ひとりたりない

井川林檎

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 「女子のことは分かんないよ」

 今年の夏休みは長い。六年女児、早瀬花音の失踪事件のせいだ。事件勃発後から午前中だけの短縮授業になった。その後、なかなか進展しない捜査状況や、こんなタイミングで出没しはじめた白い車の不審者のせいで、実質上の休校となった。割を食ったのは保護者の方だ。愛華はヒステリックになりそうな自分自身を辛うじて抑えている。

 所沢家は、共働きだ。最も、この上梨町の家庭はたいていが夫婦共働きである。専業主婦の数は極めて少ない。そのため、放課後児童クラブや、保育所は狭い田舎町ながら、結構充実している。高齢者が多い町だが、時代故だろうか、二世代同居の家庭は年々減少している。所沢家も核家族だ。
 大黒柱の夫は早くから会社に出かけてしまう。土日も祝日は出勤することがある。愛華は上梨町の製薬会社の事務パートをしている。夫より朝は遅いので、どうしても六年生の息子、亨の朝の世話焼きを一から十までしてしまう。
 (まだいいのよ今は。前に比べたら、ずいぶん)
 低学年、中学年の頃を思い出すと、今でもぞっとするほどだ。所沢家の朝は毎回、地獄のようだった。夫はさっさと出て行ってしまうしーー愛華は、上梨から出て働きに行く夫が内心羨ましかったーー愛華は出勤時間に間に合わすために、まなじりを釣り上げていなくてはならなかった。亨の朝ご飯はなかなか進まないし、どんなに口を酸っぱくしても、昨晩のうちに時間割ができていないこともあった。それどころか朝になってから、今日は牛乳パックがいるんだった、と言い出すこともある。悲鳴と怒鳴り声がさく裂する日もあった。
 まあ、それでも六年になったのだから、流石にランドセルの中身まで母親が確認することはないし、たとえ朝食をとってもらえなかったとしても、それほど神経質にならずにいることはできる。ましになったのだ。早く大きくなればいい、来年には中学になるのだし、自転車通学になる。亨は今より早く学校に出てゆくことになろうし、そうなれば愛華が家の中に縛り付けられる時間も減るということだ。

 そう思ってはみても、問題はやはり、常に「今」だ。
 たぶんそれは、どこの母親もそうなのだと思われた。

 愛華は洗面所でファンデーションを顔になすりつけ、眉を描きながら、朝からだらだらしている息子に宿題のことについて問いただしたところだった。その話の流れで、そういえばあの失踪した子はどうなんだろうね、あんたあの子どんな子か知ってるの、という話題になった。早瀬花音と亨はクラスが別だったが、たしかクラブが同じだったはずだ。小学校のクラブは、義務的にどこかに所属しなくてはならないものであり、決して全員が熱心に取り組んでいるわけではない。亨もその、ハンドボールクラブに在籍はしているものの、一学期の間、まともに参加したことが何回あるのか怪しい。偶然にも、失踪した女子もその、ハンドボールクラブだったという。
 母からの問いかけに対し、子供用スマホをいじりながらトーストを食べていた亨は、開けっぱなしの台所のドアごしに「女子のことは分からない」と答えたのだった。
 
 「いじめられっ子だったんだって」
 かまをかけるつもりで愛華は言った。口紅に失敗した。若干だがはみ出してしまった。まあいいだろう、誰も事務員の顔などまじまじと見るまい。愛華は頭にブラシを入れ始めた。
 
 「いや、逆なんじゃね」
 もごもごとパンをほおばりながら、亨は気がなさそうに言った。女子のことなど分からないといいながら、早瀬花音のスクールカーストの立ち位置くらいは漠然と把握している様子だった。
 「俺、あいつが女子を虐めてるの見たことあるもん」

 どきん。
 心臓が冷たい手でわしづかみされたような気がした。早瀬花音失踪事件を知ってから、愛華は自分の中の一番深い、アンタッチャブルな部分が化学反応を起こしているような不安感を抱いている。虐め。この言葉は、肌が泡立つようなおぞましさを伴う。なんて嫌な響きだろうと愛華は思う。いじめ。い、じ、め。
 「へえ、どんな虐め」
 それでも愛華は聞かずにおれなかった。頭の中では遥か昔の自分自身の姿が再生されかけていた。いじめ。い、じ、め。でもやっている本人は、それを悪いことだと思っていないものだ。むしろ、悪いのは対象者のほうであり、みんなの害になるものを成敗する心地よい正義の行為のはずだった。いじめ。い、じ、め。一体、あの行為に、そんな嫌らしい名称をつけたのは、どんな人間なのだろう。いじめだなんて。あれもこれもそんなふうに決めつけるなんて。
 (よほど、傲慢なのよ。カミサマみたいな目線で、腕組みして見下ろしているみたいに、決めつけて)

 傲慢。このワードにも愛華は反応する。善と悪を決めつける「なにか」はもちろんだが、もうひとつ、傲慢と言うべき存在がある。
 女児失踪事件以来、どうにもおかしかった。自分はもう四十路の中年だし子供もいる。見た目も年相応である。それなりの時間、経験を得てきた。けれど、それらは全部「外側」に過ぎなかった。愛華の中身は、どうやらタイムスリップを起こし始めているらしかった。寝て起きる度に、愛華は遥か昔の小学生時代のことを、まるで昨日のことのように鮮明に思い出すようになった。楽しかった記憶が多かったが、それは自分が学年の中でも強者の部類に入っていたからだと、今更になって思い知った。その楽しい記憶には、必ず三人のクラスメイトが絡んでおり、その中心人物が山越香織だった。香織は、その当時からきらきらと黄金の輝きを放つ強烈な権力を持っていた。

 当時、山越香織は田中香織といった。タナカカオリ。この名を思い出すと、どくんと胸に黒い振動が走る。
 六年。激動の時期だったと思う。なにか、180度かわってしまったような。
 (あの時も、誰か失踪したのよ)
 事件があった。学校の児童の誰かが突然消えた。それも夏だった。不思議なことに、その時の何日間かのことがきれいさっぱり、空白になっている。昔の記憶だから全体的に薄れており、夏休みの何日間が思い出せないのは当然のことだ。だけど、その何日間の空白は異様な空虚さを持っている。思い出してはならないような、思い出すべきような、妙な焦燥が沸く。

 「早く食べて宿題して。今日は習字行くんでしょ。ママ知らないからね」
 もう行くわよ、と愛華は言った。この言葉は息子に対する叱責というより、自分自身を息子や家のことから切り離す喝のようなものだ。台所では亨がちんたら朝ご飯を食べている。スマホをいじっている。ああ、スマホなんて与えなければよかった。
 愛華は自分のバッグの中のスマホを気がかりそうに探る。どうして旧友たちに連絡をしてしまったのか、自分でも分からなかった。昔のクラスメイトが今上梨に揃っているのだということを、伝えなくてはならないような気がしてならなかったのだ。
 山越香織。真鍋健太。瀬川大翔。
 自分も含め、四人がずっと上梨に留まっていたことを、ついこの間、愛華は知った。それまで愛華は、古い友達たちは皆、県外に行ってしまったものだと思い込んでいた。こんな田舎の上梨に残っているのは自分位だと思っていたのだ。ましてや、山越香織も、真鍋健太も、瀬川大翔も、輝かしい人生を歩んでいそうな面々だ。他の子たち同様、都会の中で羽ばたいているのに違いない。そう思い込んでいた。しかも、そう思っていたのは、自分だけではないらしかった。
 
 「あれ、真鍋君ってたしか、県外の大学に行って、そのまま就職したんじゃなかったっけ。瀬川君もさあ、東京の体育大出てそのままあっちにいたんだとばかり思ってたわ」
 「うんそう思ってたけど、こないだ上梨で見かけたわ。あれ確かに瀬川君だったと思うけど」
 「うちの知り合いと同じ集合住宅に真鍋君いるよ」
 偶然、ショッピングセンターで再開した小学校時代の同級生と話した時、衝撃的な事実を知った。
 確かに三人とも、いったん県外に出た。それからの行方がすっかり分からなくなっていた。別に秘密にしていたわけでもないだろう。不思議なことに、その部分だけ幕が垂れて隠されているかのように、情報が遮断されていたのだーーうまくは言えないのだがーーまるで、見えない手で目隠しされているかのように。そっちの方向に目が向かないようにコントロールされていたというか。
 
 何者かが、香織、真鍋、瀬川、愛華の四人が、上梨に残留しつつも互いに接近しあうことを禁じていたかのようだった。
 (そんなバカな。何者って、一体、誰よ)

 自分の心の動きに疑問符を無限に感じながら、愛華はかつての仲間に連絡をとった。元気ですか、知っていますか、真鍋君も香織さんも瀬川君も、そしてわたしも、上梨に戻っているのよ、ここに住んでいるのよ、近いところにいるのよ。それどころか。

 (そう、ここが重要)

 このことを思うと、背筋が冷たくなるようだった。別に大したことじゃない。故郷から出た人がまた戻ってくることなんか、普通のことだ。
 
 ゼロ。
 キッシー。
 プロフェッサー。
 もやし。

 この四人こそ、上梨から出て、遠い場所に行ってしまっていたはずだ。「嫌われ組」のことを、今になってこんなに思い出すなんて。それもこれも、先日の女児失踪事件が記憶に働きかけているとしか思えなかった。
 ともかく、この四人が上梨に戻ってきている。愛華はそれを、町のスーパーや学校に出入りする古い友人たちから聞いて知った。このところ奇妙な偶然が続いている。こんなにも小学校時代の人に出くわすことなど、前まではなかったはずだ。

 「嫌われ組」が上梨に戻ってきた。
 それに互いに知らなかったとはいえ、香織、真鍋、瀬川、愛華も、上梨にずっと前から揃っている。
 そして愛華は、まるで見えざる手に操作されるかのように、古い友人たちに連絡を取ったのだった。揃っているんだよ、わたしたち。ねえ?
 スマホを素早く操作し、相手達からの返信がないことを確認する。メールが届いていないわけがない。だけど、連絡が返ってこない。
 スマホをバッグに入れた時、ぶるるんと振動が走った。ラインの通知だ。恐らく、「たんぽぽサークル」の連絡だろう。愛華は小学六年の時から手話を学び始めた。どうしてだか分からないが、障害のある人に接近していった。それまで敬遠してきた存在だったのに、自分の中でなにが起きたのか分からないまま、「善」の道に愛華は歩を進めた。そのあたりからだ、香織や真鍋、瀬川の正義グループがバラバラに解体されていったのは。

 「善」の道。
 人が変わってしまったかのように進んでいった。なにかがあって、自分が変わった。たぶんそれは愛華だけではない。真鍋も瀬川も変わったーー香織は相変わらずだったけれど。
 (そうね、黒歴史だった。あんなふうに人を虐めていた仲間同士、連絡を取り合うのは嫌に決まっている)
 返事は来ないだろう。そうだ、それでいい。
 実は愛華はほっとしているのだった。今日もメールの返事がない、きっと明日もないだろう、そのうちメールの確認をすることすら忘れてしまう。そうなるはずだ。だから、不安がることはないのだ。

 (いや、そのうち返事が来るよ。絶対に返事は来るよ)
 車に乗り込みながら、愛華は心の中でむくむく頭をもたげる、あの、三日月のように口角をあげた奇怪な何かの存在を感じた。落ち着きなく、愛華は咳ばらいをした。
 
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