれる』
私は知美先生の言葉を何度も思い返しては自身の弱い心を奮い立たせていた。夏に蛍を見に行った時も私は恐怖心に苛まれた。しかし、あの時は笠原さんがいた。僅かな月明かりと懐中電灯しかない暗闇に妹が怯えなかったのは笠原さんという頼もしい存在があったからだ。笠原さんのおかげで妹は恐怖を感じることなく、蛍のいる場所へと辿り着く事ができたのだ。
しかし、今ここにいるのは私と妹の二人だけだ。今は元気を取り戻したが、当初妹は不安に苛まれ、目に涙を浮かべていた。それは私という存在がまだ未熟で頼りないからだ。私は姉なのに。妹にとってはまだまだ「頼りないお姉ちゃん」なのだ。そう思うと未熟で頼りない自分がどうしようもなく情けなく感じ、みじめな気持ちになった。
「……しっかりしなければ」
真っ直ぐに前を見つめながら緩やかな斜面を登っていく妹の小さな背中を見つめながら、私は握った拳により一層力を込めて呟いたのだった。
暫くすると、どこからか川の流れる音が聞えてきた。ふと、視線をそちらに向けると緩やかな谷の下に川が流れていた。すると、前を歩いていた妹が不意に立ち止まった。
「どうしたの?」
「おねえちゃん……つかれたし、のどかわいた……」
そう言ってくるりと振り返った妹の顔には濃い疲労の色が浮かんでいた。私は腕時計に目をやったが、時間を気にして先を急ぐよりも、少しでも体を休めておいた方がいいかもしれない、そう思った。この先、何があるか分からないのだ。
「そうだね……ちょうど川もあるし、ちょっと休憩しようか」
「うん!」
妹はそう返事をすると、嬉しそうな笑顔を浮かべた。その川は大き過ぎず、小さ過ぎず、山の中を流れる所謂「渓流」としては何の変哲もないごく普通の大きさだったが、それはとても美しい光景を私達に見せてくれていた。
川の両脇にはヤマモミジやカエデなどの色とりどりの木々が並んでおり、赤黄色の鮮やかな葉が、さらさらとした水の流れに沿って幾重にも折り重なって静かに川面に揺れていた。
「喜子ちゃん、川の中の紅葉もとても綺麗だね」
「うん! そうだね!」
妹は嬉しそうに返事をすると、谷に向かって駆け出そうとした。私は慌てて妹の手を掴んだ。
「待って! そのまま走ったら谷を転げ落ちちゃうでしょ⁈」
「えーだいじょうぶだよ!」
「駄目! 危ないから私と一緒にゆっくり谷を下りようね」
「……はーい」
口を尖らす妹の手をしっかりと握った私はまず近くにある木に反対の手を掛け、斜面へ一歩踏み出した。緩やかな谷とはいえ、足を滑らせれば一気に転がり落ちてしまう。最悪の場合、怪我では済まないだろう。周りにある木に掴まりながら私は一歩一歩慎重に進んだ。私の後をゆっくりと降りて来る妹の小さな体を時折支えながら斜面を下る。
無事に川の近くに辿り着いた私はふうと大きく息を吐きながら、洋服に着いた泥や土を払った。この日の為に用意した真っ白なブラウスだったが、ここまで汚れてしまってはもう着られないかもしれない。
少し肩を落としながらふと妹の方に目をやる。その洋服は私の洋服とは比べ物にならない程、真っ黒に汚れていた。このドライブに行く前に、母が買ってくれた新しい洋服で、ボーイッシュな妹にしては珍しく女子らしい花柄のセーターだった。女子らしい洋服を着ようとしない妹を母は普段から根気良く説得していたが、妹はまるで聞く耳を持たなかった。だが、何故か今日はすんなりと受け入れたのだ。それなのに、見るも無残な姿になってしまった。母の悲しむ顔が目に浮かぶようだ。
「……お母さんがせっかく買ってくれたのに……汚れちゃったね」
「あー……ほんとだ」
そう口にした妹の表情は言葉とは裏腹にとても楽しそうだった。えへへと悪戯っぽい笑みを浮かべて頭を搔いていた。全く反省していない。しかし、その様子はいかにも妹らしい。私はなんだか面白くなってしまい、ふっと噴き出した。釣られて妹も笑い、私達は暫くの間、顔を見合わせて笑い合った。
私達はその川の水で喉を潤した。美しいその透明な水はとても冷たく、久しく何も口にしていなかったのでとても美味しく感じられた。近くにある大きな石の上に座って、私と妹は暫くの間、体を休めた。
「♪たーにのながれーに ちーりーうーくもーみーじ♪」
再び「もみじ」の歌唱が始まったので、私も加わることにした。
「♪波に揺られて 離れて寄って♪」
「♪あーかやきーいろーの いーろさーまざーまに♪」
「♪水の上にも 織る錦♪」
歌いながら川の流れに目をやる。はらはらと真っ赤なモミジが風に舞い、ゆっくりと川面に落ち、さらさらと流れていった。まるで水に浮かべたイカダのように。
私はふと、川の流れを目で追った。私の目に見える川面はどこまでいっても色とりどりの葉で埋め尽くされていた。その様子は「もみじ」の歌詞の通り、まさに「錦模様の織物」のようだと、私は心から感動した。
私は昔からこの「もみじ」という歌が好きで、毎年秋になると色づく木々を見ながらよく口ずさんでいた。しかし、まだ幼かった私には秋の野山を彩る紅葉の素晴らしさを美しい日本語で表現したこの歌の意味をよく知らなかった。本当の意味を理解できなくても、「この歌はもみじの事を歌っているんだ」という事は何となく感覚では分かっていたのだ。そんな時に知美先生と出会った。理科の授業で植物について学んでいた私は素朴な疑問を知美先生にぶつけた。
「先生、『もみじ』のうたってどういう意味なの?」
すると、知美先生は優しくニコリと微笑み、とても丁寧にこう教えてくれたのだ。
「蓮子ちゃん、良い質問ね。この歌は紅葉の美しさを昔の日本語で表現した歌なのよ。一番の歌詞は紅葉で一杯になった山を遠くから眺めて『まるで着物の裾の模様のように美しい』と山を着物に例えて言っているの。二番の歌詞は川に落ちた色とりどりの葉が『まるで錦模様の織物のように美しい』」と水に浮かぶ落ち葉を錦模様の織物に例えているの」
「知美先生、『にしきもようのおりもの』って何?」
生徒の一人がすかさず疑問をぶつける。すると、知美先生は少しの間考え込むと、何故か手元にあった社会科の資料集を開き、ページを繰った。そして、あるページを大きく開くと、広げて私達に見せてくれた。
「これが『錦模様の織物』よ。色とりどりの模様の布のことで、これで着物を作るの。綺麗な模様でしょう? 「もみじ」という歌が作られたのは昔のことだから、作者はその当時、一番身近にあった物の中で一番綺麗だと思う物を紅葉に例えたのかもしれないわね」
知美先生の丁寧で的確な解説に授業を受けていた生徒達は一番最初に質問をした私を含めて全員がとても感動していた。その後、暫く教室の中は「もみじ」の合唱が絶えなかった程だ。
私は、まるで『錦模様の織物』のようなその川の美しい光景を目の当たりにし、知美先生があの時教えてくれたのはこんなに素敵な景色だったんだと実感した。胸の中が再びじんわりと熱くなったような気がした。
―3話に続く―
今にも泣き出しそうな顔で妹が私の腕に縋り付き、震える声で問いかける。あまりの絶望に私は途方に暮れ、妹に掛ける言葉も見つからなかった。
「……」
どうしてこんなことになったのか。私は小さな頭を必死に巡らせた。そうだ、私が妹と一緒になってはしゃいでしまったからだ。あまりに美しい紅葉に我を忘れてしまった。もう少し冷静にならなければいけなかったのだ。キタキツネに触ろうとした妹を制止した時のように。
「……」
「……」
暫くの間、私は何も言わずに黙ったままその場に立ち尽くしてた。空気を読んでいるのか妹もそれっきり何も声を掛けてくることはなく、ただ押し黙っていた。時折鳥や虫の声、風に木々が揺れる音が静かな森の中に響いた。はらはらと舞う微かな木の葉の音まで聞こえる。赤黄色に染まる静寂な深い森。その中にいるのは私と妹のたった二人だけ。このままこの森から出られなかったら……そう考えた瞬間、自身の体からさっと血の気が引いていくのが分かった。どうしよう、何とかしなければ。
「おねえちゃん! さっきからなんでずっとだまってるの⁈」
腕をぐいぐいと引っ張られた私はハッと我に返った。目に涙をいっぱい浮かべながら妹が必死に声を上げていた。
「ここどこ⁈ なんでおとうさんもおかあさんもいないの⁈ ねえなんで⁈」
取り乱した妹の姿を目の当たりにした私の脳裏に、一瞬ある映像が過った。それは、雪解け水の下から覗くふきのとうの姿だった。隣町の学校へと転勤していった知美先生がふきのとうを通して最後に教えてくれた「強い心」それを思い出した瞬間、私の心に微かな火が灯った。それはまだ小さなものだったが、その火の暖かさが私を勇気づけてくれた。私がしっかりしなければ。両親の元へ戻る為に。妹を守る為にも。
「私達、少し道に迷ってしまったみたいなの。でも大丈夫。そんなに遠くには来ていない筈だから」
「えっ⁈ みちにまよったって……じゃあ、まいごになっちゃったってこと⁈」
「うん、そう。でも絶対にに大丈夫だから。必ず、お父さんとお母さんに会えるからね」
私はそう言うと妹の手をぎゅっと握りながら、ニコリと笑った。不安な素振りを見せてはいけない。そう思ったからだ。
「……うん、わかった」
少し不安そうな表情を浮かべながらも妹は安堵したように返事をした。私と妹がはしゃいで道を外れたとしたら「もみじ」を歌っていた時だろう。1コーラスしか歌っていないので、実際そんなに遠くには来ていない筈だ。私は周りの景色をもう一度見回してみた。何か目印になりそうな看板や道標はないだろうか……しかし、それらしきものは何ひとつ見当たらない。これではどこへ進んで良いのか分からない。公園にすら辿り着かないかもしれない。一体どうすれば……懸命に頭を巡らせている内にふと思い出した。そういえば、最近読んだ本に、山の中で迷った少年達があえて山頂を目指し歩いて行ったところ、登山道に合流することができ、無事に生還したという話があった気がする。私は、これだ、と思い、手をぽんと叩いた。
「おねえちゃん……?」
何かを閃いてパッと顔を明るくしている私の事を不思議そうな顔をして見つめている妹に、私は張り切って言った。
「喜子ちゃん、山頂を目指そう」
「さんちょう……?」
「山のてっぺんの事だよ。下るんじゃなくて、高い所に行く事によって今自分がどこにいるのかが分かるし、他に人がいたら見つけてもらいやすいからだよ」
「でも……おとうさんとおかあさんはさっきのこうえんにいるんじゃ……」
妹の言う事はもっともだ。恐らく今頃両親は姿の見えない私と妹を懸命に探し回っている筈だ。公園の周辺にいないことが分かれば範囲を広げて捜索するなり、応援を呼ぶことも考えられる。それならば、公園を探すよりは少しでも人の目に付きやすい山頂を目指した方が懸命だろう。ただ、ひとつ心配なことがあった。どれだけ時間がかかるか分からないということだ。日が暮れてしまうかもしれない。私は腕時計に目をやった。時計の針は午後一時を指している。夏ならまだしも季節は秋。ぐずぐずしていると、あっという間に日が暮れてしまう。
「喜子ちゃん、私達は今、この山を探検しているの。ゴールに向かって数々の試練を乗り越えなきゃいけない。頑張れるかな?」
「うん、がんばる!」
私の予想通り、探検、という言葉に目を輝かせた妹は先程の不安そうな表情とは打って変わって好奇心に満ち溢れた笑みを浮かべていた。私は正直なところ、不安が全くない訳ではなかった。山頂を目指して辿り着くことができても、もしも誰にも会えずに日が暮れてしまったら……そう思うと私の心は恐怖と不安で一杯になった。こんな時、知美先生がいてくれたなら。脳裏に知美先生の優しくて自信に満ち溢れた笑顔が浮かぶ。そして、雪解け水の下から覗く健気なふきのとうの姿も。
『大丈夫、蓮子ちゃんは必ず強くなれる』
私は知美先生の言葉を何度も思い返しては自身の弱い心を奮い立たせていた。夏に蛍を見に行った時も私は恐怖心に苛まれた。しかし、あの時は笠原さんがいた。僅かな月明かりと懐中電灯しかない暗闇に妹が怯えなかったのは笠原さんという頼もしい存在があったからだ。笠原さんのおかげで妹は恐怖を感じることなく、蛍のいる場所へと辿り着く事ができたのだ。
しかし、今ここにいるのは私と妹の二人だけだ。今は元気を取り戻したが、当初妹は不安に苛まれ、目に涙を浮かべていた。それは私という存在がまだ未熟で頼りないからだ。私は姉なのに。妹にとってはまだまだ「頼りないお姉ちゃん」なのだ。そう思うと未熟で頼りない自分がどうしようもなく情けなく感じ、みじめな気持ちになった。
「……しっかりしなければ」
真っ直ぐに前を見つめながら緩やかな斜面を登っていく妹の小さな背中を見つめながら、私は握った拳により一層力を込めて呟いたのだった。
暫くすると、どこからか川の流れる音が聞えてきた。ふと、視線をそちらに向けると緩やかな谷の下に川が流れていた。すると、前を歩いていた妹が不意に立ち止まった。
「どうしたの?」
「おねえちゃん……つかれたし、のどかわいた……」
そう言ってくるりと振り返った妹の顔には濃い疲労の色が浮かんでいた。私は腕時計に目をやったが、時間を気にして先を急ぐよりも、少しでも体を休めておいた方がいいかもしれない、そう思った。この先、何があるか分からないのだ。
「そうだね……ちょうど川もあるし、ちょっと休憩しようか」
「うん!」
妹はそう返事をすると、嬉しそうな笑顔を浮かべた。その川は大き過ぎず、小さ過ぎず、山の中を流れる所謂「渓流」としては何の変哲もないごく普通の大きさだったが、それはとても美しい光景を私達に見せてくれていた。
川の両脇にはヤマモミジやカエデなどの色とりどりの木々が並んでおり、赤黄色の鮮やかな葉が、さらさらとした水の流れに沿って幾重にも折り重なって静かに川面に揺れていた。
「喜子ちゃん、川の中の紅葉もとても綺麗だね」
「うん! そうだね!」
妹は嬉しそうに返事をすると、谷に向かって駆け出そうとした。私は慌てて妹の手を掴んだ。
「待って! そのまま走ったら谷を転げ落ちちゃうでしょ⁈」
「えーだいじょうぶだよ!」
「駄目! 危ないから私と一緒にゆっくり谷を下りようね」
「……はーい」
口を尖らす妹の手をしっかりと握った私はまず近くにある木に反対の手を掛け、斜面へ一歩踏み出した。緩やかな谷とはいえ、足を滑らせれば一気に転がり落ちてしまう。最悪の場合、怪我では済まないだろう。周りにある木に掴まりながら私は一歩一歩慎重に進んだ。私の後をゆっくりと降りて来る妹の小さな体を時折支えながら斜面を下る。
無事に川の近くに辿り着いた私はふうと大きく息を吐きながら、洋服に着いた泥や土を払った。この日の為に用意した真っ白なブラウスだったが、ここまで汚れてしまってはもう着られないかもしれない。
少し肩を落としながらふと妹の方に目をやる。その洋服は私の洋服とは比べ物にならない程、真っ黒に汚れていた。このドライブに行く前に、母が買ってくれた新しい洋服で、ボーイッシュな妹にしては珍しく女子らしい花柄のセーターだった。女子らしい洋服を着ようとしない妹を母は普段から根気良く説得していたが、妹はまるで聞く耳を持たなかった。だが、何故か今日はすんなりと受け入れたのだ。それなのに、見るも無残な姿になってしまった。母の悲しむ顔が目に浮かぶようだ。
「……お母さんがせっかく買ってくれたのに……汚れちゃったね」
「あー……ほんとだ」
そう口にした妹の表情は言葉とは裏腹にとても楽しそうだった。えへへと悪戯っぽい笑みを浮かべて頭を搔いていた。全く反省していない。しかし、その様子はいかにも妹らしい。私はなんだか面白くなってしまい、ふっと噴き出した。釣られて妹も笑い、私達は暫くの間、顔を見合わせて笑い合った。
私達はその川の水で喉を潤した。美しいその透明な水はとても冷たく、久しく何も口にしていなかったのでとても美味しく感じられた。近くにある大きな石の上に座って、私と妹は暫くの間、体を休めた。
「♪たーにのながれーに ちーりーうーくもーみーじ♪」
再び「もみじ」の歌唱が始まったので、私も加わることにした。
「♪波に揺られて 離れて寄って♪」
「♪あーかやきーいろーの いーろさーまざーまに♪」
「♪水の上にも 織る錦♪」
歌いながら川の流れに目をやる。はらはらと真っ赤なモミジが風に舞い、ゆっくりと川面に落ち、さらさらと流れていった。まるで水に浮かべたイカダのように。
私はふと、川の流れを目で追った。私の目に見える川面はどこまでいっても色とりどりの葉で埋め尽くされていた。その様子は「もみじ」の歌詞の通り、まさに「錦模様の織物」のようだと、私は心から感動した。
私は昔からこの「もみじ」という歌が好きで、毎年秋になると色づく木々を見ながらよく口ずさんでいた。しかし、まだ幼かった私には秋の野山を彩る紅葉の素晴らしさを美しい日本語で表現したこの歌の意味をよく知らなかった。本当の意味を理解できなくても、「この歌はもみじの事を歌っているんだ」という事は何となく感覚では分かっていたのだ。そんな時に知美先生と出会った。理科の授業で植物について学んでいた私は素朴な疑問を知美先生にぶつけた。
「先生、『もみじ』のうたってどういう意味なの?」
すると、知美先生は優しくニコリと微笑み、とても丁寧にこう教えてくれたのだ。
「蓮子ちゃん、良い質問ね。この歌は紅葉の美しさを昔の日本語で表現した歌なのよ。一番の歌詞は紅葉で一杯になった山を遠くから眺めて『まるで着物の裾の模様のように美しい』と山を着物に例えて言っているの。二番の歌詞は川に落ちた色とりどりの葉が『まるで錦模様の織物のように美しい』」と水に浮かぶ落ち葉を錦模様の織物に例えているの」
「知美先生、『にしきもようのおりもの』って何?」
生徒の一人がすかさず疑問をぶつける。すると、知美先生は少しの間考え込むと、何故か手元にあった社会科の資料集を開き、ページを繰った。そして、あるページを大きく開くと、広げて私達に見せてくれた。
「これが『錦模様の織物』よ。色とりどりの模様の布のことで、これで着物を作るの。綺麗な模様でしょう? 「もみじ」という歌が作られたのは昔のことだから、作者はその当時、一番身近にあった物の中で一番綺麗だと思う物を紅葉に例えたのかもしれないわね」
知美先生の丁寧で的確な解説に授業を受けていた生徒達は一番最初に質問をした私を含めて全員がとても感動していた。その後、暫く教室の中は「もみじ」の合唱が絶えなかった程だ。
私は、まるで『錦模様の織物』のようなその川の美しい光景を目の当たりにし、知美先生があの時教えてくれたのはこんなに素敵な景色だったんだと実感した。胸の中が再びじんわりと熱くなったような気がした。
―3話に続く―
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