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第3章 冬
「オリオンを見上げて」 2話
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俺達は最寄り駅に急いだ。小さな駅はそれほど混んでいない。初詣に行くらしい客が2、3人、ホームで白い息を吐きながら電車の到着を待っていた。間もなくして鎌倉駅行きの電車がホームに滑り込んで来た。車内をザっと見たところ、結構混雑している。俺と晴海は車内の奥に詰め、座席の前に並んで立った。
「あと5分しかない……」
「今年は江ノ電の中で年越しだね……あっ!」
突然、晴海が声を上げた。
「どうした?」
「年越しそば、食べ忘れちゃったね」
「ああ……そうだな」
俺は思わず額に手を当てた。例年なら店を閉めてから少し時間があるので年越しそばを食べてから初詣に向かっていたのだ。食べ忘れたのは初めてだった。
「まっ。仕方ないか。今年最後のお客さん、とても嬉しそうに帰っていったしね!」
「そうだな!」
そうこうしている間に時計の針はもうすぐ0時を回ろうとしていた。隣の車両に若い子の集団が乗っているらしく、カウントダウンをしている大きな声が聞こえて来た。
「3・2・1!イエーイ!あけおめー!」
「ことよろー!」
周囲などお構いなしに、拍手をして盛り上がっている。怪訝そうな顔をしている客もいたが、この時間帯に乗っている客の大半が初詣目的。だからか、周りの客も彼らにつられて新年の挨拶をしたりなど、車内には少し和やかな雰囲気が漂っていた。
「優志くん、明けましておめでとう。今年もよろしくね」
「ああ、よろしくな」
俺と晴海はそう言って微笑み合った。程なくして電車は鎌倉駅に到着。車内の客は先程より少しだけ減っていた。長谷駅で降りたのだろう。あそこには有名な大仏を始め、その他にも多数の寺や神社が点在しているのだ。
駅を出て八幡宮へ向かう。その道のりは初詣の客でごった返しており、行列ができているぐらいだった。
「いつになく混んでるな」
「そうだね。でも、別にこの後予定がある訳でもないじゃない。ゆっくり行こう」
「そうだな」
八幡宮の中は真夜中だというのにとても賑わっていた。様々な屋台が軒を連ね、人々は甘酒やおでん、豚汁などを味わっていた。普段この時間は誰もおらずひっそりとしているはず。さすがは正月だ。人々の間を上手くすり抜けながら、階段を登る。雪が積もっているからか少し怖い。俺はおそるおそる一歩また一歩と足を踏み出した。すると、晴海が思い出したようにぽつりと呟いた。
「……銀杏の木」
「えっ?」
「昔ここに大きな銀杏の木あったよね?」
晴海の言葉に、かつてそこに天高くそびえていた銀杏の大木の姿がぼんやりと脳裏に浮かんだ。まさに今登っているこの階段の隣にあったのだ。
「ああ、そうだな……懐かしいな。確か台風で折れちゃったんだよな」
「そうそう。あの時ニュースにもなったし、街の人達も凄くショック受けてたよね。もちろん私達も」
俺は大きく頷いた。あの銀杏の大木は鶴岡八幡宮のシンボル的な存在と言っても過言ではなかった。秋になると色鮮やかな黄色の葉をつけ、人々を魅了した。俺達が子供の頃、夏にこの地を襲った大型の台風により倒木し、姿を消した。人々は嘆き悲しんだが、いつしかその存在は忘れられていった。時の経過と共に。
「そっか……あれからもう随分と経ってるもんなぁ」
「そうだね。若い子達はここに大きな銀杏の木があったことなんてきっと知らないだろうね」
晴海は少し寂しそうにそう言った。俺と晴海も年を重ね、いつかはいなくなる。二人で一緒に旅立てるのなら本望だが、きっとそうはいかないだろう。もしも晴海が先に旅立ち、俺一人になったとしても彼女のことを忘れない。絶対に。
参拝客の列に並び、しばらくしてようやく自分達の順番が回って来た。一通り作法を行い、手を合わせた。
「何お願いしたんだ?」
尋ねてみると、彼女はふふっと笑って言った。
「内緒!」
「ええっ。ケチだなぁ。俺は晴海といつまでも仲良く健康で長生きできるように、ってお願いしたぞ」
すると晴海は嬉しそうに微笑んだ。
「そっか。ありがとう!」
結局、晴海が何を願ったのか分からずじまいだった。
「ねぇ、この後どうする?甘酒でも買って飲んでいく?」
「……いや、今日は寒いから店に戻ろう。若けりゃいいが中年にはこの寒さは堪える。それにまだ仕事も残ってるしな。家に帰るのは日が昇ってもう少し暖かくなったらにしよう」
「ふふっそうだね。私達もう若くないもんね。店でゆっくりあったかいスープでも飲もっか。確かサービスで作ったコーンスープが残ってたはず」
「それはいいな」
いつもならしばらく八幡宮に留まり、夜明けに合わせて海辺に移動する。初日の出を見る為だ。だが、今日は雪が積もっているせいか底冷えする。分厚いコートを着込みマフラーでぐるぐる巻きにして十分に防寒していても長時間外にいるのにはとても耐えられる自信がない。夜明け近くになるともっと気温が下がるはず。年寄りは年寄りらしくさっさと引きこもるのが良いのだ。
こうして俺達は鶴岡八幡宮を後にした。店に戻ると俺はすぐさま暖房を入れた。そして、売上金の計算を再開した。晴海はその間、冷蔵庫からコーンスープの残りを取り出し、鍋を火に掛けた。特に会話はなかった。だが、とても静かで穏やかな時間だった。
「スープできたよ。そっちはどう?終わった?」
「ああ。問題なく終わったよ。いつもの大晦日より少し売上が良いみたいだ」
「そっか。ギリギリで駆け込んで来てくれたお客さん何人かいたもんね。ありがたいね」
中央の二人掛けのテーブルの上にはコーンスープが用意されていた。スープからは美味しそうな湯気が立ち上り、コーンの甘い良い香りが鼻を掠める。晴海が席に着いたので、俺も向かい側に座った。
「改めまして、今年もよろしくお願いします!」
「こちらこそ!」
スープの入った皿を軽く手に持ちながら俺達は笑い合った。コーンスープで新年の祝杯を挙げるなんて俺達ぐらいだろう。早速スープを口に運ぶ。甘くて温かい。喉の奥から体全体に優しい暖かさが染み渡っていくようだった。
「やっぱり晴海の作る料理は美味いよな。なんていうか優しさが詰まってるんだよ」
「そう?ありがとう」
少しはにかみながら晴海は微笑んで言った。誰もいない店内で晴海と二人、お茶をしたり食事をすることが俺のささやかな楽しみだった。晴海はスープを飲み、静かにスプーンを置いた。
「昔は初日の出を見た後、店に戻ってワインとかビール飲んだよね。で、そのまま酔い潰れちゃってさ。夜になって慌てて翌日の仕込みしたりして」
思い出したように晴海がクスクスと笑いながら言った。年末年始、この店は元旦のみ休業し、あとは全て営業している。なので、大晦日の夜から元旦に掛けては俺と晴海にとって自由な時間なのだ。
「そうだったな。今じゃスープでまったり過ごしてる。すっかり年取ったな、俺達」
「そうだね。もう殆どお酒飲まなくなったもんね。あっ!」
晴海が突然声を上げ、笑い始めたので俺は驚いた。
「な、なんだ?急に笑い出したりして」
「ふふっ優志くんがプロポーズしてくれた時のこと思い出しちゃって」
「ああ、またその話か……」
晴海が笑っている理由。それは俺が彼女にプロポーズをした時のあるハプニングのことだ。俺はその日、晴海を江ノ島近くの高級フレンチレストランに呼んだ。夏のボーナスをはたいて最高級のコースを堪能したのだが、ガチガチに緊張していた俺は肝心なところで盛大にやらかしたのだ。
「優志くん、指輪を渡すタイミングで高級ワインを倒しちゃったんだよね!『晴海、俺と結婚してく……』そこまで言ったのにグラスに肘が当たってワインがバシャーって!テーブルも洋服も全部赤ワインまみれ!」
晴海はクスクスと笑った。俺は反論するように声を上げた。
「でも、ウエイターさん達一生懸命対応してくれたじゃないか。その後、プロポーズのやり直しさせてくれたし!」
すると晴海は優しく微笑みながら言った。
「それは優志くんの人柄だよ。だって優志くん、ぺこぺこしながら一緒になって後始末してたじゃない。普通ならやらないのに。例え自分が汚したとしても。ウエイターさん達はそんな優志くんの人柄に感動したんだよ、きっと」
「そ、そうかな」
「そうだよ。私はそんな優志くんが好きなんだよ。少し抜けてて天然だけど、優しくて素直で真面目で……」
晴海はそう言って恥ずかしそうに少しだけ目を伏せた。そして、顔を上げると懐かしそうに呟いた。
「……再会して告白してくれた時、凄く嬉しかったなぁ。転校する前のあの日、優志くんが何を言おとしてるのか私、分かってた。でも自分から遮ってしまった。だから、再会して仲良くなっても自分から告白する勇気がなかったの。私が言う資格なんてないなって……」
「晴海……」
俺達は再会してから食事やデートを重ね、距離を縮めた。会う度に俺の気持ちは大きくなっていき、1か月も経たない内に俺は自分の気持ちを打ち明けたのだ。あれは確か北鎌倉の明月院という寺に紫陽花を見に行った時だ。
しとしとと小雨が降る日だった。雨に濡れた紫陽花を懐かしそうに眺めている晴海に向かって俺は言った。「晴海が好きだ。この10年間、忘れたことは一度もない」と。晴海は少し驚いていたが、嬉しそうに頷くと、ぽつりと言ったのだ。「私もだよ」と。
「そうか……懐かしいな」
遠い昔の青い思い出が鮮やかに蘇る。俺は胸の奥がじんわりと暖かくなった。
「私、今とても幸せだよ。子供ができないことに悩んだり、過労で倒れたこともあった。でも、子供ができなくたっていい。夢だった自分のお店を大好きな人と一緒にこうして続けてる。これ以上の幸せはもうないんじゃないかな……優志くん、私と一緒になってくれて本当にありがとう」
晴海の素直で優しい笑顔に俺は思わず目頭が熱くなってしまった。
「……俺だってしっかり者の晴海のことが好きだし、凄く幸せだ。これからもずっとずっと一緒にいたい」
ふと顔を上げると、涙で目を潤ませた晴海の顔を朝日が優しく照らしていた。晴海は恥ずかしそうに鼻をすすると、少し眩しそうに目を細めた。
「初日の出だね!」
そう言って彼女は窓際の席に移動した。この店は坂の上に建っている。店内には左右に大きなふたつの窓があり、ひとつは月が、もうひとつは朝日が昇ってくるのがよく見える。元旦の早朝に『初日の出が見られます!』と大々的に銘打ち営業したらきっと大勢の客が来るだろう。しかし、それはしない。今この瞬間は、俺と晴海の二人だけのもの。俺は心からそう思った。
「紅茶淹れるけど、晴海も飲む?それともコーヒーがいいか?」
「私も紅茶がいいな。ミルクをたっぷりでお願い」
「オッケー」
俺は二人分のミルクティーを淹れ、窓際の席へ持っていった。晴海はゆっくりとティーカップを口に運んだ。俺は隣りに座った。初日の出を眺めながら紅茶に口をつける。
「甘くて美味いな」
「そうだね。朝日も凄くキレイ」
「ああ。そうだな」
彼女の横顔は遠い昔に傘の中で見た横顔と変わらず、とても美しかった。胸の奥で微かに愛おしさが芽生える。俺は新しい年の眩しい朝日に誓った。例えおじいさん、おばあさんになっても、この先もずっとずっと一緒に。
「あと5分しかない……」
「今年は江ノ電の中で年越しだね……あっ!」
突然、晴海が声を上げた。
「どうした?」
「年越しそば、食べ忘れちゃったね」
「ああ……そうだな」
俺は思わず額に手を当てた。例年なら店を閉めてから少し時間があるので年越しそばを食べてから初詣に向かっていたのだ。食べ忘れたのは初めてだった。
「まっ。仕方ないか。今年最後のお客さん、とても嬉しそうに帰っていったしね!」
「そうだな!」
そうこうしている間に時計の針はもうすぐ0時を回ろうとしていた。隣の車両に若い子の集団が乗っているらしく、カウントダウンをしている大きな声が聞こえて来た。
「3・2・1!イエーイ!あけおめー!」
「ことよろー!」
周囲などお構いなしに、拍手をして盛り上がっている。怪訝そうな顔をしている客もいたが、この時間帯に乗っている客の大半が初詣目的。だからか、周りの客も彼らにつられて新年の挨拶をしたりなど、車内には少し和やかな雰囲気が漂っていた。
「優志くん、明けましておめでとう。今年もよろしくね」
「ああ、よろしくな」
俺と晴海はそう言って微笑み合った。程なくして電車は鎌倉駅に到着。車内の客は先程より少しだけ減っていた。長谷駅で降りたのだろう。あそこには有名な大仏を始め、その他にも多数の寺や神社が点在しているのだ。
駅を出て八幡宮へ向かう。その道のりは初詣の客でごった返しており、行列ができているぐらいだった。
「いつになく混んでるな」
「そうだね。でも、別にこの後予定がある訳でもないじゃない。ゆっくり行こう」
「そうだな」
八幡宮の中は真夜中だというのにとても賑わっていた。様々な屋台が軒を連ね、人々は甘酒やおでん、豚汁などを味わっていた。普段この時間は誰もおらずひっそりとしているはず。さすがは正月だ。人々の間を上手くすり抜けながら、階段を登る。雪が積もっているからか少し怖い。俺はおそるおそる一歩また一歩と足を踏み出した。すると、晴海が思い出したようにぽつりと呟いた。
「……銀杏の木」
「えっ?」
「昔ここに大きな銀杏の木あったよね?」
晴海の言葉に、かつてそこに天高くそびえていた銀杏の大木の姿がぼんやりと脳裏に浮かんだ。まさに今登っているこの階段の隣にあったのだ。
「ああ、そうだな……懐かしいな。確か台風で折れちゃったんだよな」
「そうそう。あの時ニュースにもなったし、街の人達も凄くショック受けてたよね。もちろん私達も」
俺は大きく頷いた。あの銀杏の大木は鶴岡八幡宮のシンボル的な存在と言っても過言ではなかった。秋になると色鮮やかな黄色の葉をつけ、人々を魅了した。俺達が子供の頃、夏にこの地を襲った大型の台風により倒木し、姿を消した。人々は嘆き悲しんだが、いつしかその存在は忘れられていった。時の経過と共に。
「そっか……あれからもう随分と経ってるもんなぁ」
「そうだね。若い子達はここに大きな銀杏の木があったことなんてきっと知らないだろうね」
晴海は少し寂しそうにそう言った。俺と晴海も年を重ね、いつかはいなくなる。二人で一緒に旅立てるのなら本望だが、きっとそうはいかないだろう。もしも晴海が先に旅立ち、俺一人になったとしても彼女のことを忘れない。絶対に。
参拝客の列に並び、しばらくしてようやく自分達の順番が回って来た。一通り作法を行い、手を合わせた。
「何お願いしたんだ?」
尋ねてみると、彼女はふふっと笑って言った。
「内緒!」
「ええっ。ケチだなぁ。俺は晴海といつまでも仲良く健康で長生きできるように、ってお願いしたぞ」
すると晴海は嬉しそうに微笑んだ。
「そっか。ありがとう!」
結局、晴海が何を願ったのか分からずじまいだった。
「ねぇ、この後どうする?甘酒でも買って飲んでいく?」
「……いや、今日は寒いから店に戻ろう。若けりゃいいが中年にはこの寒さは堪える。それにまだ仕事も残ってるしな。家に帰るのは日が昇ってもう少し暖かくなったらにしよう」
「ふふっそうだね。私達もう若くないもんね。店でゆっくりあったかいスープでも飲もっか。確かサービスで作ったコーンスープが残ってたはず」
「それはいいな」
いつもならしばらく八幡宮に留まり、夜明けに合わせて海辺に移動する。初日の出を見る為だ。だが、今日は雪が積もっているせいか底冷えする。分厚いコートを着込みマフラーでぐるぐる巻きにして十分に防寒していても長時間外にいるのにはとても耐えられる自信がない。夜明け近くになるともっと気温が下がるはず。年寄りは年寄りらしくさっさと引きこもるのが良いのだ。
こうして俺達は鶴岡八幡宮を後にした。店に戻ると俺はすぐさま暖房を入れた。そして、売上金の計算を再開した。晴海はその間、冷蔵庫からコーンスープの残りを取り出し、鍋を火に掛けた。特に会話はなかった。だが、とても静かで穏やかな時間だった。
「スープできたよ。そっちはどう?終わった?」
「ああ。問題なく終わったよ。いつもの大晦日より少し売上が良いみたいだ」
「そっか。ギリギリで駆け込んで来てくれたお客さん何人かいたもんね。ありがたいね」
中央の二人掛けのテーブルの上にはコーンスープが用意されていた。スープからは美味しそうな湯気が立ち上り、コーンの甘い良い香りが鼻を掠める。晴海が席に着いたので、俺も向かい側に座った。
「改めまして、今年もよろしくお願いします!」
「こちらこそ!」
スープの入った皿を軽く手に持ちながら俺達は笑い合った。コーンスープで新年の祝杯を挙げるなんて俺達ぐらいだろう。早速スープを口に運ぶ。甘くて温かい。喉の奥から体全体に優しい暖かさが染み渡っていくようだった。
「やっぱり晴海の作る料理は美味いよな。なんていうか優しさが詰まってるんだよ」
「そう?ありがとう」
少しはにかみながら晴海は微笑んで言った。誰もいない店内で晴海と二人、お茶をしたり食事をすることが俺のささやかな楽しみだった。晴海はスープを飲み、静かにスプーンを置いた。
「昔は初日の出を見た後、店に戻ってワインとかビール飲んだよね。で、そのまま酔い潰れちゃってさ。夜になって慌てて翌日の仕込みしたりして」
思い出したように晴海がクスクスと笑いながら言った。年末年始、この店は元旦のみ休業し、あとは全て営業している。なので、大晦日の夜から元旦に掛けては俺と晴海にとって自由な時間なのだ。
「そうだったな。今じゃスープでまったり過ごしてる。すっかり年取ったな、俺達」
「そうだね。もう殆どお酒飲まなくなったもんね。あっ!」
晴海が突然声を上げ、笑い始めたので俺は驚いた。
「な、なんだ?急に笑い出したりして」
「ふふっ優志くんがプロポーズしてくれた時のこと思い出しちゃって」
「ああ、またその話か……」
晴海が笑っている理由。それは俺が彼女にプロポーズをした時のあるハプニングのことだ。俺はその日、晴海を江ノ島近くの高級フレンチレストランに呼んだ。夏のボーナスをはたいて最高級のコースを堪能したのだが、ガチガチに緊張していた俺は肝心なところで盛大にやらかしたのだ。
「優志くん、指輪を渡すタイミングで高級ワインを倒しちゃったんだよね!『晴海、俺と結婚してく……』そこまで言ったのにグラスに肘が当たってワインがバシャーって!テーブルも洋服も全部赤ワインまみれ!」
晴海はクスクスと笑った。俺は反論するように声を上げた。
「でも、ウエイターさん達一生懸命対応してくれたじゃないか。その後、プロポーズのやり直しさせてくれたし!」
すると晴海は優しく微笑みながら言った。
「それは優志くんの人柄だよ。だって優志くん、ぺこぺこしながら一緒になって後始末してたじゃない。普通ならやらないのに。例え自分が汚したとしても。ウエイターさん達はそんな優志くんの人柄に感動したんだよ、きっと」
「そ、そうかな」
「そうだよ。私はそんな優志くんが好きなんだよ。少し抜けてて天然だけど、優しくて素直で真面目で……」
晴海はそう言って恥ずかしそうに少しだけ目を伏せた。そして、顔を上げると懐かしそうに呟いた。
「……再会して告白してくれた時、凄く嬉しかったなぁ。転校する前のあの日、優志くんが何を言おとしてるのか私、分かってた。でも自分から遮ってしまった。だから、再会して仲良くなっても自分から告白する勇気がなかったの。私が言う資格なんてないなって……」
「晴海……」
俺達は再会してから食事やデートを重ね、距離を縮めた。会う度に俺の気持ちは大きくなっていき、1か月も経たない内に俺は自分の気持ちを打ち明けたのだ。あれは確か北鎌倉の明月院という寺に紫陽花を見に行った時だ。
しとしとと小雨が降る日だった。雨に濡れた紫陽花を懐かしそうに眺めている晴海に向かって俺は言った。「晴海が好きだ。この10年間、忘れたことは一度もない」と。晴海は少し驚いていたが、嬉しそうに頷くと、ぽつりと言ったのだ。「私もだよ」と。
「そうか……懐かしいな」
遠い昔の青い思い出が鮮やかに蘇る。俺は胸の奥がじんわりと暖かくなった。
「私、今とても幸せだよ。子供ができないことに悩んだり、過労で倒れたこともあった。でも、子供ができなくたっていい。夢だった自分のお店を大好きな人と一緒にこうして続けてる。これ以上の幸せはもうないんじゃないかな……優志くん、私と一緒になってくれて本当にありがとう」
晴海の素直で優しい笑顔に俺は思わず目頭が熱くなってしまった。
「……俺だってしっかり者の晴海のことが好きだし、凄く幸せだ。これからもずっとずっと一緒にいたい」
ふと顔を上げると、涙で目を潤ませた晴海の顔を朝日が優しく照らしていた。晴海は恥ずかしそうに鼻をすすると、少し眩しそうに目を細めた。
「初日の出だね!」
そう言って彼女は窓際の席に移動した。この店は坂の上に建っている。店内には左右に大きなふたつの窓があり、ひとつは月が、もうひとつは朝日が昇ってくるのがよく見える。元旦の早朝に『初日の出が見られます!』と大々的に銘打ち営業したらきっと大勢の客が来るだろう。しかし、それはしない。今この瞬間は、俺と晴海の二人だけのもの。俺は心からそう思った。
「紅茶淹れるけど、晴海も飲む?それともコーヒーがいいか?」
「私も紅茶がいいな。ミルクをたっぷりでお願い」
「オッケー」
俺は二人分のミルクティーを淹れ、窓際の席へ持っていった。晴海はゆっくりとティーカップを口に運んだ。俺は隣りに座った。初日の出を眺めながら紅茶に口をつける。
「甘くて美味いな」
「そうだね。朝日も凄くキレイ」
「ああ。そうだな」
彼女の横顔は遠い昔に傘の中で見た横顔と変わらず、とても美しかった。胸の奥で微かに愛おしさが芽生える。俺は新しい年の眩しい朝日に誓った。例えおじいさん、おばあさんになっても、この先もずっとずっと一緒に。
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