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第一部 藪家荘の中で
その3 気をつけなさい
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玄関ホールに駆けていった時、既に風山修吾は中に入っていて、にこにこと穏やかな笑顔で会釈をした。
ごくラフなセーターとジーンズといったスタイルで、身軽に見えた。由紀子は慌てて挨拶をし、わざわざご足労いただきまして、と、頭を下げた。
「いいえ、貴女が来る前から、このうちはちょくちょく見ているんです」
くどくどと由紀子が礼を言うのを、あっさりと風山は遮った。ぱさぱさとした見た目の短く刈り込んだ頭を片手で撫でながら、少し照れくさそうにしている。
ぶるぶると音がしていた。風山は敷地内に車を止めているらしい。次にどこか行く用事でもあるのだろうか。忙しそうな風山の様子に、由紀子はちょっと気後れした。
「だいぶ片付きましたか」
と、風山は言った。
「手伝うことがあれば何でも言ってください」
ありがとうございます、と、由紀子は軽くかわした。管理会社の人にダンボールの中身の片づけをお願いするなんて、とうていできない。
ボイラを見てきますよ、と、風山は素早く動いた。地下に降りる階段をかんかんと足音を響かせて駆けてゆく。まもなく、下の方で、がたんがたんと物音が聞こえて来た。ボイラの動きを確認しているのだろう。そうしている間も、表に止められたままの車は、ぶるぶる音を立てつづけていた。
(そうだった、軋む音について聞いておきたいんだった)
地下のボイラ室の物音を聞きながら、由紀子ははっとした。
それに、この界隈のことも少し聞いてみたい気がした。やはり由紀子は気になっていた。この藪家荘に来る途中に見た、心細い坂道の、あの地蔵の群れ。
**
「療養なんて、そんな優雅なこと」
ぽつん。
ぬるい沼の中に氷の玉が落ちたような冷たい感触を、由紀子は覚える。母、加奈代は、由紀子が心身の療養のため、仕事を長期休んで、親戚の古い家を借りて過ごすことに、やんわりと反対した。加奈代は鬱というものを認めなかった。なに甘えてるのよ、しっかりしなさい、もっと大変な人だって世の中にはいっぱいいるのよ。加奈代の言い分は、聞かなくても由紀子には十分に伝わった。
「心療内科の先生から診断書ももらってるのよ」
と、由紀子は言った。
加奈代は口をつぐみ、横目で由紀子を見た。しばらくの沈黙の後、ぼそりと、「もう決めてしまったの。断りなさいよ」と、言った。断るって何を、と、由紀子は低い声で言い返した。加奈代はじいっと由紀子を見ながら言った。
「藪家荘はねぇ、あの家は良くないわよ。アンタ、ろくに相談もしないで。何も知らないくせに」
どういうこと、と、由紀子は眉をひそめた。
藪家荘は良くない、という言葉より、「何も知らないくせに」という言い方が引っかかった。それは、藪家荘に「何かある」ことを暗示している。
「古い家だから、いろいろなことがあったでしょう。判ったうえで借りるのよ」
と、由紀子は蓋をするように言った。
加奈代は渋い顔で由紀子を睨んだ。小さい声で、「知らない者に押し付けるなんて」と、呟くのが聞こえた。
「だから、どういう意味なのよ。藪家荘で何かあったの」
と、由紀子は苛立って声を荒げた。加奈代の、はっきり言わないくせに、思わせぶりになにかを匂わせるやり口が、昔から苦手だった。それは、がつんと拳で殴られるのとはまた違う、ゆるゆると真綿で首を絞められるような厭らしさを思わせた。
「母さんだってよくは知らないわよ。ただ、良くないってみんな言ってる」
加奈代は眉をひそめて言った。それから由紀子の反応を見てから、ばすんと切り捨てるように「でもまあ、あんた借りることに決めちゃったんでしょう。仕方ないわね、もう」と、言った。ちぎって投げるような言い方に、由紀子は嫌な気分を通り越し、悲しくなっていた。
(どうして、そっと逃がしておいてくれないのだろう・・・・・・)
明治期に建てられた家だ。長い間無人だったというし、幽霊屋敷の噂があってもおかしくはない。
だけど、由紀子はそれでもいいと思っていた。由紀子はただ、人の目に疲れ、人の言葉に疲れ、生きることに疲れ切っていた。短い時間で良いから世の中から離れた場所で、何もしないで休みたかった。それが叶うなら、幽霊屋敷だろうが事故物件だろうが構わないと、病的に疲れた心で、由紀子は思っていた。
「そんな不確かなことで、水を差さないでっ」
由紀子は叫んだ。涙ぐんでいた。
加奈代は眉をひそめて由紀子の様子を眺めていたが、しばらくの沈黙の後、「気をつけなさいね」とだけ言った。
気をつけなさいね。
何に気を付けるのだろう。由紀子には、分からなかった。
**
ごおん、ぼん、ごおん。
地下からは、重々しい音が響いている。風山がボイラを調べているのだろう。
その間も、家の前ではぶるぶると車のエンジン音が続いている。さっきから風山は地下に籠っているし、そろそろ十分は経過しようとしている。さすがに由紀子は、エンジンかけっぱなしの風山の車が気になってきた。
そっと玄関の扉から出ると、まさに目の前にワンボックスカーが横止めされたまま、エンジン音を立てていた。ぶすぶすと変な音も混じり始め、寒い空気の中に排気ガスが白く立ち上っている。流石にこのままにしておくわけにはいかなかった。由紀子はワンボックスカーの運転席に入ると、かかりっぱなしになっているエンジンを止めた。
(ふう、良かった)
ワンボックスから出て溜息をついていると、かさりと背後で音が聞こえた。振り向くと、門の外から、険のある顔つきで中を覗いている高齢の女性の姿が見えた。グリーンの上っ張り。紺地のぶあついズボン。どれほどの高齢なのだろう、髪の毛は白く、腰が少し曲がって見えた。
老女は口をへの字に曲げて嫌な顔で藪家荘の敷地を覗いており、由紀子と目が合うと、会釈もしないでぷいと歩いて行ってしまった。
この辺りは人家はそう、ない。
恐らく、藪家荘から歩いて二十分の距離にある、農家の家人だろう。そういえば、引っ越しの挨拶など全くしていなかったことに、今更ながら由紀子は思い当たった。そして、さっきの老女の、まるで中を伺うような意地悪い目を思い出して、身がすくむ思いをした。
(長期滞在になるならば、ちゃんとしておいたほうが良いのだろうか)
また、風山に質問することが増えた。
由紀子はこの界隈のゴミステーションや、ごみの曜日すら知らないままなのだった。
しょんぼりしながら家の中に戻った。
玄関の扉をしめ、ホールに踏み込んだ時、「きい」という軋み音を、由紀子ははっきり聞いた。
しかしそれは、次に響いて来た「ぼうん」というボイラの音に掻き消されてしまった。
かんかんとせわしい足音が階段を駆け上り、軍手をした風山が少し息を荒くしてホールに戻って来た。ボイラは問題なかったのだろう、にこにこと愛想の良い顔をしている。
車のエンジン音が聞こえなくなっていることに気づき、風山は「すいませんね、止めて下さったんですか」と頭を下げた。由紀子はちょっと、押し黙った。
「お茶を入れますね」
と、由紀子は台所に向った。「少し、伺いたいこともありますし。まだ何もきちんとしていないんですが、台所でコーヒーでもいかがでしょう」
台所には小さなテーブルがある。そこならば、座って少しはくつろぐことができそうだった。
以外にも風山は、嬉しそうにした。さぞ忙しいだろうと思っていたが、案外、藪家荘でゆっくりしてゆく時間はありそうだった。
「いろいろ、伺いたいんです。わたし、この家の事やこの界隈の事、何も知らないので」
由紀子の言葉に、ちらっと風山は表情を変えた。
それは一瞬だったが、確かに風山は、困惑したようだった。
ごくラフなセーターとジーンズといったスタイルで、身軽に見えた。由紀子は慌てて挨拶をし、わざわざご足労いただきまして、と、頭を下げた。
「いいえ、貴女が来る前から、このうちはちょくちょく見ているんです」
くどくどと由紀子が礼を言うのを、あっさりと風山は遮った。ぱさぱさとした見た目の短く刈り込んだ頭を片手で撫でながら、少し照れくさそうにしている。
ぶるぶると音がしていた。風山は敷地内に車を止めているらしい。次にどこか行く用事でもあるのだろうか。忙しそうな風山の様子に、由紀子はちょっと気後れした。
「だいぶ片付きましたか」
と、風山は言った。
「手伝うことがあれば何でも言ってください」
ありがとうございます、と、由紀子は軽くかわした。管理会社の人にダンボールの中身の片づけをお願いするなんて、とうていできない。
ボイラを見てきますよ、と、風山は素早く動いた。地下に降りる階段をかんかんと足音を響かせて駆けてゆく。まもなく、下の方で、がたんがたんと物音が聞こえて来た。ボイラの動きを確認しているのだろう。そうしている間も、表に止められたままの車は、ぶるぶる音を立てつづけていた。
(そうだった、軋む音について聞いておきたいんだった)
地下のボイラ室の物音を聞きながら、由紀子ははっとした。
それに、この界隈のことも少し聞いてみたい気がした。やはり由紀子は気になっていた。この藪家荘に来る途中に見た、心細い坂道の、あの地蔵の群れ。
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「療養なんて、そんな優雅なこと」
ぽつん。
ぬるい沼の中に氷の玉が落ちたような冷たい感触を、由紀子は覚える。母、加奈代は、由紀子が心身の療養のため、仕事を長期休んで、親戚の古い家を借りて過ごすことに、やんわりと反対した。加奈代は鬱というものを認めなかった。なに甘えてるのよ、しっかりしなさい、もっと大変な人だって世の中にはいっぱいいるのよ。加奈代の言い分は、聞かなくても由紀子には十分に伝わった。
「心療内科の先生から診断書ももらってるのよ」
と、由紀子は言った。
加奈代は口をつぐみ、横目で由紀子を見た。しばらくの沈黙の後、ぼそりと、「もう決めてしまったの。断りなさいよ」と、言った。断るって何を、と、由紀子は低い声で言い返した。加奈代はじいっと由紀子を見ながら言った。
「藪家荘はねぇ、あの家は良くないわよ。アンタ、ろくに相談もしないで。何も知らないくせに」
どういうこと、と、由紀子は眉をひそめた。
藪家荘は良くない、という言葉より、「何も知らないくせに」という言い方が引っかかった。それは、藪家荘に「何かある」ことを暗示している。
「古い家だから、いろいろなことがあったでしょう。判ったうえで借りるのよ」
と、由紀子は蓋をするように言った。
加奈代は渋い顔で由紀子を睨んだ。小さい声で、「知らない者に押し付けるなんて」と、呟くのが聞こえた。
「だから、どういう意味なのよ。藪家荘で何かあったの」
と、由紀子は苛立って声を荒げた。加奈代の、はっきり言わないくせに、思わせぶりになにかを匂わせるやり口が、昔から苦手だった。それは、がつんと拳で殴られるのとはまた違う、ゆるゆると真綿で首を絞められるような厭らしさを思わせた。
「母さんだってよくは知らないわよ。ただ、良くないってみんな言ってる」
加奈代は眉をひそめて言った。それから由紀子の反応を見てから、ばすんと切り捨てるように「でもまあ、あんた借りることに決めちゃったんでしょう。仕方ないわね、もう」と、言った。ちぎって投げるような言い方に、由紀子は嫌な気分を通り越し、悲しくなっていた。
(どうして、そっと逃がしておいてくれないのだろう・・・・・・)
明治期に建てられた家だ。長い間無人だったというし、幽霊屋敷の噂があってもおかしくはない。
だけど、由紀子はそれでもいいと思っていた。由紀子はただ、人の目に疲れ、人の言葉に疲れ、生きることに疲れ切っていた。短い時間で良いから世の中から離れた場所で、何もしないで休みたかった。それが叶うなら、幽霊屋敷だろうが事故物件だろうが構わないと、病的に疲れた心で、由紀子は思っていた。
「そんな不確かなことで、水を差さないでっ」
由紀子は叫んだ。涙ぐんでいた。
加奈代は眉をひそめて由紀子の様子を眺めていたが、しばらくの沈黙の後、「気をつけなさいね」とだけ言った。
気をつけなさいね。
何に気を付けるのだろう。由紀子には、分からなかった。
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ごおん、ぼん、ごおん。
地下からは、重々しい音が響いている。風山がボイラを調べているのだろう。
その間も、家の前ではぶるぶると車のエンジン音が続いている。さっきから風山は地下に籠っているし、そろそろ十分は経過しようとしている。さすがに由紀子は、エンジンかけっぱなしの風山の車が気になってきた。
そっと玄関の扉から出ると、まさに目の前にワンボックスカーが横止めされたまま、エンジン音を立てていた。ぶすぶすと変な音も混じり始め、寒い空気の中に排気ガスが白く立ち上っている。流石にこのままにしておくわけにはいかなかった。由紀子はワンボックスカーの運転席に入ると、かかりっぱなしになっているエンジンを止めた。
(ふう、良かった)
ワンボックスから出て溜息をついていると、かさりと背後で音が聞こえた。振り向くと、門の外から、険のある顔つきで中を覗いている高齢の女性の姿が見えた。グリーンの上っ張り。紺地のぶあついズボン。どれほどの高齢なのだろう、髪の毛は白く、腰が少し曲がって見えた。
老女は口をへの字に曲げて嫌な顔で藪家荘の敷地を覗いており、由紀子と目が合うと、会釈もしないでぷいと歩いて行ってしまった。
この辺りは人家はそう、ない。
恐らく、藪家荘から歩いて二十分の距離にある、農家の家人だろう。そういえば、引っ越しの挨拶など全くしていなかったことに、今更ながら由紀子は思い当たった。そして、さっきの老女の、まるで中を伺うような意地悪い目を思い出して、身がすくむ思いをした。
(長期滞在になるならば、ちゃんとしておいたほうが良いのだろうか)
また、風山に質問することが増えた。
由紀子はこの界隈のゴミステーションや、ごみの曜日すら知らないままなのだった。
しょんぼりしながら家の中に戻った。
玄関の扉をしめ、ホールに踏み込んだ時、「きい」という軋み音を、由紀子ははっきり聞いた。
しかしそれは、次に響いて来た「ぼうん」というボイラの音に掻き消されてしまった。
かんかんとせわしい足音が階段を駆け上り、軍手をした風山が少し息を荒くしてホールに戻って来た。ボイラは問題なかったのだろう、にこにこと愛想の良い顔をしている。
車のエンジン音が聞こえなくなっていることに気づき、風山は「すいませんね、止めて下さったんですか」と頭を下げた。由紀子はちょっと、押し黙った。
「お茶を入れますね」
と、由紀子は台所に向った。「少し、伺いたいこともありますし。まだ何もきちんとしていないんですが、台所でコーヒーでもいかがでしょう」
台所には小さなテーブルがある。そこならば、座って少しはくつろぐことができそうだった。
以外にも風山は、嬉しそうにした。さぞ忙しいだろうと思っていたが、案外、藪家荘でゆっくりしてゆく時間はありそうだった。
「いろいろ、伺いたいんです。わたし、この家の事やこの界隈の事、何も知らないので」
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