ひとりたりない

井川林檎

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 その寺は、上梨町の山の方にある。
 山といっても、キャンプや登山口のようなものではなく、民家もまばらながらにあり、辺りには田畑が広がる牧歌的なものだ。
 車が坂を上がるにつれ、建物は見られなくなってゆく。それでも、この道はきちんと整備されており、時々大きな車が通った。夏休みの昼間などは、ここをウォーキングするために訪れる人も多い。
 しかし、今は夕方だ。
 怜は、寺から少し離れた場所にある駐車場に車を停めた。
 駐車場は竹やぶに面していた。やぶは、昼間の熱狂的な暑さに比べれば僅かに涼しくなった風にそよいで、さわさわと音を立てている。
 夏の夕暮れは、それほど暗くはなかった。だが、明らかに昼間と違うのは、影の濃さである。

 竹藪の中は暗黒に支配されているようで、怜は思わず、そっとやぶから目を逸らしたのだった。

 道を横切る。
 少し歩いたところに、上梨町で一番古い禅寺「上梨寺」の入り口があった。
 寺の敷地は広く、長い並木道を通らねば門にまでたどり着けない。それは天をつくほどの高さの杉が並んだ杉並木であり、斜めに歪んだ影を、砂利の小路に長く果てしなく落としているのだった。

 並木道を前に、怜はポケットからスマホを出した。
 大友優は、ここに来るよう指示を出してきている。
 長い杉の影が縞模様になった砂利の小路を、怜は見据えるーーどこにいるのかーー杉の影に隠れているのかもしれないし、寺の門をくぐった先で待っているのかもしれない。
 いずれにしろ、相手がこの広い敷地のどこにいるのかを把握しておきたかった。怜はスマホを開いた。

 「着いたよ。どこに行こう」

 短いメール文を送った。
 これがラインだったら、もっとスムーズだったのかもしれない。メールは酷くもどかしかった。送信して、うんざりするほど長い時間が過ぎ、やっと返信が来た。

 「十三本目の杉の影を見て」

 謎の言葉だった。
 十三本目の杉とは、並木道の入り口から数えて十三本目ということだろう。何を言いたいのかともどかしく思ったが、今はとにかく、相手の言うとおりにするべきだと怜は思った。

 杉と杉の間には、風化した小さな地蔵が立っている。全部で地蔵は何体だろう、と、怜は思う。並木道の左右に、地蔵はずらりと並んでいる。
 一本目、と、怜はゆっくり砂利道を踏んで進んだ。

 「大友君」
 誰もいない並木道に向かい、怜は呼び掛けてみる。もちろん、返答はない。
 「大友君。来たよ。出てきてくれる」

 ざざ。
 風が流れてきた。並木道の向こう側、山手のほうから風が入ってきて、杉は高いところにある枝葉を揺らした。ばらばらと細かな葉が降ってきて、怜は一瞬、目を閉じた。
 その時、確かに、肩に誰かの手が触れた。

 「大友君」
 怜は目を開いた。右肩を掴まれた感触が残っている。しかし、そこには誰もいなかった。
 
 くすくす。
 うふ、ふ。

 並木道のあちこちから、小さな声が聞こえた。子供のあどけない笑い声だ。
 かくれんぼをしているかのように、楽しそうに笑っている。

 くすくす、くす。
 ふふふ、うっふふふふ。

 怜は目を閉じた。思い込みによる幻聴ならば、これで消えよと念じた。再び目を開けた時、並木道は静かな様相を呈していた。笑い声は消えており、ただ清浄な空気が辺りを支配していた。

 ごうん。

 鐘が鳴った。本堂の方に鐘衝き堂がある。確か、自動で鐘が衝かれるものだ。ごうん、ごうん、ごうん、ごうん、ごうん。
 鐘は六つ。
 六時だ。

 「大友君、みいなを迎えに来たの」
 怜は喋りながら歩く。
 杉は二本目、三本目と過ぎた。
 「大友君」

 いつの間にか、十三本目の前まで来ていたのだろう。怜は、杉の濃い影を踏んでいた。大友君、と、呼びかけた時、突然すとんと、視界が途切れた。
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