同じ星を目指して歩いてる

井川林檎

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年末の梟荘

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 昼間のアルバイトを辞めたけれど、近々他のアルバイトをするつもりです。
 けやきさんには、年末のあいさつに伺った時、近況報告をしておいた。

 おおらかなけやきさんは、家賃さえ払っていれば、生活の仕方に口を出す人ではない。けれど、いつもわたしと梟荘の訳アリ住人を心配してくれているけやきさんには、何でも正直に伝えておくべきだろう。

 「すいません、情けがない、お恥ずかしいです」
 と、けやき家の玄関先で、随分遅くなったお歳暮のハムをお渡ししながら、わたしは頭を下げた。けやき家の奥の方からは、楽しそうな洋画のDVDが流れていて、娘さん達の声が聞こえてくる。
 (お友達を連れてきて、一緒に冬休みを楽しんでおられるんだろうなあ)
 その、温かくも賑やかしい雰囲気は、今の縮こまったわたしでも、思わずにこにこしてしまうような柔らかいものだった。これが、少しでも嫌な雰囲気だったら、わたしは敏感に反応し、けやき家を警戒しただろう。
 集団でわいわい楽しそうにしている人々は、今の傷ついたわたしには、強すぎる。

 玄関口でハムを受け取ってくれたけやきさんは、エプロン姿のまま目を細め、わかりました、大変だけど頑張ってね、と言ってくれた。
 「お母さんとは連絡が取れているの」と、聞かれたので、わたしは正直に、いいえ、と答えた。メールアドレスは知っているし、出奔した当初は、本当に必要なことだけ、事務的に母から連絡があった。けれど、その後は、なしのつぶてである。
 
 玄関の外は木枯らしが吹いており、石の床からは冷えた空気が立ち上った。
 入ったら、と、言われたが、わたしは遠慮した。
 心の中は、未だぐじゅぐじゅと、校正アルバイトを辞めた日の痛手がくすぶっている。

 魔女修行中の母の住所は分からない。
 おまけに母は、無駄な出費を減らすために、携帯電話を解約してしまったらしい。
 今わたしと母を繋いでいるのは、メールを送ったとしてもいつ反応があるやら分からないフリーメールだけだった。

 (名作劇場の、みなしごみたいだナー)
 のんきにもわたしは、そんな牧歌的なたとえを思いついた。

 「もうじきお正月だし、連絡が来るんじゃないかしら」
 にこにこと、けやきさんは言った。

 果たして母から連絡が来るのが良いことなのか、新たな不安を呼ぶことになるのか、予想もつかない。きっと、わたしの笑顔は微妙なものだった。けやきさんは、ころころと笑って、みかんをスーパーの袋に入れて少し分けてくれた。
 
 「よいお年を」
 「よいお年を」

 からからとけやき家の格子の引き戸を閉めた。
 外は身震いするほど寒くて、ストッキングの足元が、痛い位に冷たかった。

 温かなけやきさんのうちからは、また、楽しそうな笑い声が響いてくる。
 鮮やかなみかんが踊る袋を持ち、背中を丸めて、わたしは梟荘に急いだ。

**

 優菜のことが気になっていた。アルバイトを一つ失って自由時間が増えたわたしは、色々なものを見ることができる。例えば、インターネットの掲示板とか。
 遊びでエゴサーチしたのが始まりだった。自分の名前を検索した後は、優菜の名前をサーチしてみた。すると、大型掲示板が引っかかって来た。たまげた。

 地方板というのだろうか、この県の、それも英会話スクール系の話題のスレッドで、優菜はかなりやっつけられていた。
 そこでは、優菜は実名を出されており、妻子あるイケメン講師に懸想しているヤバイおばさん、ということにされていた。まあおおむねその通りなのだけど。

 そのスクールのイケメン氏は、有名なひとらしい。ファンも多く、色々な意味で実力者で、彼に取り入ることができたら、英会話関係のコンテストなどに出場できるという。

 英会話のコンテスト出場権って一体なんだろう。スポーツの強化選手みたいな感じだろうか、と思った。
 スレの中でさんざん面白がられている優菜に心が傷むと同時に、優菜がどうしてその男性にそこまで入れ込むのか、なにか分かる気がしてくる。

 優菜は多分、そのイケメン講師に優遇されている一部の女の子たちに、敵意を持っている。そこから全てが始まっている気がする。
 優菜は一匹狼だ。ゴマを擦ったり、面白くもないのに可愛い声で笑ったりして、男性講師に擦り寄ることはしないだろう。だけど、英語がうまくなりたい、コンテストで優秀な成績をおさめたいという野心だけは人一倍あるから、その男性講師に擦り寄って良い思いをしている一部の人達に反感を持ったのだ。
 たぶん、きっと、間違いなく。

 それで、すごく感じ悪い女になりながら、優菜はスクールに意地でも通い続け、そのうちにイケメン講師も優菜の実力に興味をそそられて、ちょっと気のある素振りをしたのかもしれない。
 スレッドに氾濫している情報によれば、何度かデートしているようだった。
 優菜はツンデレ女と化した。
 なによこのチャラ男、そしてその取り巻きの女たち、といったツンツンした顔を保ちつつ、一方で、そのチャラ男の表情ひとつひとつに反応し揺れ動くようになったのかもしれない。

 ちょっと誘われてはふらっとついてゆき、遊びの関係を構築される。そしてもうその時には、実は初心で純情な優菜は、藁に縋りつくような恋心を持ってしまった。
 
 (目に浮かぶようだ……)

 それにしても、インターネットにここまで晒されて、このイケメン講師の奥さんはどう思っているのだろう。
 まあ、実名は出ていないから気づいていないかもしれないのだけど。

 問題は、そのチャラ男氏よりも、うちの優菜の方だ。
 完全に名前を出されてしまっていて、しかも、言動を面白おかしく掻き立てられてしまっている。まるでスレッドは、「今日の優菜さん」状態だった。
 
 優菜さん、コンテストに出場できなかったねー。
 なんかトイレで泣いてたらしいよ、真っ赤な目で授業受けてたしぃ。
 うわ、イイトシして引くわー。
 
 一体、この掲示板に書き込むのは、どういう人たちなんだろうと、わたしは思った。
 よく見たら、書き込んだ日や時間もちゃんと見えるようになっている。
 そのスレッドに書き込まれていることが誇張されているとはいえ、おおむね事実だとしたら、確かに優菜は病的で、異様で、危なっかしいことになっている。世の人たちから見たら、ヤバイ女ということになろう。わたしには、もう何らかの深刻なトラブルが起きる寸前まで来ているように見えた。

 例えば相手側の男性がその気になれば、優菜はストーカーとして訴えられるだろう。

 だとしても、当事者ではない連中がネットという、世界中の人が共有するスペースで、面白おかしくひとのことを書きまくるのは、悪魔的な行為だと思う。
 ちょうど、公衆トイレを汚く使うみたいな感覚で、顔が見えないのをいいことに、ここぞとばかりに言いまくるのだ。
 
 あの、校正アルバイトのことがフラッシュバックして、ブラウザを閉じた。もう十分だった。二度と、わたしはこれを覗かないだろう。
 
**

 「今日は、今年最後のスクールだったんだー」
 その晩、優菜の帰宅は0時を過ぎていた。
 飲み会だったとかでアルコールの臭いを漂わせていたけれど、言葉が楽しそうなわりに、優菜の表情は暗いような気がした。

 「そっか、お疲れさん」
 と、台所でノートPCを使ってお仕事情報を検索していたわたしはいたわりの言葉を送った。
 今からウイスキーのお湯割りを飲むところだった。既にテーブルには酒とグラスがスタンバイしており、後は冷蔵庫から、つまみのチーズの皿を出すだけとなっている。
 
 「あんたもどう」
 と、PCを閉じながら言うと、優菜は疲れた顔で、お風呂入ってきてからもらうよー、と言った。

 ふらふらっと優菜は部屋に行ってごそごそ支度をし、ひたひた足音を立てて風呂場に向かったようだ。

 お風呂にはお湯が張ったままだ。お湯を抜かないで良かったと、心からわたしは思う。
 追い炊き機能付きだから、温かなお風呂だ。冷えた体も温まるだろう。

**

 優菜は夜、部屋でスマホをいじる。
 メールをしたり、会話をしたりして、その度に、どんどん取り返しのつかない方へ押し出されている。
 時折扉越しに聞こえてくる言葉は日を追うごとに劇的に、険悪になってゆき、時には脅迫じみて感じられることすらあった。

 「あの女と仲良くしないで」
 と、優菜が言う声は、嫉妬に狂った恋人のものだった。
 暗い梟荘の夜の廊下で扉越しにその声を聴いてしまった時、優菜は現実と妄想に分裂しているのかもしれないと思った。

 妻子ある男性。それなりに権威のある立場で、わりと有名人で、女の子のファンも多くいる。彼は優菜の手に負えるような男ではない。
 もちろん彼は優菜を恋の対象としては見ていないだろう。経緯的になにがあったかは置いておいて、英会話スクールという現実の舞台では、彼に取って優菜はスクールの生徒さんであり、それ以上でも以下でもないのだ。

 優菜も本当はその事実を分かっていて、自分と彼の距離が、取り巻きグループの女どもと彼の距離よりも、遠く離れていることを、知っているだろう。
 でも、恋の妄想は本当に強くて抗えなくて、優菜の夢の世界では、優菜は彼と赤い糸で結ばれており、彼も優菜に惹かれていて、深いところで二人は恋人なのだ。その世界の中では、優菜は彼に対して他の女とべたべたしないでと抗議する権利を持っている。

 一緒に住んで、優菜という子を間近で観察していたら、優菜の抱えている問題が想像できるようになった。
 親御さんが心配している通り、優菜は心を病んでいる。しかも、本人にそれを指摘したところで、ますます反発されるだろう。
 
 いや、本当はきっと、優菜は自分が狂っていることを分かっている。
 ものすごく苦しんでいる。この苦しみから抜け出したい、助けてほしいと願っている。
 
 ノートPCを片づけて、わたしは自分のためにお湯割りを作った。

 天国の液体で喉を温めながら、わたしは心から、優菜の幸せを願った。
 一刻も早く優菜が苦しいトンネルを抜け出せますように。
 できるだけ苦痛が少ないように、この不毛な時期が終わりますように。

 体が琥珀色の輝きで優しく包まれてゆくような気がする。和やかな酔いの中で、わたしは、幸せな家庭を築き、可愛い子供を抱いた優菜の姿を見た。

 ひとは皆、一人ではとても生きてゆけない。だから誰かを好きになってしまって、その人を独占したい、その人が欲しい。そう思うことがまるで権利みたいな錯覚に陥ることもある。
 これは落とし穴だ。
 不運な人が落ちる。

 (一回、ソイツの面を拝んでやろう)
 と、わたしは優菜を苦しめている男性、だけど世間的には被害者という立場である彼の事を思った。
 今頃その彼は、妻と子供が待つ温かな家に戻っているのだろう。それとも、取り巻きの女の子と楽しくカラオケの真っ最中だろうか。

 だけど、お酒が見せる幻の中で、遠い輝かしい場所で微笑む優菜は本当に幸せそうだった。
 愛し、愛され、確かに歩き出す後姿。
 どうかそれが、近い未来に実現しますように。

 本当はわたしは知っていた。
 夜に帰って来た優菜が、表面は平気そうに振舞っていても、お風呂の中では声を殺して泣いていることを。
 すんすんという鼻の音が、脱衣場の外まで漏れ聞こえている。きっと、梟荘の浴槽には、優菜の涙が染み込んでいる。

 ごー。
 微かにドライヤーの音が聞こえてくる。
 優菜はお風呂から上がった。きっと今、泣いた顔を鏡の前で取り繕っている。笑顔の練習をしている。充血した目がもとに戻るまで、ドライヤーの音は続くだろう。

 わたしは戸棚から優菜の分のグラスを取ると、薄めにお湯割りを作った。
 (なにも聞くまい。今は、まだ)

 だけどわたしは、優菜が本当に大変なことになる寸前を見極めて、いつでも飛び出してゆく覚悟を決めていた。
 たぶん、それができるのは、この世でわたししかいない。
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