星になった犬

星名雪子

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4章

旅立ち

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午前5時半、空は白み始め、東の山々の向こう側は、今にも太陽が顔を出しそうに美しいオレンジ色に染まっていた。もうすぐ長い夜が明ける。管制室には大勢の人がいた。皆、真剣な眼差しで目の前にある大きなモニターをじっと見つめている。

クドリャフカとスプートニク二号を乗せた巨大なロケットが朝と夜の間の濃紺の澄んだ空に向かってそびえ立ち、オレンジ色に染まっている。ピンと張り詰めた緊張感に自身の胸の鼓動が早まるのが分かった。準備は整った。いよいよ打ち上げである。ヤコフがロランに発射を促すサインを出した。ロランは大きく頷くと、真剣な面持ちで口を開いた。

「ロケット打ち上げまで、5、4、3……」

カウントダウンが始まった。管制室の誰もが息を飲み、ロランのカウントを見守る。

「エンジン点火! 2……」

ロケットは下部から大量の煙を勢いよく吐き出し、ゴゴゴと大きな音を立てて揺れている。

「1、ゼロ、発射!」

大量の煙を噴き上げながら、ロケットは空へ向かって高く飛び立った。もの凄い揺れ、そして轟音だ。それは管制室にまで伝わり、私は足を踏ん張りそれを全身で受け止めた。ロケットは高く、高く昇っていった。それは、濃紺から澄んだ青色に変わる夜明けの空に、ひときわ美しく輝いていた。

全員が息を飲んで見守る中、やがてロケットの軌道投入が確認された。ロランからの報告を聞き、ヤコフは喜びに頬を紅潮させ、管制室中に聞こえるぐらいの大きな声で言った。

「諸君! よくやった、おめでとう! スプートニク二号の打ち上げは無事に成功した!」

室内に大きな拍手と歓声が上がった。ヤコフはすぐに受話器を取り、素早くダイヤルを回した。彼は上機嫌で打ち上げ成功を報告している。相手は恐らく国家関係者だろう。この第一報を聞きつけたソ連の共産党機関紙はすぐに打ち上げ成功の記事を出した。

後に聞いた話によると、この記事は打ち上げ前から書き上げられ既に準備されていたそうだ。この第一報は国家だけではなく、モスクワの放送局から全世界に速報として発信された。誰もがこの第一報に驚き、歓声を上げたに違いない。しかし、私の胸にはまだ不安が残っていた。クドリャフカの存在だ。彼女は果たして無事なのだろうか。彼女の状況を知らせるデータは、宇宙に旅立ったスプートニク二号からはまだ届いていないようだった。しばらく時間が経ち、スプートニク二号は地球を一周した。そして、そこで新たなデータを受信することに成功した。

「おい……みんな、喜べ、クドリャフカが生きてるぞ!」

データを確認したロランが勢いよく椅子から立ち上がって叫んだ。私は嬉しさのあまり飛び上がって喜びの声を上げた。まるで子供のようだと我ながら思った。管制室は大きな歓声に包まれた。先ほどとは比べものにならないくらい盛大なものだった。沸き起こる拍手と歓声。誰もが手を取り合い、喜びを分かち合っていた。

全員が苦労に苦労を重ねて来たスプートニク二号飛行計画は無事に成功したのだ。生物を生きたまま宇宙空間へ送り込む……ライバルである米国よりも先に、いや、この世界中で我が国が初めて成し遂げた偉業である。ヤコフは再び受話器を手にとり、クドリャフカ生存の報告をしていた。そして、それが終わると真っ先に私の方へ駆けて来た。

「オリガ、お前は本当によくやってくれた。礼を言うぞ」

「いいえ、私は何も……全て優秀なクドリャフカが成し遂げたことです」

「ハハハッ何を言っている。その優秀な犬を育てたのはお前だろう! 胸を張っていいんだぞ!」

彼は満面の笑顔でそう言うと私の背中を叩いた。こんなに上機嫌なヤコフを私は初めて見た。彼はその後、私に向けたのと同じ満面の笑顔でそれぞれの部署のリーダーを称えていた。ロケット打ち上げの時よりも更に喜びに満ち溢れている。私はクドリャフカのことを思い浮かべた。ああ、今すぐ彼女を抱きしめて、よくやった、と頭を撫でてやりたい。あなたは最高だと、褒め称えたい。心からそう思った。ふと、視線を感じて隣に顔を向けた。イワンと目が合った。

「オリガ、よく頑張ってくれたね。君のおかげだよ」

「私は何も…全てクドリャフカのおかげよ」

イワンはいつものように優しい笑みを浮かべていた。喜び、というよりもホッと安堵したようなそんな表情だった。ロランによると、スプートニク二号は何も無ければこのまま予定通りに地球を周回するだろう、ということだった。

私は安心して背伸びをすると一旦管制室を出て、休憩室へ向かった。窓際の椅子に座って暖かいコーヒーを飲む。

クドリャフカは宇宙へと旅立った。今頃、覗き窓から見える無数の星々に心を躍らせていることだろう。オレンジ色の美しい朝日が、何もなくなり抜け殻になった射場を優しく照らしていた。

しばらくして管制室へ戻ると、何やら慌ただしい様子だった。嫌な予感がした。扉の前で立ち尽くしていると、イワンが駆けて来て言った。先ほどの優しい笑みは一瞬の内に消え去り、今彼の眉間には深い皺が寄っている。

「ああ、オリガ! 落ち着いて聞いてくれ、大変なことが起こった」

「……えっ何? 一体何が起きたの?」

「さっき、スプートニク二号が三度目の周回を終えたんだ、だけど、データを取ってみたら……」

イワンが言いかけたその時、ロランが大声を挙げた。

「カプセル内部の温度が跳ね上がってやがる!」

室内にどよめきが起こった。ヤコフが血相を変えてロランの元へ駆けつける。

「なんだと?! どれくらい上がっている?!」

「よ、40度です!」

「よ、40度だと?! 何故そのようなことが起きた?!」

「だ、断熱材の一部が損傷した模様です……っ」

室内にざわめきが広がる。女性陣からは悲鳴に似た声も上がっている。先ほどの喜びからは一転、瞬く間に奈落の底へと突き落とされたような気分だった。私はたまらなくなって、二人の間に割って入った。イワンが止めようとしたが、それを振り切った。

「クドリャフカは?!彼女は生きているんですよね? 無事なんですよね?!」

ヤコフとロランは突然割り込んで来た私を見て一瞬、驚いた顔をしたが「クドリャフカ」という名前を聞いたロランがハッとした表情を浮かべて再びデータを確認し始めた。そして、思い切り顔を歪ませて言った。

「クドリャフカの生体データが異常な程に跳ね上がってる……これは熱さに激しく動揺してる証拠だ」

「そ、そんな……彼女は今、熱さに苦しんでいるということ?!」

「ああ……そうだ……っ」

ロランの声が微かに震えていた。彼はきっと私とイワンが最後に水をあげた時のクドリャフカの様子を思い出したに違いない。私も全く同じだった。ああ、今すぐ彼女の元へ飛んでいき、あの狭くて小さなカプセルの中から彼女を救い出してあげたい。私は心からそう思った。しかし、そんなことは不可能だ。

「な、何とかならないんですか?! あのカプセルの内部には色々な機能が備わっているんでしょう?!」

「オリガ! いい加減にしろ! 宇宙空間で何かが起こっても我々には何もできない、それはお前にも説明したはずだ! 何度言えば分かるのだ!」

「っ……」

ヤコフの言う通りだった。私はそうしたリスクについてきちんと説明を受けていた。そして、それを忘れてなどいないし、理解していたはずだった。しかし、実際に目の当たりにした今、それを受け入れられるはずがなかった。彼女が苦しんでいるのを、ただ見ていることしかできない。仕方がないことだとしても、私は自分を情けなく思った。悔しく思った。

誰も何も言わなかった。人々は皆、ただ祈るような気持でクドリャフカの無事を願っていた。そんな中、再び周回を終えたスプートニク二号からデータが取得された。全員が息を飲んで見守る。

「……ゼロです」

「ロラン、どういうことだ? もっと詳しく教えろ」

「クドリャフカの生体データはゼロです……彼女は……死にました……っ」

人々は絶句した。しん、と静まり返った室内には、コンピュータの規則正しい機械音だけが静かに響いていた。ヤコフはしばらくデータをじっと見つめていたが、やがて何も言わずに室内から出ていった。彼女が宇宙へ旅立って僅か5,6時間後のことだった。あまりにも予期せぬ、そして早すぎる結末だった。

胸が張り裂けそうだった。苦しくて苦しくて、上手く息を吸うことができない。全身の力が抜け、地面にへたり込む。彼女はあの暗闇の中、体を固定され身動きも取れないまま想像を絶する熱さに襲われ、力尽きたのだ。どんなに熱くて苦しかっただろう……

彼女の最期の瞬間を想像するだけで胸が苦しくなった。全く予想もしなかった、あまりに酷すぎる現実を、私はどうしても受け入れることが出来なかった。いっそのこと泣きたかった。しかし泣けなかった。あまりにもショックで、感情が麻痺してしまったようだった。私の様子を見兼ねたのか、イワンが駆け寄って来た。彼は何も言わずに私の肩を抱いて、管制室の外へ連れ出したのだった。

イワンは私を再び休憩室へ連れて行った。私とイワンの他に、休憩室には誰もいなかった。先ほどは歓喜の思いで見た窓辺の景色も今は悲しいものにしか見えない。イワンは何も言わずに私の目の前にカップを置いた。暖かそうな湯気が立ち上り、コーヒーの良い香りがした。しかし、私は口をつける気にはなれなかった。長い沈黙だった。私とイワンは何度この沈黙を繰り返したことだろう。時には私が落ち込み、時にはイワンが落ち込み……

「……オリガ、悲しいことだけど、これが現実だよ」

「……分かってる……だけど……っ」

厳しい言葉だった。しかし、そんなことは充分に分かっている。クドリャフカが自分は地球に帰ることができないことを知り、それを受け入れる姿を見て、私自身も決意することができた。しかし、こんな形で彼女が命を落とすなんて……もしかしたら「どうせ死ぬんだからどんな方法でも同じだろう」と辛辣に思う人がいるかもしれない。けれど、私はこんな結末を望んでいた訳ではない。もちろん、彼女だって同じはずだ。私は胸に詰まっていたそうした思いをイワンに吐き出した。すると、イワンは思い切り顔を歪めて強い口調でこう言い放った。

「彼女が僕や他の人間ではなくて君だけに会いに行ったのは、最も信頼する君に例えどんなことがあっても自分のことを信じて欲しいと思ったからじゃないのか?!」

「……っ?!」

「だったら、君は彼女を信じてあげるべきだろう? 彼女のパートナーとして君が一番しっかりしていなくてどうするんだ?!」

私はまるで雷に打たれたような気分だった。彼の言う通りだった。クドリャフカは私を信頼してくれていたから、私だけに会いに来てくれたのだ。そして「例えどんなことがあっても私は絶対に大丈夫だから」というあの言葉は「私を信じて」というメッセージでもあったのだ。私は現実に振り回されて、大切なことを忘れていたのだ。

「今一番やるべきなのは、彼女の死を悔しんだり哀れんだりすることじゃない、彼女が僕たちの未来の為に成し遂げたことを誇りに思うことじゃないのか?! そして、それをどうやって繋げていくかを考えることじゃないのか?!」

そう、私は悔しかったのだ。彼女が命を懸けて挑んだものがこのような悲惨な結末になってしまったことが。彼の言うことはとても理解できる。しかし、私は戸惑った。自分の気持ちに整理が付かない。今すぐに現実を受け入れられる自信がなかった。それを僅かに感じ取ったのか、イワンがこう続ける。

「……いいかい、オリガ。賢いクドリャフカならきっとこう言うはずだ。自分は宇宙で『どうやって死ぬか』ではなく、自分の死が『後世に何を残せるか』が最も大切なことだってね……だから君は、彼女の死を無駄にしない為に、彼女の分まで生きて前を向いて歩いていくべきなんだよ」

私は、うん、うん、と深く頷きながら彼の言葉を受け入れようとした。そのひとつひとつを噛み締める度に、色々な思いが込み上げた。自然と涙が溢れた。

「宇宙開発はまだ始まったばかりだ。だから、上手くいかないことが多くて当然なんだ……僕が何でそう思うまでに立ち直れたのか分かるかい?」

私は、いいえ、と首を横に振った。

「君は彼女の思いをきちんと僕に伝えてくれたね。確かに、彼女の真意は僕にとって衝撃的だった。でも、それ以上に僕は彼女の強い気持ちに心を動かされたんだ」

「イワン……」

「僕はあれから考えた。クドリャフカの死を無駄にしない為に、僕達に何が出来るだろうって……」

イワンは普段からとても賢明で、頭の回転や気持ちの切り替えが早い。ひとつの問題に深く思い悩みこそはするが、きっかけを見つけるとそれを受けて、すぐに次へ進むことができる人だった。だからこそ彼は、この短い間に自分の気持ちの整理を付け、答えを出せたのだろう。また、彼はそのような賢い人間だからこそ私達トレーナーと犬たちをまとめるリーダーを務めることができたのだ。

「イワン、あなたの言っていることはよく分かるわ。本当にその通りだと思う。だけど、私はまだ自分の気持ちの整理が付かない……今はまだ、現実を受け入れて前に進んでいける自信がないの……」

「オリガ……」

「もう少し、じっくり考えたいの。それでも構わないかしら?」

「ああ、構わないよ。どのような結果であれ、この計画は成功したんだ。あとは君の気持ち次第だよ。じっくり考えて、答えを見つけるといい」

イワンの言う通り、残された私達に出来ることは、クドリャフカの分も生き抜くこと、そして、命を懸けて彼女が成し遂げたことを必ず未来に繋げていくということだ。私達はここで悲しんだり、悔やんだりと立ち止まっている暇はない。しかし、私はじっくりと考えたかった。彼女が成し遂げたこと、その意味、そしてそれらが後世にどのような影響を与えるかを。

彼女は自身の誇りを胸に宇宙へと旅立った。次は私達の番だ。私達も、彼女と、そして自分の気持ちとしっかり向き合い、前を向いて歩き出さなければ。

私はふと窓の外に目をやった。そこには何もない射場と、どこまでも続く雪景色が広がっていた。そして、昇ったばかりの太陽はそれらを優しく照らしていたのだった。
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