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After rain comes fair weather.
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「夫としては勿論、あなたは父親としても最低だった。これ以上、私は自分の人生を無駄にしたくないの。……突然で申し訳ないけれど、あなたとは別れることにしたから」
深夜に帰宅してお茶漬けを啜っていたところ、背後に立ったパジャマ姿の妻が矢継ぎ早にそう宣告する。
突然の離婚話……驚きのあまり絶句する俺。
腕組みする妻はこの感情に気づかない。
「あなたはプログラマーとして一流かもしれない。けれども、私は生身の人間なの。C言語は一切通じないから。私は普通に会話ができる家庭を望んでいた。ただそれだけ。……私が凪紗を産んだ時だって、あなたは労いの言葉さえ掛けてくれなかった」
違う。あの時俺は感極まって……いや、どうでもいい言い訳だな、今の妻にしてみれば。
「凪紗も承諾してくれたわ、私達の離婚に」
心臓が止まりそうだった。
私達の……?
違う。おまえが勝手に決めたことだ。
硬直した俺など物ともせず、「でもね」と妻が付け加える。
「一つ条件を出したわ。最後に三人で旅行がしたいんですって。最後どころか最初だけどね。……あの子には何にもないのよ。家族の思い出が」
家族旅行か。
夢のような話だな。ハネムーンにさえ行けなかったのに。
「慰謝料はいらないわ」
妻は表情なくそう言った。
「だから何が何でも、クビ覚悟で休暇を取りなさい。……絶対よ? 最低の父親のまま凪紗と離れたくなかったら、せめてそれくらいの誠意を示してよね。じゃ、おやすみなさい」
キッチンに一人残された俺。
Ctrl+Alt+Delete……タスクマネージャ表示。
よかった、何とか硬直解除。
茶碗と箸を置き、俺はネクタイを外して漸く溜息をついた。
*****
沖縄滞在五日目。
今日も強い雨が降っている。窓からすぐ見えるビーチには一度も足をつけていない。ホテルの一室、ただただ時間だけが過ぎて行く。
会社に長期休暇を申請したところ、拍子抜けするほど簡単に取得できた。ホッとしたと同時に何だか淋しくもあった。俺が抜けた穴は誰にも務まらないと思っていたが、どうやらそれは自惚れだったようだ。
沖縄に来て一度も妻とは会話していない。無論、東京でも同じだが。
その分、受動的ではあるにせよ、凪紗とはよく話す。
東京に戻れば、俺達には別々の暮らしが待っている。俺以上に凪紗の方がそれを強く意識していた。旅行を提案したくらいだから当然かもしれないが。
13歳か。
早いものだ。すっかり大きくなった。露出の過ぎる薄いワンピースもそろそろ考え物だな。
「パパはヤンバルクイナって見たことある?」
「ないよ。沖縄に来たのも初めてなんだ」
「見てみたいなあ」
唇を尖らせて、両手で窓に触れる凪紗。
この雨続きだ。さぞ退屈しているだろう。俺は手元のスマホで検索する。
「名護のテーマパークで観れるらしいぞ。行ってみるか?」
凪紗はううんと首を振る。
「自然に生きてるやつがいいの」
「無茶言うなよ。現地の人だって滅多に見れないんだぞ」
「可哀想だよ、そのコ。ヤンバルクイナって飛べないんでしょ?」
「そうだよ」
地元新聞に目を落とす妻は無言で俺達の会話に耳を傾けている。
「だったら、せめて自由に歩きたいよ。……ねえ、ヤンバルクイナの翼って何のためにあるの?」
「進化だよ。ヤンバルクイナの翼は飛ぶ必要がなくなった名残でしかない」
「進化?」
珍しい。新聞を脇に置き、妻が口を挟んできた。
「退化じゃなく? 飛べなくなったのにそう呼ぶの?」
「翼に特化すれば確かに退化だけど、ヤンバルクイナ自体は進化したんだ。沖縄の森林に棲息する彼等にとって翼は邪魔でしかない。その分、太くて丈夫な足を手に入れたからね」
ふうんと突き出した唇に指をやる妻。こんなところも母娘でそっくりだ。
「珍しいわね」
「ヤンバルクイナが?」
「違うわ」
妻は自然に笑っていた。
「あなたがそんなに饒舌になるのが、よ。……そんなにヤンバルクイナに造詣が深いとはね」
俺はさりげなく検索画面を閉じようとしたら、スマホを凪紗に奪い取られた。
「ママ、違うよ。ホラ、ネットの受け売りじゃん!」
「あら、ホント。おかしいと思った」
二人揃って俺を笑いものにする。
だが、悪くない。寧ろ心地良い。このまま時間が止まってほしいとさえ感じた。
思い出せ。
こんな賑やかな場面を想像して、俺は妻と結婚し子を儲けたんじゃなかったのか?
無情の雨が相変わらずビーチに降り注ぐ。
俺は想像した。
この雨が嘘のようにピタッとやんで、素足でビーチに立つ娘の姿を。
雨上がりのレンブラント光線を体中に浴びながら、天使と化した凪紗が晴れ空に感謝して翼を広げるその姿を。
この世にやまない雨は存在しない。
二人につられた俺は、何時しか声を出して笑っていた。
深夜に帰宅してお茶漬けを啜っていたところ、背後に立ったパジャマ姿の妻が矢継ぎ早にそう宣告する。
突然の離婚話……驚きのあまり絶句する俺。
腕組みする妻はこの感情に気づかない。
「あなたはプログラマーとして一流かもしれない。けれども、私は生身の人間なの。C言語は一切通じないから。私は普通に会話ができる家庭を望んでいた。ただそれだけ。……私が凪紗を産んだ時だって、あなたは労いの言葉さえ掛けてくれなかった」
違う。あの時俺は感極まって……いや、どうでもいい言い訳だな、今の妻にしてみれば。
「凪紗も承諾してくれたわ、私達の離婚に」
心臓が止まりそうだった。
私達の……?
違う。おまえが勝手に決めたことだ。
硬直した俺など物ともせず、「でもね」と妻が付け加える。
「一つ条件を出したわ。最後に三人で旅行がしたいんですって。最後どころか最初だけどね。……あの子には何にもないのよ。家族の思い出が」
家族旅行か。
夢のような話だな。ハネムーンにさえ行けなかったのに。
「慰謝料はいらないわ」
妻は表情なくそう言った。
「だから何が何でも、クビ覚悟で休暇を取りなさい。……絶対よ? 最低の父親のまま凪紗と離れたくなかったら、せめてそれくらいの誠意を示してよね。じゃ、おやすみなさい」
キッチンに一人残された俺。
Ctrl+Alt+Delete……タスクマネージャ表示。
よかった、何とか硬直解除。
茶碗と箸を置き、俺はネクタイを外して漸く溜息をついた。
*****
沖縄滞在五日目。
今日も強い雨が降っている。窓からすぐ見えるビーチには一度も足をつけていない。ホテルの一室、ただただ時間だけが過ぎて行く。
会社に長期休暇を申請したところ、拍子抜けするほど簡単に取得できた。ホッとしたと同時に何だか淋しくもあった。俺が抜けた穴は誰にも務まらないと思っていたが、どうやらそれは自惚れだったようだ。
沖縄に来て一度も妻とは会話していない。無論、東京でも同じだが。
その分、受動的ではあるにせよ、凪紗とはよく話す。
東京に戻れば、俺達には別々の暮らしが待っている。俺以上に凪紗の方がそれを強く意識していた。旅行を提案したくらいだから当然かもしれないが。
13歳か。
早いものだ。すっかり大きくなった。露出の過ぎる薄いワンピースもそろそろ考え物だな。
「パパはヤンバルクイナって見たことある?」
「ないよ。沖縄に来たのも初めてなんだ」
「見てみたいなあ」
唇を尖らせて、両手で窓に触れる凪紗。
この雨続きだ。さぞ退屈しているだろう。俺は手元のスマホで検索する。
「名護のテーマパークで観れるらしいぞ。行ってみるか?」
凪紗はううんと首を振る。
「自然に生きてるやつがいいの」
「無茶言うなよ。現地の人だって滅多に見れないんだぞ」
「可哀想だよ、そのコ。ヤンバルクイナって飛べないんでしょ?」
「そうだよ」
地元新聞に目を落とす妻は無言で俺達の会話に耳を傾けている。
「だったら、せめて自由に歩きたいよ。……ねえ、ヤンバルクイナの翼って何のためにあるの?」
「進化だよ。ヤンバルクイナの翼は飛ぶ必要がなくなった名残でしかない」
「進化?」
珍しい。新聞を脇に置き、妻が口を挟んできた。
「退化じゃなく? 飛べなくなったのにそう呼ぶの?」
「翼に特化すれば確かに退化だけど、ヤンバルクイナ自体は進化したんだ。沖縄の森林に棲息する彼等にとって翼は邪魔でしかない。その分、太くて丈夫な足を手に入れたからね」
ふうんと突き出した唇に指をやる妻。こんなところも母娘でそっくりだ。
「珍しいわね」
「ヤンバルクイナが?」
「違うわ」
妻は自然に笑っていた。
「あなたがそんなに饒舌になるのが、よ。……そんなにヤンバルクイナに造詣が深いとはね」
俺はさりげなく検索画面を閉じようとしたら、スマホを凪紗に奪い取られた。
「ママ、違うよ。ホラ、ネットの受け売りじゃん!」
「あら、ホント。おかしいと思った」
二人揃って俺を笑いものにする。
だが、悪くない。寧ろ心地良い。このまま時間が止まってほしいとさえ感じた。
思い出せ。
こんな賑やかな場面を想像して、俺は妻と結婚し子を儲けたんじゃなかったのか?
無情の雨が相変わらずビーチに降り注ぐ。
俺は想像した。
この雨が嘘のようにピタッとやんで、素足でビーチに立つ娘の姿を。
雨上がりのレンブラント光線を体中に浴びながら、天使と化した凪紗が晴れ空に感謝して翼を広げるその姿を。
この世にやまない雨は存在しない。
二人につられた俺は、何時しか声を出して笑っていた。
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