星になった犬

星名雪子

文字の大きさ
6 / 10
3章

最後の水~前編

しおりを挟む
翌日、私は研究所へ足を運んだ。久しぶりに私が姿を現したので、イワンを始め、トレーナーたちが目を丸くして驚いていた。

「オリガ、よく来てくれたね」

イワンは私の顔を見ると微笑んだ。元々スマートな体格をしていたが、久しぶりに会った彼はまた一段と痩せたようだった。その姿を見て、数日前に本部に行った時のことを思い出した。彼には酷く迷惑をかけてしまった。私はとても申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「イワン……色々と迷惑をかけてしまってごめんなさい」

「いいや、いいんだよ。君がまた戻って来てくれて僕は嬉しいよ。さあ、そんなことより、相棒がお待ちかねだよ」

彼はそう言うと、後ろを振り返って手招きをした。広い訓練室の奥から軽やかな足音が聞こえてくる。

「クドリャフカ!」

夢中で飛び込んで来たその体を私は大きく両手を広げ、全力で受け止めた。小さな体を思い切り抱きしめて私は言った。

「クドリャフカ、どうもありがとう」

彼女は私の頬をぺろぺろと舐めると、小さな尻尾を左右に大きく振った。彼女は何も言わなかったが、喜びを全身で表現してくれた。こちらを見つめるその大きな瞳はとても輝いている。私は昨夜のことを思い出し、彼女のことをより一層愛おしく思った。

明日の出発に備え、私達トレーナーは一日様々な事柄の最終確認に追われた。もちろん、クドリャフカの身体検査やトレーニングも怠らない。彼女は皆が驚く程、堂々としていた。打ち上げが間近に迫り、不安に包まれていた研究所内は彼女のその凛とした姿のおかげでみるみる内に活気を取り戻していった。今や研究所にいる誰もが、犬であるクドリャフカに尊敬の念を抱いていた。

慌ただしい一日が終わり、一息を吐こうと休憩室で暖かいコーヒーを飲んでいると、イワンがやって来た。私の隣の椅子に座ると、ふと周りをきょろきょろと見渡した。

「今ここには私以外、誰もいないわ」

「……それなら良かった」

ガランとした休憩室には私と彼の他に人影はなく、カーテンもない剥き出しの窓ガラスは外の寒さで薄っすらと雲っていた。彼はその曇りガラスをしばらくじっと見つめていたが、大きく息を吸い込むと私の方に体を向けた。唇をきゅっと結んだその表情は何かを決意しているかのようだった。彼のその真剣な眼差しに圧倒され、私は思わず息を飲んで姿勢を正した。

「オリガ、君にお願いがあるんだ」

「……なに?」

「今晩、クドリャフカを僕の家に連れて行きたいんだ……構わないかな?」

「……えっ」

彼の言葉に、私は思わず拍子抜けしてしまった。その間、一瞬の沈黙があったが、椅子の背もたれに大きく体を預けて私は言葉を続けた。

「……なんだ、もっと深刻なことかと思ったわ。」

「どういうことだい?」

「クドリャフカについてもっと悪い知らせか……もしくは私が彼女の担当をクビになるとか……」

イワンは私の言葉に目を丸くして驚いていた。そして、そんなことはあり得ない、とでも言うように首を大きく横に振った。

「厳しいヤコフでもさすがにこのタイミングで君をクビにすることはないよ。むしろ彼は君に期待しているようだ。それから……」

そう言うと彼は一旦言葉を切って、私の目をじっと見つめた。何かを口にするのを躊躇っているようだった。私はそれを何となく感じ取り、彼より先に口を開いた。

「これ以上、悪い知らせなんてある訳がないわよね!」

あえて明るい調子で口にすると、彼は少しだけ驚いた顔をした。その瞳は、私が本心で言っているのかを探っているかのようだった。確かに、数日前までの私はクドリャフカに対して、どうしようもないくらいネガティブになっていた。けれど、昨夜の彼女との出会いが私を変えてくれたのだ。自分の気持ちに偽りがないことを伝えるため、私は彼に心からの笑顔を見せた。

「クドリャフカにしっかりお別れを……いいえ、ありがとうって言ってあげてね」

「……ああ、分かったよ。本当に……君の言う通りだね」

イワンはそう言って微笑みながら頷いた。しかし、その瞳はやはりどこか悲しげだった。

「僕はクドリャフカに、少しでもいいから彼女の為に……何かしてあげたいと思ってるんだ。僕の家には妻と子供がいる。彼女達にはずっとクドリャフカのことを話してきたから、この機会に会わせたい。彼女達と一緒にクドリャフカに楽しい思い出を作ってあげたいんだ」

私は何も言わずに彼の話を聞き、深く頷いた。すると、イワンは表情を一変させた。申し訳なさそうに俯いている。

「クドリャフカとここで過ごせる最後の夜なのに……君から彼女を奪ってしまう形になってしまって、本当に申し訳ないと思ってる」

「イワン、気にしないで。彼女は私だけのパートナーじゃないわ。彼女にとって、あなたは大切なパートナーの一人なのよ」

「オリガ……」

「だから、申し訳ないなんて言わないで。彼女、きっとあなたと、ご家族と過ごせることをとても嬉しく思ってくれるはずよ。彼女に楽しい思い出を作ってあげてね」

私がニコリと笑ってそう言うと、イワンは目に涙をいっぱい溜めて、ありがとう、と呟いた。その夜、クドリャフカはイワンの家族に暖かく迎えられ、楽しい夜を過ごした。イワンの子供達はクドリャフカのことを大変気に入り、片時も傍を離れようとはしなかったという。クドリャフカもまるで子供に戻ったかのようにはしゃぎまわり、家族によく懐いたそうだ。この幸せが長く続けばいい、いっそのこと、クドリャフカをこのまま自分の家に住まわせてしまおうかと、心からそう思ったと、イワンは後に私に語ってくれた。

翌日の早朝、私達はカザフスタンにあるバイコヌール宇宙基地へ向かった。モスクワから専用機で約三時間半の長旅だ。小型の専用機といえども遥かに巨大な飛行機を見上げて、クドリャフカは驚いた様子を見せたがすぐに慣れた。長年の訓練のおかげだろう。フライトに問題はなく、一行は無事に基地へ到着。ヤコフの采配によってそれぞれが持ち場を割り振られ、休む間もなく本格的な打ち上げ準備に入った。

午前10時過ぎ、私とクドリャフカは最後の散歩を終えた。彼女と並んで歩く、最後の道のりは私に様々なことを思い出させた。初めて彼女と歩いた日のこと、初めて心を通わせることができた日のこと……様々な感情が胸に沸き起こり、私はその度に言葉に詰まってしまったが、クドリャフカはそんな私を見上げ、私の目をじっと見つめた。それはあの夜、彼女が私に自分自身の決意を語った時と全く同じ、迷いのない真っすぐな瞳だった。私は彼女の瞳の奥にあるその決意に満ちた思いを感じ、ハッと我に返った。そして、彼女の頭を優しく撫でて、ニコリと笑ったのだった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

サイレント・サブマリン ―虚構の海―

来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。 科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。 電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。 小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。 「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」 しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。 謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か—— そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。 記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える—— これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。 【全17話完結】

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

処理中です...