天の川の辺で

星名雪子

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天の川の辺で

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目の前に広がるその美しい川は、深い霧に包まれている。その川の辺で織姫様は一人静かに佇んでいた。

細く華奢な肩を落とした寂しげな後ろ姿に、僕は胸が締め付けられる思いがした。その視線は真っすぐに、対岸へ注がれている。深く、濃い霧に閉ざされ、何も見えないはずの対岸へ。

「……見て、この霧。まるで私達を阻んでいるようだわ」

僕の姿に気がついたのか、織姫様は振り返り、ため息を吐きながらぽつりと呟いた。伏し目がちな瞳が微かに潤んでいた。

「織姫様、肩を落とさないでください。もう少し待ってみましょう。もしかしたら、霧が晴れるかもしれません」

「でも、こんなに濃い霧、すぐには晴れないわ」

「ご安心ください。完全に霧が晴れなくても、少しでも対岸が見えさえすれば、僕はあなたを乗せて飛ぶことができます。そうすれば、彦星様にお会いできますよ」

「かささぎさん……ありがとう。ああ、私は『彼ら』の願い事は何でも自由に叶えてあげることができるのに、お天気だけは叶えられないなんて……」

織姫様は悲しそうに微笑みながら、そう呟いた。

僕は織姫様と彦星様の橋渡しのお役目を、織姫様の父君であられる天帝様に命じられている。もう長いこと、このお役目を勤めているが、こんなに濃い霧に遭遇したのは初めてだった。

僕達の住む天界は天候に左右されない穏やかな環境だ。しかし、この川辺だけは違う。『彼ら』の住む下界と繋がっている為に、下界の天候に左右されてしまうのである。

雨が降ったことが何度もあった。
厚い雲に覆われてしまったことも何度もあった。

その度に織姫様は、彦星様にお会いできない悲しさを嘆き、はらはらと涙を零した。僕は何度も「諦めないでください。きっと晴れますよ」と前向きなお声をかけた。

そう、僕のお役目は「橋渡し」だけではない。織姫様へ励ましのお声をかけることも重要なお役目なのである。

「織姫様、この霧は必ず晴れます。しかし、まだ時間がかかりそうです。それまで、少しでも楽しいことを思い浮かべてみませんか?」

「……たとえばどんなことを?」

「彦星様にお会いしたら、共に何をなさりたいか、何をお話したいかというのはいかがですか?」

今にもはらはらと泣き出しそうな織姫様の顔を、僕はこれ以上見ていられなかった。少しでも元気を出してもらわねば。僕が彦星様の名前を出すと、織姫様の顔がパッと明るく華やいだ。

「そうね……まず、彦星様の為に織ったこの織物を差し上げるわ」

「これは美しい……織姫様はやはり織物がお上手ですね。きっと彦星様もお喜びになることでしょう」

「まぁ、ありがとう」

織姫様は嬉しそうにそう言うとふふっと笑った。少し照れたようなはにかんだ微笑みだった。その笑顔はとても可愛らしく、僕は少しだけ彦星様を羨ましく思ってしまった。

織姫様はその名前の通り、機織りを生業とされ、彦星様と出会う前からずっと機織りを続けている。僕達の住む、この天界の住民達は、織姫様が織った織物を身に着けて生活している。あまりにも熱心に織姫様が機織りに精を出すので、不憫に思った天帝様が彦星様と織姫様のご結婚をお決めになったのだが、二人の結婚生活を巡って実はひと悶着あった。

それは、織姫様と彦星様がこうして一年に一度しかお会いすることができなくなってしまった原因になる事件だ。

二人は結婚生活を楽しむあまり、お互いの仕事を怠けるようになってしまった。織姫様が機織りをしなくなったので、天界の住民達の着物は次々に汚れていき、牛飼いである彦星様が牛を大切に育てなかったので、牛達が次々に病にかかってしまった。

この酷い有様に激怒した天帝様は、戒めとして織姫様と彦星様をそれぞれ対岸に住まわすことで二人が仕事に専念できるようにし、その代わりに二人が一年に一度だけお会いすることをお許しになったのである。

下界に住む『彼ら』の寿命は短い。しかし、僕達天界の住民達の寿命は恐ろしく長い。だから、僕は織姫様と彦星様のことをもう長いことこの目で見てきている。約1000年ぐらいだろうか。『彼ら』からはとても想像できないであろう長い長い年月だ。

そんなに長い間一緒にいたら、織姫様も彦星様も、お互いを飽きたり嫌いになったりすることがあるのではないかとよく言われるけれど、二人の気持ちは1000年前から全く変わらない。

お互いを深く愛され、まさに相思相愛のご夫婦なのである。毎年橋渡しをしているので、僕にはそれがよく分かるのだ。織姫様は彦星様を心から愛しておられる。だからこそ、お会いできないと悲しくて涙を零すのだ。

「織姫様、霧が晴れて彦星様にお会いできましたら、『彼ら』もさぞお喜びになるでしょうね」

「そうね、私達が会えないと『彼ら』の願い事を叶えることができないものね。今年は下界でたくさんの悲劇が起こったわ。天変地異、争い……多くの罪なき人の命が奪われていくのを私も見た。今年は一段と多くの願い事が集まっているのは、きっとその所為なのかもしれないわね」

「ええ。『彼ら』は平穏を……いいえ、平和を心から望んでいる。その気持ちを願い事に託しているのですね」

織姫様は悲しそうに目を伏せた。地上の悲劇を心から嘆き、悲しんでいるのだ。僕達は『彼ら』と共存することはできない。しかし、いつしか『彼ら』が僕達の存在を認識し、織姫様と彦星様の逢瀬の日に願い事を託すようになってからは、「天と地は繋がっている。天の住民は天に住む者として地の住民を救っていかねばならない」と昔から言い伝えられてきた。

その為、下界で起こる様々な出来事を僕達はいつもこの天界から見守っているのである。住民達の中には『彼ら』の存在を否定する者もいる。しかし、織姫様はいつも『彼ら』の気持ちに寄り添って来られた。

遥か遠い昔から下界では醜い争いが絶えない。その光景を見る度に織姫様は胸を痛めている。そして、『彼ら』が少しでも平穏に暮らせるようにと、彦星様と共により多くの願い事を叶えているのである。

今、下界ではきっと、分厚い雲に覆われて美しい川が眺められないことを、そして願い事がもしかしたら叶わないかもしれないことを、『彼ら』は深く嘆いているに違いない。

ああ、どうか。織姫様と彦星様、そして『彼ら』の為にも、早くこの霧が晴れますように。

僕は目を閉じて、心の中で強くそう願った。すると、その時だった。

「かささぎさん!見て!」

突然、織姫様が声を上げた。驚いて目を開けた僕の前に広がっていた光景。それは、僕が強く願った、いいや、織姫様が心から強く願っていたであろう光景だった。

「霧が……霧が晴れた……織姫様!霧が晴れましたね!」

「ええ、ええ……本当に良かったわ……!」

織姫様はそう言って、はらはらと涙を零した。それはもちろん、嬉し涙だった。僕は自身の翼をそっと広げ、柔らかいその羽先で織姫様の涙を拭った。

「さぁ、織姫様。僕の背中にお乗りください。彦星様がお待ちですよ」

「ええ、そうね。早く行かなくちゃ」

織姫様は嬉しそうにそう言うと、彦星様へ差し上げる織物を大事そうに抱えながら僕の背中に腰を下ろした。僕は目一杯両翼を広げた。両足に力を入れ、地面を思い切り蹴って、飛び立った。

「……まぁ、とても美しい……!」

「ええ、今まで見た中で一番素晴らしい風景です」

ぐんぐんと上昇していく。真上から見下ろすその川は、とても美しかった。

霧が晴れ、月明かりが照らす水面はキラキラと輝いている。

地上から見るよりも大きく見える月が水面に映え、淡い銀色の光を放っていた。

穏やかな流れはさらさら、とした美しい音色を奏で、川辺に咲く背の低い草花が優しく風に揺れている。

ああ、そうだ、僕はこの光景を待っていたんだ。霧が完全に晴れた、この美しい風景の中を、翼を広げて思い切り飛ぶのだ。織姫様を彦星様の元へ送り届けるという使命を背負って。

その川はとても広く、渡り切るまでに時間がかかる。飛び立ってからしばらく、ようやく対岸が見えてきた。そこには、空を仰いで大きく手を振る彦星様の姿があった。その姿を確認すると、織姫様は嬉しそうな声を上げ、大きく手を振り返した。

地上に近づくにつれて、彦星様の顔がはっきりと見えるようになった。満面の笑みを浮かべている。彦星様もきっと、織姫様と同じように霧が晴れないことを嘆き、たった一人で悲しんでいたに違いない。その気持ちを考えると、僕は胸が締め付けられるような気がした。

僕は彦星様の傍らにゆっくりと降り立った。静かに両翼を折りたたむと、待ち切れない様子で織姫様が彦星様の元へ駆け寄っていった。

「彦星様、遅くなってごめんなさい」

「いいや、いいんだよ。今日は会えないかもしれないと思っていたから、無事に来てくれてとても嬉しいよ」

そう言って彦星様は織姫様を優しく抱き締めた。二人とも、とても嬉しそうな笑みを浮かべて見つめ合っている。ああ、本当に良かった……二人の仲睦まじい様子を見て、僕はホッと胸を撫で下ろす。

「彦星様、これは私があなたの為に織った物なの。受け取ってもらえるかしら?」

織姫様はそう言うと、大事そうに胸に抱えていた織物を彦星様へ差し出された。彦星様はそれをそっと受け取り、ありがとう、と言って微笑んだ。それはとても嬉しそうな笑顔だった。

「かささぎさん、霧が晴れたのはあなたが強く願ってくれたお陰でしょう。私、分かっていたわ」

「いつもありがとう、君がいなかったら僕達はずっと会えないままだからね」

「……いいえ、僕はただ、織姫様と彦星様の為に自分が出来ることをしただけです。お二人の愛があの霧を吹き飛ばしたのですよ」

僕がそう言うと、織姫様は頬を真っ赤に染め、恥ずかしそうにまぁ、と笑った。彦星様も嬉しそうな笑みを浮かべていた。

「さて、今日は大奮発だ。いつもの倍の願い事を叶えてあげよう」

「ええ、そうね。『彼ら』が少しでも幸せに、平穏に暮らせることを願いながら」

「ああ、そうだね」

織姫様と彦星様はそう言って、それぞれ両手を広げた。すると、それはやがて大きくなり、ぱぁっと明るい光を放つと無数の光の粒になった。キラキラと輝くその光の粒は雄大な川の水面に舞い降り、淡い光を放つとやがて消えていった。光の粒はその川を渡って、いずれ『彼ら』の元へ届くだろう。

「さぁ、織姫。こちらへおいで。今夜の月は一段と綺麗だ。一緒に眺めよう」

「ええ、彦星様。とても美しい月ね。美しい川に美しい月……今年もあなたと一緒に眺めることができて、私はとても幸せだわ」

二人は川の辺に並んで座った。織姫様が愛おしそうに彦星様の肩にもたれ掛かり、うっとりした表情で呟く。

水面には銀色の大きな月が映えて美しく輝き、

穏やかな川の流れはさらさら、とした美しい音色を奏で、

川辺に咲く背の低い草花は優しく風に揺れている。

その川の辺の美しい風景は、いつまでも、いつまでも、二人のことを優しく見守っているのだった。
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