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第二部 外からの誘い
その5 こっちにおいで
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坂道羅漢のところで子供たちの姿が見えると言った香代美。
由紀子はお茶を淹れながら、最近、よく奈津子が愚痴っていたことを思い出した。
「妄想癖っていうのかしら。嘘つきとまでは思いたくはないのだけど。テレビの見すぎが悪いのかしらね」
まだ五歳の香代美について、ありもしないものを観たり聞いたりすると訴えられることがあると、奈津子は嘆いている。
その話を聞いた時は、由紀子も大して気にもとめず、「へえ、どんな」と興味本位で尋ねた位だった。奈津子は「どんなと言われても。おばあちゃんが何か言っているとか、あっちの部屋でパーティーしてるとかね」と、苦い顔で答えた。姉妹二人がそんな話をしている側で、香代美はばあちゃんと人形遊びをしており、呑気なものだった。
「女の子にありがちなんじゃない。夢みちゃうのよ、ありもしない夢を」
由紀子は、愚痴る奈津子をそう言って慰めた。
はたから見る分では、香代美は普通の元気な女の子である。
(もしかしたら)
とぽとぽと急須から継がれた緑茶は、よく香った。
プリンとお茶とジュースを乗せた盆を持って、奥の座敷に運んだ。暖房をよく利かせてあり、広々としたそこは、子供の良い遊び場になるはずだ。
廊下に出ると、思った通り、香代美のはじけるような笑いが響いていた。どんどんと、畳を飛び跳ねる派手な音も聞こえている。こらっと奈津子がそれを怒っている。
(子供がいると、いいな)
一瞬、自分の中に影がさしたような気がしたが、由紀子はすぐに蓋をした。
実家にいるころ、奈津子と香代美が来ても、こんなふうに陰りを感じることはなかった。恐らく、この藪家荘にいると、心が生の部分をむき出しにするのだろう。
ここは、療養の場なのだから。
(偽れない)
襖を開こうとした瞬間、「きいき」と、微かな音が聞こえた。ゆりかごが軋んでいる。由紀子は息を吐いた。
偽らないでもいいと、ゆりかごの主は言っている。子供が欲しい、元気な子供を持っている母親が羨ましい。そう感じることは間違いではない。当然だ。
ふうっと息を吐いてしまうと胸が楽になった。
由紀子は笑顔で襖を開いた。
**
雪見障子を開いて、ガラス越しに庭を眺めた。
スーパーで買った安いものなのに、プリンはとても美味しかった。香代美は大きなプリンアラモードに悪戦苦闘しており、口の周りを生クリームだらけにしている。
「御殿じゃない。旅館に来たみたい」
と、奈津子は感想を言った。もっとあばら家のような家を想像していたのかもしれない。由紀子は苦笑した。
管理会社がしっかりしてるのよ、と、お茶のお代わりを入れてやりながら由紀子は説明した。
「明治時代の建物だから古くて。それに、なにごとも規模が大きくて。庭木やボイラにしても、わたしじゃ到底追いつかない。だから、月に何度か管理会社の人が来てくれるの」
へえ、至れり尽くせりねえ、と、奈津子は言った。
ママ、遊んできていーい、と、香代美は言うと、いきなり障子を開き、縁に飛び出した。
こらっ、口を拭きなさい、と、奈津子は怒鳴り、お尻をあげて立ち上がる。どたばたと縁で騒ぎが起きた。由紀子はその間に自分の分のプリンを食べた。
そうだ、プリン。
冷蔵庫には、もう一つ、同じプリンが残っている。
(わたしはどうして、もう一つ買ってしまったんだろう)
ぼんやりと、食べかけのプリンを見下ろした。
あの時、スーパーで、三人分のプリンを籠に入れて通り過ぎようとしたのに、なにかに引き留められたような気がして、もう一つ、手に取ってしまった。
四人分。買ったプリンは。
(まるで、誰かにおねだりされたみたいに)
**
ねえママ、わたしの分は?
**
「もう、ハイテンションで困るわ。いつもと違うところに来たから、はしゃぎまわってるの」
ちゃぶ台に戻り、奈津子は溜息をついた。
縁では香代美が、どたばたとカエル飛びをして動き回っている。
「ママ、探検してきていい」
と、香代美はまた座敷に入って来て叫んだ。
いいとも悪いとも言わないうちに、香代美は襖を開いて廊下に出ていった。
あら、あら、あら、と、由紀子が呟きながら追いかけようとしたが、奈津子が逆に「いいわよ放っといても。そのへんにいるわ」と引き留めた。
奈津子は呑気に構えている。気の置けない姉の家にいると安堵している。
「危ないこともないんでしょう。家の中にいるわよ」
と、奈津子は言った。
由紀子は内心はらはらしながら、遠ざかってゆく香代美の足音を聞いた。家の中にいるから安全、という理屈が通用しないかもしれない、ということを、どう説明しようか困った。
(三階さえ行かなければ)
ふいに、そんな考えが浮かんだ。
由紀子ははっとした。そうだ、この藪家荘で、得体の知れない「なにか」がいるかもしれない場所は、多分、三階だ。
それは、ゆりかごを揺らす何かが住む場所のはずだった。
幼い香代美の足で、螺旋階段を上り、さらに、二階の奥の階段室を突き止め、あの急な階段を上ることができるとは考えにくい。
大丈夫だろう、と、由紀子も自分に言い聞かせた。
**
「それにしても、古いお屋敷よね」
奈津子は天井をぐるっと見上げて言った。
「母さんは、ここが良くないって言っていたらしいけれど。良い場所じゃない」
由紀子は言おうか言わまいか迷いながら、陽気な奈津子の顔を見ていた。
だけど、どうせいつか奈津子も耳にするのだろう、あの不可思議な音を、と思うと、心が決まった。
「あのね、実はここ、変な音が」
由紀子が言いかけた時、突然奈津子ががらっと表情を変えて、立ち上がった。襖を開いて通路に「香代美、あんたどこ開いたの」と叫んでいる。由紀子は茫然とした。
しおしおと、怒られてしゅんとした顔で、香代美は戻って来た。悪いことをしたと判っているようだ。
奈津子は香代美を座敷に引き入れると「駄目よ、勝手にどこでも入ったら」と怒った。
「わたしなにも分からなかったわ」
由紀子はびっくりしていった。
母親の勘というものを、目前で見たのは初めてだった。由紀子にはなにも感じ取れなかったが、奈津子は香代美がどこか、あまり良くない場所に行こうとしている気配を感じ取ったらしい。
(母親は、子供のことについては、感覚が普通ではなくなる)
**
ええん、と、香代美が泣き出したので、由紀子は我に返った。
そんなに怒らなくても、と、穏やかに親子の間に入った。ぷんと奈津子は眉毛をしかめている。
「おおきな台所に行ったんですって」
と、奈津子がいい、由紀子は、ああ、とうなずいた。
あの厨房に入ったか。確かに、包丁やいろいろな器具はあるだろうが、子供の手の届く場所にはない。陰気なだけで、危険はさしてない。
「大丈夫よ」
と、由紀子は言った。
「みんな働いていたわ。こっちにおいでって、美味しいサツマイモがあるよって言われたから」
泣きじゃくりながら香代美は言った。
こらっと奈津子は叱りつけた。
「またそんな嘘ばっかり。みんなって誰よ。このうちには、わたしたちしかいないのよっ」
**
香代美は随分ぐずっていた。
寝かせるわ、と、奈津子は言い、由紀子は二人を二階の客室に案内した。
たくさん部屋はあるが、とりあえず自分の寝室の隣がいいだろうと思い、昨日のうちに整えておいたのだ。
キングサイズのベッドは、奈津子と小さな香代美が寝ても、ゆったりできるだろう。
泣きじゃくる香代美をベッドに寝かせて布団をかけると、あっけなく、香代美は寝着いた。
すうすうと無邪気な顔をして昼寝をする香代美に、奈津子は肩をすくめて苦笑している。
「困ったものだわ」
と、奈津子は言った。
由紀子は黙っていた。
由紀子はお茶を淹れながら、最近、よく奈津子が愚痴っていたことを思い出した。
「妄想癖っていうのかしら。嘘つきとまでは思いたくはないのだけど。テレビの見すぎが悪いのかしらね」
まだ五歳の香代美について、ありもしないものを観たり聞いたりすると訴えられることがあると、奈津子は嘆いている。
その話を聞いた時は、由紀子も大して気にもとめず、「へえ、どんな」と興味本位で尋ねた位だった。奈津子は「どんなと言われても。おばあちゃんが何か言っているとか、あっちの部屋でパーティーしてるとかね」と、苦い顔で答えた。姉妹二人がそんな話をしている側で、香代美はばあちゃんと人形遊びをしており、呑気なものだった。
「女の子にありがちなんじゃない。夢みちゃうのよ、ありもしない夢を」
由紀子は、愚痴る奈津子をそう言って慰めた。
はたから見る分では、香代美は普通の元気な女の子である。
(もしかしたら)
とぽとぽと急須から継がれた緑茶は、よく香った。
プリンとお茶とジュースを乗せた盆を持って、奥の座敷に運んだ。暖房をよく利かせてあり、広々としたそこは、子供の良い遊び場になるはずだ。
廊下に出ると、思った通り、香代美のはじけるような笑いが響いていた。どんどんと、畳を飛び跳ねる派手な音も聞こえている。こらっと奈津子がそれを怒っている。
(子供がいると、いいな)
一瞬、自分の中に影がさしたような気がしたが、由紀子はすぐに蓋をした。
実家にいるころ、奈津子と香代美が来ても、こんなふうに陰りを感じることはなかった。恐らく、この藪家荘にいると、心が生の部分をむき出しにするのだろう。
ここは、療養の場なのだから。
(偽れない)
襖を開こうとした瞬間、「きいき」と、微かな音が聞こえた。ゆりかごが軋んでいる。由紀子は息を吐いた。
偽らないでもいいと、ゆりかごの主は言っている。子供が欲しい、元気な子供を持っている母親が羨ましい。そう感じることは間違いではない。当然だ。
ふうっと息を吐いてしまうと胸が楽になった。
由紀子は笑顔で襖を開いた。
**
雪見障子を開いて、ガラス越しに庭を眺めた。
スーパーで買った安いものなのに、プリンはとても美味しかった。香代美は大きなプリンアラモードに悪戦苦闘しており、口の周りを生クリームだらけにしている。
「御殿じゃない。旅館に来たみたい」
と、奈津子は感想を言った。もっとあばら家のような家を想像していたのかもしれない。由紀子は苦笑した。
管理会社がしっかりしてるのよ、と、お茶のお代わりを入れてやりながら由紀子は説明した。
「明治時代の建物だから古くて。それに、なにごとも規模が大きくて。庭木やボイラにしても、わたしじゃ到底追いつかない。だから、月に何度か管理会社の人が来てくれるの」
へえ、至れり尽くせりねえ、と、奈津子は言った。
ママ、遊んできていーい、と、香代美は言うと、いきなり障子を開き、縁に飛び出した。
こらっ、口を拭きなさい、と、奈津子は怒鳴り、お尻をあげて立ち上がる。どたばたと縁で騒ぎが起きた。由紀子はその間に自分の分のプリンを食べた。
そうだ、プリン。
冷蔵庫には、もう一つ、同じプリンが残っている。
(わたしはどうして、もう一つ買ってしまったんだろう)
ぼんやりと、食べかけのプリンを見下ろした。
あの時、スーパーで、三人分のプリンを籠に入れて通り過ぎようとしたのに、なにかに引き留められたような気がして、もう一つ、手に取ってしまった。
四人分。買ったプリンは。
(まるで、誰かにおねだりされたみたいに)
**
ねえママ、わたしの分は?
**
「もう、ハイテンションで困るわ。いつもと違うところに来たから、はしゃぎまわってるの」
ちゃぶ台に戻り、奈津子は溜息をついた。
縁では香代美が、どたばたとカエル飛びをして動き回っている。
「ママ、探検してきていい」
と、香代美はまた座敷に入って来て叫んだ。
いいとも悪いとも言わないうちに、香代美は襖を開いて廊下に出ていった。
あら、あら、あら、と、由紀子が呟きながら追いかけようとしたが、奈津子が逆に「いいわよ放っといても。そのへんにいるわ」と引き留めた。
奈津子は呑気に構えている。気の置けない姉の家にいると安堵している。
「危ないこともないんでしょう。家の中にいるわよ」
と、奈津子は言った。
由紀子は内心はらはらしながら、遠ざかってゆく香代美の足音を聞いた。家の中にいるから安全、という理屈が通用しないかもしれない、ということを、どう説明しようか困った。
(三階さえ行かなければ)
ふいに、そんな考えが浮かんだ。
由紀子ははっとした。そうだ、この藪家荘で、得体の知れない「なにか」がいるかもしれない場所は、多分、三階だ。
それは、ゆりかごを揺らす何かが住む場所のはずだった。
幼い香代美の足で、螺旋階段を上り、さらに、二階の奥の階段室を突き止め、あの急な階段を上ることができるとは考えにくい。
大丈夫だろう、と、由紀子も自分に言い聞かせた。
**
「それにしても、古いお屋敷よね」
奈津子は天井をぐるっと見上げて言った。
「母さんは、ここが良くないって言っていたらしいけれど。良い場所じゃない」
由紀子は言おうか言わまいか迷いながら、陽気な奈津子の顔を見ていた。
だけど、どうせいつか奈津子も耳にするのだろう、あの不可思議な音を、と思うと、心が決まった。
「あのね、実はここ、変な音が」
由紀子が言いかけた時、突然奈津子ががらっと表情を変えて、立ち上がった。襖を開いて通路に「香代美、あんたどこ開いたの」と叫んでいる。由紀子は茫然とした。
しおしおと、怒られてしゅんとした顔で、香代美は戻って来た。悪いことをしたと判っているようだ。
奈津子は香代美を座敷に引き入れると「駄目よ、勝手にどこでも入ったら」と怒った。
「わたしなにも分からなかったわ」
由紀子はびっくりしていった。
母親の勘というものを、目前で見たのは初めてだった。由紀子にはなにも感じ取れなかったが、奈津子は香代美がどこか、あまり良くない場所に行こうとしている気配を感じ取ったらしい。
(母親は、子供のことについては、感覚が普通ではなくなる)
**
ええん、と、香代美が泣き出したので、由紀子は我に返った。
そんなに怒らなくても、と、穏やかに親子の間に入った。ぷんと奈津子は眉毛をしかめている。
「おおきな台所に行ったんですって」
と、奈津子がいい、由紀子は、ああ、とうなずいた。
あの厨房に入ったか。確かに、包丁やいろいろな器具はあるだろうが、子供の手の届く場所にはない。陰気なだけで、危険はさしてない。
「大丈夫よ」
と、由紀子は言った。
「みんな働いていたわ。こっちにおいでって、美味しいサツマイモがあるよって言われたから」
泣きじゃくりながら香代美は言った。
こらっと奈津子は叱りつけた。
「またそんな嘘ばっかり。みんなって誰よ。このうちには、わたしたちしかいないのよっ」
**
香代美は随分ぐずっていた。
寝かせるわ、と、奈津子は言い、由紀子は二人を二階の客室に案内した。
たくさん部屋はあるが、とりあえず自分の寝室の隣がいいだろうと思い、昨日のうちに整えておいたのだ。
キングサイズのベッドは、奈津子と小さな香代美が寝ても、ゆったりできるだろう。
泣きじゃくる香代美をベッドに寝かせて布団をかけると、あっけなく、香代美は寝着いた。
すうすうと無邪気な顔をして昼寝をする香代美に、奈津子は肩をすくめて苦笑している。
「困ったものだわ」
と、奈津子は言った。
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