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2章
葛藤~後編
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私はしばらくの間、研究所へ足を運ぶことが出来なかった。バイコヌールへの出発があと2、3日後に迫っていたが、傷ついた心はそう簡単に癒えるはずがなく、食べ物を口にすることさえできずに空虚な日々を送っていた。心配したトレーナー仲間が訪ねて来たり、自宅の電話はいつも鳴りっぱなしだったが、私はその全てを拒んだ。もちろん、クドリャフカにも会うことはなかった。一体どんな顔をして会えばいいのか……彼女に合わせる顔がなかったし、会えばきっとまた泣いてしまうに違いないと思った。
ヤコフの言うことは全て正論だ。私はクドリャフカに情が移り過ぎてしまった。それは認めざるを得ない事実だった。私は宇宙が大好きで、それに携わる仕事をずっとしたいと思っていたのではなかったのか。たかが動物の命かもしれない。だけど、それを大切に思うことはいけないことなのか。私は間違っているのか。何が正しいのか、自分は何をやるべきなのか、何も分からなかった。答えが見つからないまま、時間だけが過ぎていった。
ある日の明け方、寝付けずにいた私はリビングの暖炉の前でぼんやりしていた。しかし、何者かの気配を感じて、ふと顔を上げたその瞬間、自身の目を疑った。見覚えのある茶色と白の毛、小さな体、そして大きくて真っ直ぐな瞳が私をじっと見つめていた。夜明けを待つ窓辺を背に、彼女は凛とした姿で確かにそこに座っていた。
「く、クドリャフカ……? 何故ここにいるの……?!」
私は驚きのあまり、肘掛椅子から立ち上がり、何度も自身の目を擦った。しかし、何度見返してもそれは紛れもなく、私の大切なパートナー、クドリャフカだった。私は一度だけ、彼女を自宅へ招いたことがある。しかし、研究所と自宅が近いとは言え、小さな犬がたった一匹で歩いて来られるような距離ではない。それに、いくら優秀な彼女でも一度来ただけの道のりを完璧に覚えられるはずがない。私は目の前の光景が信じられず、言葉を失ってしまった。すると、私のそんな様子をじっと見つめていた彼女がゆっくりと動き出した。
「研究所に来ないから心配で来てみたら……この様は何?!」
更に信じられないことに、クドリャフカが人間の言葉を喋り出したではないか。私は唖然として目の前の小さな犬を見つめた。
「オリガ、こんなことで落ち込むなんて君らしくないよ」
「ちょ、ちょっと待って。クドリャフカ、あなた、人間の言葉を話せるの? それとも私は幻覚を見ているのかしら? ヤコフの言う通り、私はいよいよ気が狂ってしまったのかしら……」
「私が人間の言葉を話せる訳ないでしょう? 普段はワン、とかクーン、しか言えなくて埒が明かないから流星にお願いして今日は特別に人間の言葉を話すことが出来るようにしてもらったんだよ。オリガにきちんと話をする為にね。だから、今、君が見ている私は本物の私だよ」
クドリャフカは自信に満ちた表情でそう語っていたが、私は信じられなかった。目の前で急に犬が人間の言葉を喋り出したら誰だって驚くはずだ。嘘よ……こんなの絶対あり得ないわ……私は幻覚を見ているの。そう、これはただの夢……そう、これはただの……私はうわ言のようにボソボソとただひたすら何かを呟いていた。
頭が混乱して、自分が今、何を発しているのか、私自身も全く分からなかった。すると、そんな私の姿を見ていたクドリャフカが、痺れを切らした様子で口を開いた。
「信じてもらえないならそれでいい。だけど、私には時間がない。だから、オリガ、とにかく今は私の話を聞いてくれる? どうしても伝えたいことがあるんだ」
私はまだ目の前の光景を信じられずにいたが、とりあえず彼女の話を聞くことにした。分かった、と呟いて、再び肘掛椅子に座った。
「結論から言う。私は、自分が宇宙から帰ることが出来ないってこと、知ってるんだ。それに関して、イワンがたった一人で手を尽くしてくれたことも全部知ってる。君達トレーナーが帰宅した後、彼は上層部に宛てて嘆願書を書いたり、電話を掛けたりしていた」
彼女の話によると、嘆願書を提出したことでイワンは政府に呼び出されたらしい。そこで政府の重鎮を相手に、スプートニク二号に帰還装置を付ける為の猶予を与えて欲しいと直談判したそうだ。しかし、彼らは、できない、無理だ、の一点張り。それでも一向に引き下がらないイワンに業を煮やした彼らは終いに「君もしつこい男だな。それ以上その話を口にしたらクビにするぞ!」と脅しをかけたという。
イワンはクビにでも何でもしてくれと、当初は思ったそうだ。しかし、彼は与えられた仕事は最後までやり遂げる、非常に責任感のある人間だった。それに、自分の身勝手で大切な犬たちやトレーナーのことを途中で放棄する訳にはいかないと思ったらしい。彼は何も出来ない自分自身、そして周りの意見を聞き入れない政府の昔から何ら変化のない体質に憤りを感じていた。クドリャフカの顔を見る度に、いつも申し訳なさそうな表情を浮かべていたという。彼は誰にも相談できず、たった一人で苦しんでいたはずだ。クドリャフカはそれを全て知っていた。
「だからどうか、イワンのことを責めないで欲しい。彼は彼なりに努力しているんだ。私、そんなイワンを見ているのがとても辛かった……人間の言葉が話せたら、今すぐイワンに『大丈夫だよ』って言えるのにっていつも思ってた……」
「イワンの気持ちは分かったわ。だけど……あなたはどうなの? もう二度と地球に戻ることはないのよ? それはつまり、宇宙で死ぬってことなのよ? 怖くないの? 自分は見殺しにされるって、怒りを感じたり、酷いことだと思わないの?」
今まで溜まっていた様々な思いを吐き出すようにそう畳み掛けると、彼女は少しだけ戸惑いの表情を見せた。イワンの気持ちは分かった。しかし、クドリャフカの……彼女自身の気持ちはどうなのか。彼女は宇宙から帰ることが出来ないことを嘆いてはいないのだろうか。私にとってそれは一番の疑問だった。
「オリガの言うとおり、知った時はショックだったよ。それは当たり前。私、イワンがヤコフに電話を掛けているところを偶然見てしまって、それで知ったんだ……だけど、私は宇宙に行けるなら命なんて惜しくないと思った。だって、人間よりも先に宇宙を体験出来るんだ、凄いことだと思わない?!」
クドリャフカは目を輝かせてそう言ったが、私は返す言葉が何も見つからず、ただ黙っていた。
「そう思えたのは、オリガ、君がいつも私に宇宙の話をしてくれたからなんだよ。星座、惑星、銀河……聞いているだけでとてもワクワクした。君と一緒に星座を見つけられた時、嬉しかったなぁ。いつか私も、宇宙からこの地球を眺めてみたいっていつも思ってたんだ。……私もみんながいるこの場所が好きだし、何よりオリガと離れるのはとても辛い。それも、永遠の別れだなんて……でも、宇宙への思いを強くさせてくれたのは、君なんだよ。君がいなければ、私はあの厳しい訓練なんてどこかで放棄して、研究所から逃げ出してただろうね。この厳しい訓練をパスすれば宇宙へ行ける、そう思うと頑張れたんだ」
クドリャフカは私なんかよりも遥かに大人で、前向きだった。何より自信と覚悟があった。語り続ける彼女の目にはそれらが満ち溢れ、誰も知らない未来への可能性が無限に広がっていた。しかし、私は複雑な思いでいっぱいだった。彼女に覚悟を決めさせたのは私だ。何も知らない私が、彼女を宇宙への思いに縛り付けてしまった。宇宙になど興味を持たなければ、彼女の言う通り、クドリャフカは訓練を途中で放棄して研究所から逃げ出していたかもしれない。私はそうしてくれたら良かったのに、とさえ思ってしまった。ヤコフの言う通り、やはり私はクドリャフカに情が移り過ぎてしまったのかもしれない。ふとそう思った。
「君も知っている通り、私は野良犬だった。あの頃は食べる物もなく、惨めな毎日だったよ。眠る時、暑さや寒さを凌ぐ時に狭い場所にいたから閉鎖空間に閉じ込められる訓練はさほど苦にならなかったけど、暗闇の中で縛り付けられるのには耐えられなかった。
昔、子供に悪さをされたことがあるんだ……木に体を縛り付けられるっていう……一日中、誰にも助けてもらえなくて、真っ暗な夜を過ごさなければならなかった、あの時は本当に怖かった……その記憶が蘇ってきて怖かったんだよ。だけど、君は一緒に暗闇の中に入って、私を励まし続けてくれた。だからあの訓練を乗り超えられたんだ。それだけじゃない、イワンはもちろん研究所の人たちはみんなとても優しくしてくれた。毎日、ごはんを食べさせてくれて、暖かな寝床を用意してくれた。遊んでくれたし、話かけてくれた。いきなり大勢の人間に捕らえられて、研究所に連れて来られた時は怖かったけどね。でも、それまで一人ぼっちだった私は、ああ、人間ってこんなに温かったんだ、って思ったんだ。
だから、私はみんなのことが大好きだし、とても感謝してるんだ。だから、みんなの期待に応えたかった。こんなにちっぽけな自分でも少しでも、みんなの役に立ちたい、そう思ったんだ。私はこの地球上で、誰よりも早く宇宙に行く。そしてそれが成功したら、いつか君やイワンが宇宙に行ける日が来るかもしれない……
私は宇宙を旅した生物の第一号として、君達の望む、宇宙を身近に感じることのできる未来に向かって僅かでも光を照らすことができる。それが、私にできる君達への『恩返し』なんだよ……宇宙に行くのは簡単なことじゃない。そんなことは充分に分かってる。でも、例えどんなことがあっても、私は絶対に大丈夫だから」
私はクドリャフカのことを知っているつもりだった。だけど、何ひとつ知らなかった、分かっていなかったのだ。様々な感情に胸が押し潰されそうだった。私は彼女の思いを知らずに、勝手に正義を振りかざし、身勝手な言動で周りを困らせていたのだ。私はクドリャフカのことを、「かわいそう」だと思っていた。国の名誉の為に、自分の命を犠牲に……でもそれは違っていた。
「オリガ、君は今、自分は間違っていたと思ったはずだ。だけど、それは違うよ。君は間違ってなんかいない。私の命を大切に思ってくれて、ありがとう。君は私を『一人の人間』として見てくれた、向き合ってくれた。私はそれが何より嬉しかったんだよ」
クドリャフカは私の全てを理解していた。私がどう思い、どう感じているのか……まるで、母親の大きな愛に包まれているかのようだった。私は泣いた。声を上げて泣いた。彼女はとても素直で、勇敢で、優秀で……そして何より、思いやりに満ち溢れていた。彼女は、自身の中に確固たる信念と覚悟を持っている。それは、国の名誉なんかよりも遥かに尊く、美しいものだと私は心から思った。
「泣かないで、オリガ……」
すぐ近くで心配そうな声が聞こえた。私は咄嗟に顔を上げたが、涙で滲んで見えなかった。様々な感情が溢れ出して、自分は今、嬉しいのか、悲しいのか、何故泣いているのかさえ、もはや何も理解できなかった。
「安心してオリガ。私は宇宙へ行ったら、北極星や金星みたいに明るく輝く星になって、空から君をいつも見守っているから。だから、君は君の人生をしっかり生きて。それから、イワンにも『自分を責めないで、私のことを心配しないで』って伝えて欲しいんだ……もう夜が明けるよ、そろそろ行かなくちゃ……」
クドリャフカがため息をつき、とても名残惜しそうにそう言った。
「うん、うん……ありがとう、クドリャフカ……」
言いたいことはたくさんあった。けれど、この時の私には、ありがとう、とただひとこと言うだけで精一杯だった。
「明後日、バイコヌール宇宙基地へ出発するんだ。私、待ってるから。オリガに見送ってもらいたいんだ。必ず来てね……」
私は目を覚ました。肘掛椅子からゆっくりと体を起こす。暖炉の火はいつの間にか消え、霜が降りた冬の窓辺からは太陽の暖かな光が射し込んでいた。私は眩しさに目を細めながら、窓辺をじっと見つめた。彼女がそこにいた、という痕跡はなにひとつ見当たらなかった。
ただ、自身の頬を伝う一筋の涙の他には。
ヤコフの言うことは全て正論だ。私はクドリャフカに情が移り過ぎてしまった。それは認めざるを得ない事実だった。私は宇宙が大好きで、それに携わる仕事をずっとしたいと思っていたのではなかったのか。たかが動物の命かもしれない。だけど、それを大切に思うことはいけないことなのか。私は間違っているのか。何が正しいのか、自分は何をやるべきなのか、何も分からなかった。答えが見つからないまま、時間だけが過ぎていった。
ある日の明け方、寝付けずにいた私はリビングの暖炉の前でぼんやりしていた。しかし、何者かの気配を感じて、ふと顔を上げたその瞬間、自身の目を疑った。見覚えのある茶色と白の毛、小さな体、そして大きくて真っ直ぐな瞳が私をじっと見つめていた。夜明けを待つ窓辺を背に、彼女は凛とした姿で確かにそこに座っていた。
「く、クドリャフカ……? 何故ここにいるの……?!」
私は驚きのあまり、肘掛椅子から立ち上がり、何度も自身の目を擦った。しかし、何度見返してもそれは紛れもなく、私の大切なパートナー、クドリャフカだった。私は一度だけ、彼女を自宅へ招いたことがある。しかし、研究所と自宅が近いとは言え、小さな犬がたった一匹で歩いて来られるような距離ではない。それに、いくら優秀な彼女でも一度来ただけの道のりを完璧に覚えられるはずがない。私は目の前の光景が信じられず、言葉を失ってしまった。すると、私のそんな様子をじっと見つめていた彼女がゆっくりと動き出した。
「研究所に来ないから心配で来てみたら……この様は何?!」
更に信じられないことに、クドリャフカが人間の言葉を喋り出したではないか。私は唖然として目の前の小さな犬を見つめた。
「オリガ、こんなことで落ち込むなんて君らしくないよ」
「ちょ、ちょっと待って。クドリャフカ、あなた、人間の言葉を話せるの? それとも私は幻覚を見ているのかしら? ヤコフの言う通り、私はいよいよ気が狂ってしまったのかしら……」
「私が人間の言葉を話せる訳ないでしょう? 普段はワン、とかクーン、しか言えなくて埒が明かないから流星にお願いして今日は特別に人間の言葉を話すことが出来るようにしてもらったんだよ。オリガにきちんと話をする為にね。だから、今、君が見ている私は本物の私だよ」
クドリャフカは自信に満ちた表情でそう語っていたが、私は信じられなかった。目の前で急に犬が人間の言葉を喋り出したら誰だって驚くはずだ。嘘よ……こんなの絶対あり得ないわ……私は幻覚を見ているの。そう、これはただの夢……そう、これはただの……私はうわ言のようにボソボソとただひたすら何かを呟いていた。
頭が混乱して、自分が今、何を発しているのか、私自身も全く分からなかった。すると、そんな私の姿を見ていたクドリャフカが、痺れを切らした様子で口を開いた。
「信じてもらえないならそれでいい。だけど、私には時間がない。だから、オリガ、とにかく今は私の話を聞いてくれる? どうしても伝えたいことがあるんだ」
私はまだ目の前の光景を信じられずにいたが、とりあえず彼女の話を聞くことにした。分かった、と呟いて、再び肘掛椅子に座った。
「結論から言う。私は、自分が宇宙から帰ることが出来ないってこと、知ってるんだ。それに関して、イワンがたった一人で手を尽くしてくれたことも全部知ってる。君達トレーナーが帰宅した後、彼は上層部に宛てて嘆願書を書いたり、電話を掛けたりしていた」
彼女の話によると、嘆願書を提出したことでイワンは政府に呼び出されたらしい。そこで政府の重鎮を相手に、スプートニク二号に帰還装置を付ける為の猶予を与えて欲しいと直談判したそうだ。しかし、彼らは、できない、無理だ、の一点張り。それでも一向に引き下がらないイワンに業を煮やした彼らは終いに「君もしつこい男だな。それ以上その話を口にしたらクビにするぞ!」と脅しをかけたという。
イワンはクビにでも何でもしてくれと、当初は思ったそうだ。しかし、彼は与えられた仕事は最後までやり遂げる、非常に責任感のある人間だった。それに、自分の身勝手で大切な犬たちやトレーナーのことを途中で放棄する訳にはいかないと思ったらしい。彼は何も出来ない自分自身、そして周りの意見を聞き入れない政府の昔から何ら変化のない体質に憤りを感じていた。クドリャフカの顔を見る度に、いつも申し訳なさそうな表情を浮かべていたという。彼は誰にも相談できず、たった一人で苦しんでいたはずだ。クドリャフカはそれを全て知っていた。
「だからどうか、イワンのことを責めないで欲しい。彼は彼なりに努力しているんだ。私、そんなイワンを見ているのがとても辛かった……人間の言葉が話せたら、今すぐイワンに『大丈夫だよ』って言えるのにっていつも思ってた……」
「イワンの気持ちは分かったわ。だけど……あなたはどうなの? もう二度と地球に戻ることはないのよ? それはつまり、宇宙で死ぬってことなのよ? 怖くないの? 自分は見殺しにされるって、怒りを感じたり、酷いことだと思わないの?」
今まで溜まっていた様々な思いを吐き出すようにそう畳み掛けると、彼女は少しだけ戸惑いの表情を見せた。イワンの気持ちは分かった。しかし、クドリャフカの……彼女自身の気持ちはどうなのか。彼女は宇宙から帰ることが出来ないことを嘆いてはいないのだろうか。私にとってそれは一番の疑問だった。
「オリガの言うとおり、知った時はショックだったよ。それは当たり前。私、イワンがヤコフに電話を掛けているところを偶然見てしまって、それで知ったんだ……だけど、私は宇宙に行けるなら命なんて惜しくないと思った。だって、人間よりも先に宇宙を体験出来るんだ、凄いことだと思わない?!」
クドリャフカは目を輝かせてそう言ったが、私は返す言葉が何も見つからず、ただ黙っていた。
「そう思えたのは、オリガ、君がいつも私に宇宙の話をしてくれたからなんだよ。星座、惑星、銀河……聞いているだけでとてもワクワクした。君と一緒に星座を見つけられた時、嬉しかったなぁ。いつか私も、宇宙からこの地球を眺めてみたいっていつも思ってたんだ。……私もみんながいるこの場所が好きだし、何よりオリガと離れるのはとても辛い。それも、永遠の別れだなんて……でも、宇宙への思いを強くさせてくれたのは、君なんだよ。君がいなければ、私はあの厳しい訓練なんてどこかで放棄して、研究所から逃げ出してただろうね。この厳しい訓練をパスすれば宇宙へ行ける、そう思うと頑張れたんだ」
クドリャフカは私なんかよりも遥かに大人で、前向きだった。何より自信と覚悟があった。語り続ける彼女の目にはそれらが満ち溢れ、誰も知らない未来への可能性が無限に広がっていた。しかし、私は複雑な思いでいっぱいだった。彼女に覚悟を決めさせたのは私だ。何も知らない私が、彼女を宇宙への思いに縛り付けてしまった。宇宙になど興味を持たなければ、彼女の言う通り、クドリャフカは訓練を途中で放棄して研究所から逃げ出していたかもしれない。私はそうしてくれたら良かったのに、とさえ思ってしまった。ヤコフの言う通り、やはり私はクドリャフカに情が移り過ぎてしまったのかもしれない。ふとそう思った。
「君も知っている通り、私は野良犬だった。あの頃は食べる物もなく、惨めな毎日だったよ。眠る時、暑さや寒さを凌ぐ時に狭い場所にいたから閉鎖空間に閉じ込められる訓練はさほど苦にならなかったけど、暗闇の中で縛り付けられるのには耐えられなかった。
昔、子供に悪さをされたことがあるんだ……木に体を縛り付けられるっていう……一日中、誰にも助けてもらえなくて、真っ暗な夜を過ごさなければならなかった、あの時は本当に怖かった……その記憶が蘇ってきて怖かったんだよ。だけど、君は一緒に暗闇の中に入って、私を励まし続けてくれた。だからあの訓練を乗り超えられたんだ。それだけじゃない、イワンはもちろん研究所の人たちはみんなとても優しくしてくれた。毎日、ごはんを食べさせてくれて、暖かな寝床を用意してくれた。遊んでくれたし、話かけてくれた。いきなり大勢の人間に捕らえられて、研究所に連れて来られた時は怖かったけどね。でも、それまで一人ぼっちだった私は、ああ、人間ってこんなに温かったんだ、って思ったんだ。
だから、私はみんなのことが大好きだし、とても感謝してるんだ。だから、みんなの期待に応えたかった。こんなにちっぽけな自分でも少しでも、みんなの役に立ちたい、そう思ったんだ。私はこの地球上で、誰よりも早く宇宙に行く。そしてそれが成功したら、いつか君やイワンが宇宙に行ける日が来るかもしれない……
私は宇宙を旅した生物の第一号として、君達の望む、宇宙を身近に感じることのできる未来に向かって僅かでも光を照らすことができる。それが、私にできる君達への『恩返し』なんだよ……宇宙に行くのは簡単なことじゃない。そんなことは充分に分かってる。でも、例えどんなことがあっても、私は絶対に大丈夫だから」
私はクドリャフカのことを知っているつもりだった。だけど、何ひとつ知らなかった、分かっていなかったのだ。様々な感情に胸が押し潰されそうだった。私は彼女の思いを知らずに、勝手に正義を振りかざし、身勝手な言動で周りを困らせていたのだ。私はクドリャフカのことを、「かわいそう」だと思っていた。国の名誉の為に、自分の命を犠牲に……でもそれは違っていた。
「オリガ、君は今、自分は間違っていたと思ったはずだ。だけど、それは違うよ。君は間違ってなんかいない。私の命を大切に思ってくれて、ありがとう。君は私を『一人の人間』として見てくれた、向き合ってくれた。私はそれが何より嬉しかったんだよ」
クドリャフカは私の全てを理解していた。私がどう思い、どう感じているのか……まるで、母親の大きな愛に包まれているかのようだった。私は泣いた。声を上げて泣いた。彼女はとても素直で、勇敢で、優秀で……そして何より、思いやりに満ち溢れていた。彼女は、自身の中に確固たる信念と覚悟を持っている。それは、国の名誉なんかよりも遥かに尊く、美しいものだと私は心から思った。
「泣かないで、オリガ……」
すぐ近くで心配そうな声が聞こえた。私は咄嗟に顔を上げたが、涙で滲んで見えなかった。様々な感情が溢れ出して、自分は今、嬉しいのか、悲しいのか、何故泣いているのかさえ、もはや何も理解できなかった。
「安心してオリガ。私は宇宙へ行ったら、北極星や金星みたいに明るく輝く星になって、空から君をいつも見守っているから。だから、君は君の人生をしっかり生きて。それから、イワンにも『自分を責めないで、私のことを心配しないで』って伝えて欲しいんだ……もう夜が明けるよ、そろそろ行かなくちゃ……」
クドリャフカがため息をつき、とても名残惜しそうにそう言った。
「うん、うん……ありがとう、クドリャフカ……」
言いたいことはたくさんあった。けれど、この時の私には、ありがとう、とただひとこと言うだけで精一杯だった。
「明後日、バイコヌール宇宙基地へ出発するんだ。私、待ってるから。オリガに見送ってもらいたいんだ。必ず来てね……」
私は目を覚ました。肘掛椅子からゆっくりと体を起こす。暖炉の火はいつの間にか消え、霜が降りた冬の窓辺からは太陽の暖かな光が射し込んでいた。私は眩しさに目を細めながら、窓辺をじっと見つめた。彼女がそこにいた、という痕跡はなにひとつ見当たらなかった。
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